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連載・特集

『生きて』 洋画家 入野忠芳さん <4> 絵の道へ

ゴッホの「迷い」に感動

 幟町中(広島市中区)時代から画家への道を意識し始める

 同級の田部健三君と美術部で活動しました。油絵の具は新聞配達をして買った。右手だけでも不自由なく配れましたよ。左肩に掛ける布袋のようなものを作り、新聞の束をうまく脇に挟んでね。

 初めての給料を手に画材店に向かった。「この色と、この色と、この色ください」。そう言える喜び。溶き油は近所の炭屋で買った灯油で代用した。第1作は自宅の向かいのバラックを描きました。油絵独特の匂いに感動した。

 卒業後は、いったん看板屋に就職しようとした。若い美術の先生の薦めで、田部君も一緒にね。中3の冬休み、三川町(中区)にあった店に2人でこっそり弟子入りした。ところが、母にばれて「勝手に決めるな」と叱られた。渋々、普通科の高校を受験しました。田部君は定時制高校に通いながら看板屋で働いた。

 基町高(中区)に進学する

 自分の中では、絵を描くために入ったつもり。美術部に入り、毎日、美術準備室に「出勤」してから教室に行っていた。美術の先生が教務室に机を移したので、わが物顔で使っていたね。準備室に届く美術雑誌をむさぼるように読んだ。

 2年生になる頃には部長になった。他校の美術部とも盛んに交流しました。合同でモデルを囲んだり、倉敷の大原美術館に行ったり。

 この頃見た映画「炎の人ゴッホ」に衝撃を受けました。カーク・ダグラス演じるゴッホが、宣教師になるか、画家になるかで迷うんだ。そうか、画家は宣教師と並ぶものなんだ、と感じ入った。絵というのは生き方の問題なんだ、人に対して役割を持っているんだ、とね。素朴に「絵描きにならんといけん」と思った。原爆で大勢の人が死んだ、自分はどう生きるべきか。そういう意識は当時、皆にあったように思う。

 高3になると、美大受験のためのデッサンにも打ち込んだ。小磯良平さん(洋画家、1903~88年)が広島へ講演に来た時、控室に飛び込んで、「見てください」とデッサンの束を差し出した思い出があります。小磯さんは、周りが「先生、そろそろ」とせかすのも聞かず、じっくり見て助言してくれました。

(2013年6月18日朝刊掲載)

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