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連載・特集

『生きて』 政治学者 北西允さん <7> 広島大教員

大学人の会運営を担う

 米軍水爆実験によるビキニ被災が起きた1954年の11月、広島大政経学部に助手として赴任した

 校舎は江波の広商(中区舟入南の県立広島商高)を使っていた(57年、東千田町へ移転)。助手のポストを用意してくれた今中次麿さんは、住むところも世話をしてくれた。吉島(中区吉島東)の今中さんの真向かい、実は家主でもあった。

 夫婦で夕食にしょっちゅう呼ばれ、将棋も指した。将棋は僕の方が強く負け惜しみを言う。気兼ねがなかったのは、今中門下でも僕くらいだったでしょう。だから「『大学人の会』を手伝ってくれ」と頼まれた時も、お高くとまった名前だなあと思ったけれど、すんなり受けました。

 正式には「平和と学問を守る大学人の会」です。52年に破壊活動防止法ができ、治安維持法の再来と危機感を覚えてつくった。僕が入ったころは今中さんが代表、(理学部教授の)佐久間澄さんが事務局長で、会員は150人くらい。広大が中心ですが、女子大(現県立広島大)や広島女学院大の人もいました。

 「大学人の会」は53年結成され、翌年には論集「原爆と広島」を発刊。森滝市郎、中野清一、原田東岷、庄野直美ら被爆地の平和運動をリードする各氏が寄稿した

 実務は、文学部の横山英さん、教養部にいた山田浩さん、そして僕。楷書を読みやすく書ける僕は会報のガリ刷りも担い、「ガリ版キラー」と自称していました。活動費は、広教組の支援がありました。旧教育会館が東千田町(中区)の広大近くにあり、「大学人の会」が教研集会や学習会の講師を安い謝礼で務め、寄付を定期的にもらった。

 広島に来て驚いたのは、学者を大事にする、例えば広大の先生はいちげんでもつけで飲める。博多は伝統的に商売人が強く、九大(箱崎キャンパス)は街の東端をふさいで発展を妨げている、と言われていた。しかし「大学人の会」が記者会見して声明を出すと、新聞は大きく扱う。広大の雰囲気は保守的だったが、会は啓蒙(けいもう)団体として影響力をそれなりに発揮したと思います。

 ビキニ被災で原水爆禁止の声が全国的に高まり55年、広島で初の原水禁世界大会が開かれますよね。僕も積極的に手伝うことにしました。

(2013年4月17日朝刊掲載)

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