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連載・特集

『生きて』 政治学者 北西允さん <4> 九大「細胞」

GHQもじりデモ行進

 京都府立医科大を辞めた1948年、福岡に戻り、九州大に入学する

 法学部の政治専攻です。最初から政治学をやろうという意思があったわけではない。法律専攻は法律科目ばっかりだが、政治は経済の単位も取る。就職の時につぶしが利くんじゃないか、という気持ちがあった。

 マルクスを読み始めたのは九大に入ってから。向坂逸郎さん(「資本論」の翻訳者で経済学部教授)の講義も聴いた。随筆はうまいのに講義は「資本論」並みに難解でした。

 帝大から新制大の切り替え時期で教養課程はなく、今中次麿さんと具島兼三郎さん(後に長崎大学長)のゼミに入りました。講義は普通1回100分で週2回なのに、今中さんは「自分はそれでは足りない」と週3回やった。冗談一つ言わないが名講義でね。僕は太刀打ちできないくせに議論をよく吹っかけました。

 反ファシズムの道を模索した今中氏は、41年に著した「政治学」が発禁処分を受け翌年に九大を辞職。46年復職を果たしていた  国際政治サークルをつくり、共産党員の仲間に誘われ49年入党した。僕は姑息(こそく)な手段で入営を免れた。これからは個人の意思や知恵とかじゃなしに、党を中心に組織的に戦争を防がなくてはならないと考えたからです。GHQ(連合国軍総司令部)による占領時代、党員になるというのは極端に言えば命までささげる覚悟が要った。九大「細胞」(支部党員)が集まると大教室がいっぱいでした。千人はいたでしょう。僕は大学図書館のバルコニーでアジ演説もした。

 そしてメーデー(5月1日)にGHQをもじって「Go Home Quickly」(直ちに出て行け)と僕がプラカードに書き、九大グループでデモに参加した。当時アルバイトをしていた農林省の食糧事務所員らの後を歩くと、彼らからプラカードを川に投げ込まれた。占領軍批判は逮捕される恐れがあった。

 50年に朝鮮戦争が起きると、ジェット戦闘機が板付飛行場(福岡市)から出撃した。板付を機能まひに陥れたら朝鮮人民が殺されるのが少なくなる、と話し合いました。学生の気楽さもあったかもしれない。しかし卒業したら労働運動家になる、と決めました。

(2013年4月12日朝刊掲載)

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