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連載・特集

『生きて』 政治学者 北西允さん <13> ヒロシマ行動

党派超え20万人が集う

 在外研究員として滞在した英国で1971年、党派を超えた反核運動に参加し、被爆地からの新たな研究や運動の再興に取り組む

 英国へ行ったのは、主に労働党の研究ですが、核廃絶への手掛かりや戦略も探ろうと思ったからです。ロンドンを拠点にCND(核非武装運動)の事務所にも出入りしました。

 CNDは哲学者のバートランド・ラッセルが国教会司祭や死刑廃止運動家らと58年に始め、今も続いています。英国が保有する核兵器を一方的に廃棄することで核廃絶を推し進め、軍拡競争の発想を逆転させようと提唱した。内部対立はあっても市民運動として共感を集めていた。

 デモに参加すると、CNDの隊列に共産党の赤旗やクエーカー教徒のプラカード、毛沢東の肖像画も混じって行進する。共通の目的を達成するには共に行動することが大切だ、とあらためて痛感させられました。

 僕は、原水禁運動の分裂で(65年新たに発足した)共産党系の広島市原水協の会長に就いたが、社会党・総評系の原水爆禁止日本国民会議(同年結成)を「分裂主義者だ」とする見方にはくみしなかった。それが規律を乱しているとなり、円満退職というか65年に党を離れた。

 それだけに77年の禁・協による「5・19」合意は素直に感動しました。14年ぶりの統一世界大会からは、地元実行委の共同議長を(広島女学院大教授の)庄野直美さんと務めた。庄野さんは無党派だが、離党者の僕にも異論は出なかった。統一の必要性を論文に書いたり、講演で唱えたりしたが、反党活動をしてきたわけではないですからね。

 81年には「大学人の会」を再開して代表を務め、翌年の第2回国連軍縮特別総会(SSDⅡ)に提出する反核3千万人署名運動にも協力した。総評が市民団体と呼び掛けた「平和のためのヒロシマ行動」の代表幹事を引き受けたのは、僕にとっては自然の流れでした。女房や知り合いを巻き込んで演説をすべて書き起こし、記録集も発刊しました。

 82年3月21日、広島市内6カ所の会場に約20万人が結集。「考え方や国の違いを超え、核兵器をなくす目標に向かって力を合わせよう」とのアピールを採択した。被爆地で今も最大規模の反核集会となった

(2013年4月25日朝刊掲載)

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