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連載・特集

『生きて』 ドキュメンタリー作家 磯野恭子さん <12> 中国残留婦人

執念の放送で国動かす

 私が手掛けた最後のテーマは中国残留婦人です。「五族協和」(「満州国」建国時に日本が使った理念)の先兵として国策で中国へ送られた女性が日本に帰国できない。その女性たちの身の上には略奪、身売り、そして裏切りがあり、中国で果てようとしていました。何とか祖国へ帰し、終戦を迎えさせたかった。

 1986年から92年にかけて、中国へ繰り返し渡った。87年放送の「祖国へのはるかな旅―ある中国残留婦人の帰国」は、文化庁芸術祭の芸術作品賞に選ばれた

 86年5月の新聞記事で残留婦人の存在を知り、取材を始めました。最初は、婦人7人の一時帰国を目指す東京の若者に密着しての放送を考えたが、若者の試みが失敗しました。

 翌年2月の全国放送が決まっていました。取材できずに、真っ黒で流すわけにはいかない。そこで、私たち山口放送(周南市)がこの7人の一時帰国に取り組んだ。中国の役人に掛け合って許可をもらい、放送3カ月前に何とか中国へ渡りました。

 7人の一時帰国では七つの取材クルーが追い掛け、それぞれの姿を伝えました。婦人の日本への思いは熱いが受け入れる側はクールだった。空港に家族が迎えに来たのは1人だけ。多くの人が家にも入れず、用意した宿に泊まってもらいました。

 「祖国への―」の放送をきっかけに88年、山口県内で「中国残留婦人交流の会」が設立された

 私も含めた9人が理事になりました。中国で残留婦人に会い、思いを聞く。自分たちが身元保証人となって一時帰国を実現させ、全国でシンポジウムも開きました。残留婦人の自由な帰国を求める署名も集めて、厚生省(当時)に陳情しました。私は現実を知らせようとドキュメンタリーやニュースに何度もまとめた。

 93年3月には「大地は知っている―中国へ残された婦人たち」が再び芸術祭芸術作品賞を受賞。10月、厚生省が永住帰国の希望者全員を受け入れる方針を決めた

 放送が運動になって、運動が一つの行政を動かした。3千人くらいいた残留婦人のほとんどが祖国へ帰りました。もう放送の執念ですよ。

 会の政治的な運動も終わった。今は毎年10月に、瑠璃光寺(山口市)で婦人の慰霊祭を開いている。熱心だった会長が立てなくなり、今年、私が会長を受けた。慰霊祭も終息させるか、大きな転機にきています。

(2010年12月18日朝刊掲載)

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