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連載・特集

『生きて』 政治学者 北西允さん <14> けんか相手

平等追求し最期みとる

 広島大や広島修道大で43年間勤めた。研究・教育と運動、そして家庭生活をどう両立させたのか

 大学教師ってのはわりと自由業ですよ。ところが広大法学部長の時(1985年)、広島市に世界的な非核自治体運動への参加を求めるデモ行進の先頭に立った。それが批判されたので、「学部長は仮の姿だ、文句があるなら辞める」と答えた。修道大では学長代理(89~90年)も務めたが向いていなかった。論争好きだし、机に向かうタイプじゃない。

 ただ、学生には自分の思想を押しつけなかった。考えが右寄りでも筋が通っていればいい。就職は、マルクス主義たらんとする僕のゼミより体制派の教師に行った方が有利。だから学生が望む道が開けるよう就職の世話は人一倍努め、経済界の連中に頭を下げたこともある。職業的な責任は自覚していましたね。

 英子と結婚した時は、「自分で社会の窓を開けろ」と諭した。男女平等を追求して掃除は僕、食事もよくつくった。外ではえらそうなことを言いながら亭主関白のマルキストを見ていましたからね。彼女が64年ソ連を1カ月ほど訪れ、広島とボルゴグラードの姉妹都市縁組(72年)の露払いをした時は、息子を連れて県原水協の会議に参加していました。

 米国に住む被爆者へのインタビューでは現地で通訳もしました。しかし、家庭の業務はすべて半々にしろと求められた時は、「言い過ぎだ」「そういう考えが古い」とやり合った。けんかもよくしました。

 女房は極端な医者嫌いでね。体調の異変に僕が気付き無理やり連れて行くと、子宮がんが転移していた。手術は難しいと言われました。家に連れて帰り3カ月間、朝昼晩めしをつくり、下の世話もしたが、頼み込んだ病院で死にました。

 山口県須佐町(現萩市)出身の北西英子さんは99年、70歳で死去。「広島女性史研究会」をつくり「ヒロシマの女たち」などを刊行した

 僕は女房に依存しなかったし、鍛えられたから一人暮らしは苦にしない。しかし要支援認定者となり、ヘルパーさんに週3日来てもらっても家事は年とともにしんどくなる。それで介護付き老人ホームに入ることを決めました。そこが終(つい)のすみかになると思っています。

(2013年4月26日朝刊掲載)

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