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連載・特集

『生きて』 洋画家 入野忠芳さん <3> そろばん

猛練習で自尊心を回復

 1946年春、牛田小(広島市東区)に入学する

 まだ街中に焼け跡の臭いが残っていたように思う。怖い夢によくうなされた。赤い布みたいなものがゆらゆらと近づいてくる夢。牛田山から見た、街を包む原爆の炎の化身なのかもしれない。

 白っぽい半透明の、とろんとした便が続いたこともあった。「この子、原爆病だろうか。駄目だろうか」という両親の会話が耳に入り、不安だった。

 学校では、ひどく引っ込み思案でした。当時の写真を見ると、たいてい一番後ろに隠れるように写っている。体育の時間が苦痛でね。鉄棒や跳び箱など、右手だけではできっこないのにやらされる。劣等感を抱え込んだ。放課後、山や川で遊ぶ時には平気でしたが。

 自尊心を取り戻すきっかけが、そろばんだった

 当時、ブームみたいになっていた。小3か小4で、近所の子と塾に通い始めた。6級から始めたかな。劣等感を埋め合わせようと、必死だったと思う。人より上達が早かった。

 ところが、4級に合格して3級の練習に入る時、先生が「入野はもう駄目だな」と皆の前で言ったんです。えっ?となった。隣の女の子が泣きだした。

 今とは試験の仕組みが違うだろうけど、伝票算が出てくるんです。伝票のつづりを左手でめくりながら、右手でそろばんをはじく。できないだろう、と突き放された。

 意地になって、いろいろ試しました。左手の肘先につばをつけて伝票をめくってみたりね。結論としては、人より速く、右手でめくって右手ではじくしかない、となった。猛練習して、とうとう時間内でできるようになったんです。検定に一発で合格した。

 でも、これ以降、そろばんへの情熱はなくなりました。先生の鼻を明かすのが目的になっていたんだね。小学生でやめてしまった。

 幟町中(中区)に入って、絵をやるようになった。そろばんに注いだ情熱をそっちへ振り向けたんです。同級生の田部健三君から影響を受けた。今は千葉県いすみ市に住んでいる美術家たべ・けんぞう。皆が水彩絵の具しか知らない頃、彼はもう油絵を描いていた。

(2013年6月15日朝刊掲載)

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