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連載・特集

なぜなに探偵団 連載開始40周年 漫画「はだしのゲン」

▽ターゲット記事

 戦時中と原爆(げんばく)投下後の広島を生きる少年を描(えが)いた漫画(まんが)「はだしのゲン」の連載(れんさい)開始40周年を記念するイベントが、広島市中区で開かれました。作者の中沢啓治(なかざわ・けいじ)さん(昨年12月、73歳(さい)で死去)ゆかりの人によるトークや、中沢さんを追ったドキュメンタリー映画(えいが)が上映されました。

自分の体験が基 反戦反核を訴え

 漫画「はだしのゲン」は40年前の1973年6月4日号の週刊少年ジャンプで、巻頭カラーで連載が始まりました。作者である被爆者(ひばくしゃ)の中沢啓治さんが、自分が体験した戦争、原爆を基(もと)に描いています。約20の言語にも訳(やく)され、世界で最も知られた原爆作品の一つになっています。

 中沢さんは39年に広島市舟入本町(現中区)で生まれました。41年12月8日に太平洋戦争が始まった時は2歳で、戦時中はいつもおなかをすかせていたそうです。父親は、漫画と同じように、戦争に反対していました。しかし、自由に自分の意見を表現(ひょうげん)できず、反戦を主張(しゅちょう)すると町内会長が止めに来たり、警察(けいさつ)に捕(つか)まったりしたのです。

 広島に原爆が落とされた時、中沢さんは小学1年でした。神崎(かんざき)国民学校(現神崎小)の校門そばで、学校の塀(へい)の陰(かげ)にいたため助かったのです。家にいた父、姉、弟は亡(な)くなりました。母は家の2階の物干(ものほ)し台ごと飛ばされ、着地して無事でした。しかし、全てを失った中沢家の戦後は、貧(まず)しさとの闘(たたか)いでした。

 東京に出て漫画家になった中沢さんが被爆者だ、と話すと「放射能(ほうしゃのう)がうつる」と差別されました。そのため、被爆者であることを隠(かく)し、原爆の話題も遠ざけていました。「被爆」という言葉から、死体の腐(くさ)る臭(にお)いが思い出されることも嫌(いや)だったそうです。

 原爆漫画を描き始めたきっかけは、母の死でした。66年10月、亡くなった母を火葬(かそう)した時、破片(はへん)ばかりで骨(ほね)らしい骨が見つかりませんでした。「原爆はおふくろの骨まで奪(うば)うのか」。中沢さんは、怒(いか)りに突(つ)き動かされるように、原爆をテーマにした漫画を描き始めたのです。

 「はだしのゲン」の連載が始まると、「もっともっと真実を教えてください」「知りませんでした」といった内容(ないよう)の手紙が中沢さんに届(とど)きました。ただ、「残酷(ざんこく)すぎる」「気持ち悪い」との手紙も来たため、表現を柔(やわ)らかくしたそうです。74年末まで続いた連載は、75年5月に単行本として4冊(さつ)が発売されました。

 その後、「はだしのゲン」は別の月刊誌(し)で連載を再開(さいかい)。87年3月に10巻目の単行本が出て、全巻そろいました。

 新書や文庫なども含(ふく)めた発行部数は、国内で1千万部を超(こ)えています。漫画としては珍(めずら)しく、全国各地の小中学校の図書室にも置いてあります。広島市内の小学校や高校では、平和学習プログラムの教材に使われています。英語やロシア語などにも翻訳(ほんやく)、出版(しゅっぱん)されており、「ゲン」は今も反戦反核を訴えて、世界を走り回っているのです。(二井理江(にい・りえ))

≪そもそもキーワード≫

広島原爆
 1945年8月6日午前8時15分、米軍が人類史上初めて原爆を投下。原爆ドーム(広島市中区)近くの島外科内科(当時は島病院)の上空約600メートルでさく裂(れつ)した。爆心地の地表温度は3千~4千度に達した。爆風もすさまじく、爆心から2キロ以内の木造家屋は壊滅(かいめつ)的な被害(ひがい)を受け、自然発火による火災(かさい)も起き、街は焼き尽くされた。その年のうちに約14万人が亡くなったとされる。68年近くたった今も放射線の被害で苦しむ人がたくさんいる。

(2013年6月16日朝刊掲載)

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