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連載・特集

『生きて』 ドキュメンタリー作家 磯野恭子さん <4> 家族の被爆

学業そっちのけで看病

 あの時、私は防空頭巾をかぶって、江田島の高田小に登校中だった。ものすごい光と大きな音があったので、田んぼのあぜ道に伏せた。遠くに大きな雲がもくもくと立ち上がるのが見えました。

 1945年8月6日。病院に通うため、島を離れて広島市の舟入の親戚の家に預けられていた当時1歳の弟暠(あきら)さんと、付き添いの伯母シズヨさんが被爆した

 島の人たちは最初、広島のガスタンクが爆発したと話していた。けれど、広島から大けがをした人たちが次々と船で島へ帰ってくる。「地獄のようになっている」と聞いた父が2人を捜しにいった。

 父は2日くらい捜して、神社で2人を見つけたらしい。戻ってきた2人を見て、命が駄目だと思った。伯母は手足の骨を折り、顔も包帯でぐるぐる巻きにされて目だけがぎょろぎょろしている。弟はやせ細り、重湯を飲ませても下痢をする。わが家で懸命に看病したけど、一向に良くならないんです。

 終戦は学校で先生から聞いた。海軍兵学校の近くで育った軍国少女だったけど、もう悔しいとか思わなかった。国のことよりわが家の大変な状況で頭がいっぱいだったから。

 2人は9月に家から4キロ離れた病院に入院した。私も身の回りの世話のために病院に泊まり込み、学校へ行けなくなった。あのころは病院食がないので、食事の準備や洗濯に追われた。伯母が「痛い痛い」と悲鳴を上げるのが恐ろしかった。肉体的にも精神的にもくたくたでした。

 快方に向かった2人の退院を受け、年明けから通学を再開した

 生前の母の思いを継いで、私は広島の第一県女(県立広島第一高等女学校)を目指した。同じように女学校を受験する6年生10人くらいで放課後に学校で補習を受けていました。毎日3時間くらいですね。

 あのころは本当に楽しかった。冗談を言って笑い合ったり、自分たちで料理したお弁当を食べ合ったり。戦争も終わっていましたしね。

 46年春、第一県女に入学。旧陸軍被服廠(しょう)の倉庫を転用した校舎で学んだ

 広島は何もない焼け野原で、母と通った私の記憶とは異次元でした。灰じんに帰した裸の町、大きな建物を残してみんな吹っ飛んだがらがらの町でのスタート。本当に寂しい門出ですよね。

(2010年12月3日朝刊掲載)

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