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連載・特集

『生きて』 政治学者 北西允さん <5> メーカー社員

運動家目指すも…退社

 九州大を卒業した1951年、宇部興産(宇部市)に入社する

 メーカーで労働運動をしようと思い、あちこち受けたが駄目。学生運動をしていたので思想調査ではねられた。一方、僕は九大ラグビー部のバイス(副)キャプテンをしていた。部長で工学部の葛西泰二郎教授に「宇部興産でどなたか知りませんか」と頼んだら、推薦状を書いてくれた。それで受かったわけですよ。

 入社した年、興産ラグビー部は広島鉄道局を決勝で下し、初めて中国地方大会を制した。自分で言うのも何だが割と名フルバックでした。

 配属は工業本部管理第一課。前年にGHQ(連合国軍総司令部)によるレッドパージがあり、組合活動は停滞していた。窒素、セメントなど多角企業の興産は事業所別組合で、全体の興産連を率いたのが太田薫(後に総評議長)です。

 太田らが事業所間の賃金格差の解消を求めると、指名解雇を通知された。窒素工場がストライキを打っても本社の組合は同調しない。僕は労働運動をするために入社したんだから、協力しなければと思いました。

 会社側はストを切り崩すため夜、窒素工場の社宅へ説得に来る。それを阻止するピケを張るのに加わった。そこで女房になる英子と話すようになった。隣の課にいた英子と清掃係のおふくろさん、宇部港警備員の父親が社宅に住んでいました。

  興産社史の「中安閑一伝」(84年刊)は、朝鮮戦争による特需の反動で硫安業界は厳しい合理化を迫られたと記す。窒素組合は52年2月22日ストに入り、53日間続いたストは組合側の勝利で終わった

 これも僕の行き当たりばったりの人生なんだが、ストの応援をするうち会社を辞める気になった。僕は飲めないけれど新米だから、どぶろくを買いに行かされる。そして「赤線(特殊飲食街)に行こう」と誘われる。労働運動をする者が金で買うのは許されないという態度をとった。お高く止まっている、帝大出はいずれ会社側に回ると見られた。仲間としっくりいかなかった。

 結局は興産を1年で辞め、九大大学院に入るわけです。付き合い始めた英子から「あなたは学者向きよ」と言われた。その勧めも効きました。

(2013年4月13日朝刊掲載)

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