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連載・特集

『生きて』 ドキュメンタリー作家 磯野恭子さん <9> 映像の世界

加藤老事件で自信得る

 ラジオである程度実績を上げている時に、テレビの男性ディレクターが異動になった。私にやらせてと手を挙げたら反対されなかった。やっとテレビに移れた。最初の作品はラジオのころから取材を続けていた題材を選んだ。山口市の県原爆被爆者福祉会館(現県原爆被爆者支援センター)ゆだ苑です。

 1971年8月に放送された番組「この祈りを」。ゆだ苑専務理事だった故永松初馬さんを追った

 戦後、四半世紀が過ぎて山口では被爆者が遠い存在でした。平和を願う運動がなかなか市民のものになりにくい。その中、原爆とは無縁の大学の先生や学生が建設したゆだ苑が孤軍奮闘している。マスコミとして応援したくて、よく行っていた。

 広島で被爆した永松さんは、「助けて」と言う子どもたちを見捨てたとの負い目から、山口の被爆者の平和を支えたいとの信念を持っていた。ゆだ苑に泊まり込んで運動する姿をニュース調に描いた。山口にもヒロシマがあり、私たち市民が何をするべきかを映像で問いたかった。

 76年の全国放送番組「ある執念―開くか再審の道」は、日本民間放送連盟賞のテレビ社会番組部門で優秀賞に輝いた

 (冤罪(えんざい)として)有名な加藤老事件です。(強盗殺人事件で)長く服役した老人が6回も裁判所に無罪を訴えている。新聞で(75年の)広島高裁への再審請求を知り、殿居(現下関市豊田町)の自宅を訪ねました。

 家の中は(事件があった)大正時代のようなたたずまいなんですよ。白い電化製品がない。かまどで火を起こし、山からの水を筧(かけい)で受けて洗濯している。罪人として、周囲からも孤立しているのも分かる。行くと、3時間もとうとうとしゃべるわけですよ。怒っている。理由を知りたいと取材を始めたんです。

 図書館で大正時代の新聞を何時間も書き写した。焦点の血痕についても医者に尋ね、再審決定の直前に放送しました。法廷での争いを覆す証拠の映像化は本当に難しかった。

 私にとって初めての全国放送。系列キー局ディレクターだった池松俊雄さん(76年度日本記者クラブ賞受賞)に事前にみてもらうと「私から何も助言することはない」と言ってくれた。お墨付きをもらって、自分はテレビでやっていけると思った。

(2010年12月11日朝刊掲載)

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