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連載・特集

『生きて』 ドキュメンタリー作家 磯野恭子さん <3> 江田島育ち

理想追う母 人生の手本

 母(ハツ子さん)は私が小学5年生、10歳の時に亡くなった。呉市阿賀の造り酒屋の娘で、江田島へ嫁いできた。田舎の生活が寂しかったんでしょう。戦前は毎月のように、私を連れて広島の祇園にある呉服店へ通っていました。食事もパンにバター、そしてコーヒーが出た。とてもモダンな生活だった。

 祖父の住太郎さんは江田島を飛びだし、ハワイで財を成して昭和初期に島に戻った。父の茂さんはハワイで生まれた

 母は私の生き方の根本になった。絶えず進歩を続け、希望を持って努力する大切さを体で教えてくれた。

 例えば、家のトイレの場所にこだわった。当時の多くの農家は玄関近くにトイレがあったけれど、目立たない家の裏側に移した。着物をほどいて、私の洋服をよく作ってくれた。女の子に服を作るのを喜びにしていて、私もそれを着るのを喜びにしていて。

 それは、田舎にいても、女であっても、理想を持って前に進む生き方だった。地域のしきたりを超えて、好きな生活様式を組み上げる姿を私は誇りに思えた。ただ、島で母の振る舞いが許されたのは父方がハワイ帰りだったからだと思う。戦争末期の極端に暗い時代を考えると、当時は私の揺籃(ようらん)期(幼少時代)で一番華やかな時だった。

 1942年に祖父が、44年に母が相次いで他界した

 父はおぼっちゃんでした。祖父の財産があったので、生きる厳しさを知らなかった。子どもを残して妻に先立たれ、おろおろしていました。

 父は自給自足の農業をしながら、祖父が亡くなった後は機帆船での輸送業もしていた。宇品の暁部隊の荷物を北九州などへ運んでいたみたいですよ。

 宇品に拠点を構えた旧陸軍船舶司令部。通称、暁部隊は兵士や食料を戦地へ届ける役割を担った

 食事中に父は宇品の様子を話していた。当時、江田島からの船は宇品港の近くで窓の外側に幕を下ろされ、軍港がどんな状況なのか私たちには分からなかった。それが、父の話で伝わる感じだった。

 戦地に赴く人の悲壮な最後の言葉を聞かされ、日に日に輸送物資が少なくなっていることも教えてもらった。国内への空襲が始まる前だったけど、私は日本が急難を迎えたなと子ども心に思い始めました。

(2010年12月2日朝刊掲載)

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