×

連載・特集

『生きて』 ドキュメンタリー作家 磯野恭子さん <7> アナウンサー

現場への興味募らせる

 同期(1959年)入社のテレビアナウンサーは男性1人、女性2人の3人でした。私以外の2人は入社前、東京にいて標準語がきれいに話せる。私の広島弁はアクセントがきつく、直すのが苦しかった。

 私たち3人はまず、民放連(日本民間放送連盟)が東京で開いた長期研修会に参加した。ニュースの読み方を丁寧に教えてもらった。

 講師陣はキー局のアナウンサーが務めた。50~60年代の平日15分の帯番組「婦人ニュース」の司会者、来栖琴子さんの姿もあった

 女性講師は来栖さんだけでした。放送とは何か、番組を受け持った自分の行動はどうあるべきかという心構えを教えてくれた。技術面を重視する男性はあまりおっしゃらないことで感心して聞いていた。

 来栖さんはインタビューもできて、ニュースも立体的に報じることができる。男女の区別なく報道しなければならないとか、性を超えて真剣に仕事をやらんといけんという話もされ、身近な女性の先輩として見習っていきたいと思った。

 研修では、国会や都内の美術館、球場での取材方法もみせてもらった。地方ではつかみにくい取材力や構成力といったディレクター的な要素を中央で学べたのは、番組制作を目指す自分にはとても良かった。

 当時は、全国の民放がテレビ放映を始めたばかり。ラジオ山口(現山口放送、周南市)も自社番組は少なかった

 テレビアナだけど、駆け出しのころはテレビの仕事はなかった。ラジオで1時間ごとにコールサインを読むのが最初の仕事。「こちらはJOPF…」って言うあれです。

 時間が余れば天気予報も読んだ。少ししたら、短いニュースを読ませてもらう。求められたのは、とにかく自分の気持ちを抑制したアナウンスメントでした。今はアナウンサー個人をアピールするアナウンスも必要だけど、当時はとにかく空気のような存在になれと徹底された。

 同期の女子アナ2人では、もう1人がおしとやかで言葉遣いも美しい。私は野性味があったのか、現地リポートが多かった。それが楽しかった。スタジオで原稿を読むより、現場の臨場感を伝える方が良い。ことあるごとに人事当局に、制作へ移りたいとアピールしていましたよ。

(2010年12月8日朝刊掲載)

年別アーカイブ