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連載・特集

『生きて』 洋画家 入野忠芳さん <6> 帰郷

会社員経て画業に軸足

 武蔵野美術学校(現武蔵野美術大)を卒業後、デザイン会社に就職する

 東京・神田、明治大のそばにある会社でした。入社試験を受けた明くる日、社長が連絡もなしに僕のアパートを訪ねてきた。絵の具が飛び散った汚い部屋。気恥ずかしいが、壁に「全ては意思の問題なり」と書いた貼り紙をしていた。左手のない僕の採用を、社長は「それを見て決めた」と言っていた。

 仕事は主にテレビのテロップです。あの頃の字幕は、手書きの字を入力して画像に重ねていた。テレビ局から電話で注文が入ると、グレーの紙に白で書き、すぐに持っていく。僕が初出社した日に書いた字が、その日の夕方にはもうテレビに流れた。おおっ、と思ったね。

 先輩がうまく教えてくれたし、のみ込みは早かったと思う。きれいさよりも、抵抗なくすっと読めることが大事なんだ。レタリングの基本を身に付けた。

 勤めたのは1年間だけだった

 やっぱり画家になりたかったんです。面白かったが、画家に代わるほどの仕事ではなかった。新人なのにおこがましい限りだが、画家としての力も発揮したい、先進的なデザインを提案する創造的な会社にしませんか、と社長に直談判した。

 社長はとても誠実な人なんだ。僕に反論できず、困り果てた。社長も元は画家志望で、絵の世界から切れてもいなかった。だが、そんなリスクを急には負えないという判断だった。社員は10人もいない小さな会社だが、その生活を預かる身だからね。僕は社長を困らせるだけ困らせて、辞めてしまった。

 退職して半年余りで帰郷する

 しばらくは東京でアルバイト暮らしでした。駅に張り出す時刻表を手書きするとか、こまごました仕事。持続性はない。知人に勧められたのは、学校の夜間警備員でした。昼間を制作に充てられるぞ、と。でも、採用試験に落ちました。不審者を取り押さえるとか、いざという時に僕の体ではね。

 絵を描くのに東京にいる必要はない。ヒロシマをどう表現するかという意識も強まっていた。故郷で絵に打ち込むことに決めました。しばらく実家にいた後、近くに家を借りて再出発しました。

(2013年6月21日朝刊掲載)

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