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連載・特集

『生きて』 政治学者 北西允さん <12> バリケード封鎖

警察力で解除 心におり

 広島大のバリケード封鎖は1969年、広島市東千田町(中区)と霞(南区)の各学部に広がる

 僕が学長候補として目星を付けた(医学部教授の)飯島宗一さんは、学生委員会の副委員長で、見識があり話術にもたけていた。広大全共闘を率いるセクトがいかに理不尽な要求をしているのかを団交で一般学生に分からせ、両者の間にくさびを打とうと思った。

 飯島さんは名古屋大から来て間もない40代で全学的には無名。彼の病理学研究室を訪ねると、教授ら5、6人が集まってきて「研究が大事な時に犠牲となる必要はない」と反対した。それで僕はこう言いました。

 団交はしばらく続けるが機動隊を入れて封鎖解除をするしかない、その責任をとって辞めれば長い期間にはならない。彼と2人きりになると、引き受ける感触を得た。学長候補の5人に入るよう工作し、助手以上が選ぶ選挙で圧勝しました(学長就任は5月7日)。

 封鎖は教養部から(2月24日)始まり、各学部での団交が決裂すると理由を立て看板に書いて封鎖に入る。ところが政経学部ではそれをせずにやろうとした。僕は「大義名分も書かずにするんじゃない」といったん追い返して、一人で宿直室に泊まった。そうしたら、もっともらしい理由を立て看板に書いて(4月22日)封鎖に入りました。

 全共闘運動は、国立大75校中68校に広がり、政府・自民党は自主的に収拾ができない大学は教育研究機能を停止させる「大学運営臨時措置法」を強行採決。広大は対象となり8月17日、県警機動隊など約1200人が封鎖解除に導入された

 政経校舎には、「解放の政治学」と名乗った僕のゼミ生らも立てこもっていた。前日に「機動隊が来る」と告げたら全員退去した。当日は東千田町の路上に座り込んで「落城」を眺めていました。

 機動隊導入には非常に抵抗感があった。権力を使って弾圧するのはやはり許されるべきことではない。僕は逮捕された学生の身元引き受け人となり、裁判では弁護側証人にも立った。彼らが90年代に手掛けた反戦署名運動では、広島の代表を務めました。周囲からは「何で応援するのか」と言われたが、罪の意識というか、心におりがあったからです。

(2013年4月24日朝刊掲載)

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