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連載・特集

『生きて』 ドキュメンタリー作家 磯野恭子さん <8> 現場

日常生活基に問題提起

 アナウンサーとしての山口放送(周南市)入社から3年。1962年に念願の制作部門への異動を果たし、ラジオ番組を手掛け始めた

 テレビドキュメンタリーを作りたいとの入社前からの思いは変わらなかったけれど、テレビの女性ディレクターがいない。テレビが新しい職業といっても、仕事の分担は男女平等じゃなかった。そこには古い男性社会があったんです。

 女性は自ら進んで成果を出して、男性陣にメッセージを送らないと認められない。まずは、ラジオで実績を上げようと必死に頑張りました。

 ラジオ取材は女1人でもできる。重いデンスケ(録音機)を肩に掛けて、現場を駆け回りました。山口国体(63年)でも、水泳会場だった宇部市のプールで選手や関係者への取材をしましたよ。国体会場には長机が並ぶ記者席がありました。当時の写真を見ると私以外の女性はゼロですね。まだまだ、そんな時代です。

 ラジオのドキュメンタリーは山口放送や中国放送(広島市中区)など瀬戸内海沿岸の局で、番組を交換し合って放送していました。私は、増強の道を歩み始めた米海兵隊岩国基地を最初のテーマに選んだ。戦闘機が飛び交う基地近くの川下地区の暮らしの変容と市中心部の無関心ぶりを「爆音」のタイトルで伝えました。63年のことです。

 中山間地の過疎問題を取り上げた70年ごろの「火吹き竹と老婆」が中四国の民放ラジオ番組の年間コンテストで1位に選ばれた

 錦町(岩国市)の独り暮らしの老婦人の大みそかを取材した。都会へ出た3人の息子と孫の帰りを楽しみにしている。私も婦人の家で一緒に待ちましたが、その大みそかには1人も戻らなかった。

 取材では私からは何も語らず、ただ粘り強く婦人にマイクを差し出していた。婦人が火吹き竹を吹いて火が燃えるボウボウという音が入る。紅白歌合戦のさざめきもマイクが拾う。そして除夜の鐘。婦人は時折、寂しさや悲しさをつぶやいた。都会の成長と山奥の過疎を対比させたと評論家に褒められました。

 人々の日常生活の中から社会問題を訴える手法をラジオ番組の制作で身に付けました。取材相手の尊厳を守り、誠実に向き合って築く信頼関係が欠かせなかった。取材相手に一方的に入り込んでいく最近の一部マスコミの姿勢はどうかと思います。

(2010年12月10日朝刊掲載)

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