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連載・特集

東日本大震災から3年 被災地からの手紙 ダンプ運転手 後藤恵さん

 東日本大震災から3年。被災地はどんな問題を抱えているのだろう。中国地方とつながりがあり、福島県で暮らしている人に、「いま」を伝えてもらう。

ダンプ運転手 後藤恵さん(46)=福島県南相馬市

 自宅は福島第1原発の北約20キロ。原発事故直後、放射線の影響を恐れ、家族で広島市南区に移り住んだ。当時、長女益澄(ますみ)さんは小学6年、次女諭身(つぐみ)さんは小学4年。1年半の避難生活をへて、南相馬市に戻った。

異なる背景。「支え合う」難しさ

当たり前の光景 古里でもう一度

 広島の皆さん、3年前は大変お世話になりました。たくさんのご支援のおかげで、今こうして無事に暮らしています。

 2012年8月に南相馬に戻りました。この3年を1年半ずつ、広島と福島で過ごしたことになります。

 戻ってから、ダンプの運転手をしています。各自治体は今も、津波で流れてきたがれきの分別作業に追われています。鉄、木、プラスチック類…。最後に残るのが土で、復興工事に使われます。その土を10トンダンプで運ぶのが、私の仕事です。

 海辺の写真は、毎日休憩する場所から撮りました。ここには水産工場がありましたが、津波で流されました。福島の海は震災前と同じようにきれいです。大きな産業もない、商業施設もないけれど、この海が私たちの心のよりどころでした。泳いで、釣りをして、シジミ取りをして…。いまはただ、眺めることしかできない。それが悔しいです。

 海だけじゃない。当たり前にあった「大切なもの」を失った気がします。例えば、原発事故の前はどの家庭にも小さな菜園があったんです。冬は大根、春はスナックエンドウ、夏はナスやピーマン。育てるのが楽しくて、交換し合うのがうれしくて。そんな光景が消えてしまいました。

 「支え合う」って簡単に言うけれど、いまは難しいことだと感じます。南相馬市には帰還困難区域から移り住んだ人も多く、一人一人の背景が違います。津波で肉親を失った人、家族ばらばらで暮らす人、東京電力から賠償金をもらえる人、もらえない人…。

 賠償金をもらうと「遊んで暮らせる人」という目で見られてしまう。本当は家に帰れない、傷付いた人たちなのに。人の目を恐れ、移住者の中には、車のナンバーを原発のある双葉郡などがエリアの「いわき」から「福島」に変える人もいる。心の隔たりを埋めるには、相当な時間が必要です。

 ではなぜ、福島に戻ったのか―。お世話になった広島の皆さんに、うまく伝えられるといいのですが。

 放射線被害からわが子を守るため、迷わずに福島を離れました。子どもたちを納得させる時間もなかった。非常事態でしたから。

 突然「被災地の子」となった子どもたち。懸命に新しい土地になじもうとし、いつも笑って、違和感を言葉にできなくて…。福島に、彼女たちの心を置き去りにしてきたのではないか。体を硬くこわばらせ、窮屈な思いをさせているのではないか。そんな思いが膨らんだからです。

 放射線被害の心配は尽きませんが、冷静に向き合っていくしかありません。各自が公民館に食品を持ち込み、放射性セシウムを測ってもらいます。それぞれの数値や産地、生産者名などをそこに張り出してもらい、情報を共有しています。

 長女は、幼いころから続けているトランポリンに打ち込む日々。次女は休日、お友達と60キロ離れた仙台へ映画やショッピングに出かけ始めました。いろんな事に憧れ、興味を抱く時期。生き生きと目を輝かせてほしい、と願っています。温かく迎え入れ、送り出してくれた広島の皆さんに報いるためにも。

(2014年3月11日朝刊掲載)

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