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連載・特集

『生きて』 政治学者 北西允さん <8> 原水禁世界大会

草の根の合唱にも感動

 原水爆禁止運動は今でいう草の根からの運動として起こった。1954年3月1日のビキニ被災を機に東京・杉並公民館から始まった署名は全国へと広がり、3200万人を数えます。だが、文言は被爆者援護に触れていなかった。そこで原水爆禁止と被爆者救援は運動の両輪であると位置づけ、世界大会を開こうという発想は広島から出たんです。

  「大学人の会」代表の今中次麿さん、事務局長の佐久間澄さんらが大会準備に大きくかかわった。広島で初の国際大会でもあった。ただ、僕は被爆どころか空襲体験もない。下働きに徹しようと思いました。

 原水爆禁止世界大会は55年8月6日、平和記念公園にあった市公会堂で始まり、海外から14カ国の代表も参加。市民を含め約3万人が「歓迎と祈りの国民大会」も開いた

 記録を残すために「共同デスク」をつくり、これには山田浩さんが積極的にかかわった。一方で、国際大会につきもののフランス語の同時通訳がないとクレームを受け、走り回ったけれど用意できなかった。しかし、分散会場も熱気にあふれました。最終日は、「原爆を許すまじ」を作曲した(都立日比谷高教諭の)木下航二さんの指揮で合唱した。伊藤満さん、庄野直美さんらとひな壇で歌いました。感動しました。

 それまでの平和運動は、共産党系の反帝闘争が主でした。僕も九大時代に参加したストックホルム・アピール(50年の原子兵器絶対禁止署名)もそう。ヒューマニズムを基調に掲げた原水禁運動は幅が広い。世界大会のために町内会も募金活動をした。幅は確かに広いけれど、どこまで続くだろうかとも思いました。

 大会は8月8日、原水爆被害者の救済運動も呼び掛ける大会宣言を採択。翌9月には原水爆禁止日本協議会が発足する

 広島県原水協ができると、「大学人の会」からは佐久間さん、庄野さん、会合にはあまり出てこなかったが森滝市郎さんが役員で入りました。被爆者が中心です。僕は、大学でも物事が順風満帆な時は執行部に呼ばれない。暗礁に乗り上げると声が掛かる。原水禁運動をめぐり社会、共産両党の対立が顕在化する62年、伊藤さんの下で県原水協事務局次長を務めるようになります。

(2013年4月18日朝刊掲載)

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