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連載・特集

海自呉地方隊60年 第2部 時代の目撃者 <1> 前史(1889~1954年) 艦船・兵器の製造拠点に

 7月1日に創設60周年を迎える海上自衛隊呉地方隊は、呉市に残っていた旧海軍施設や人員の一部を引き継ぐかたちで出発した。この間、国内や国際情勢は変化し、任務も多様化した。活動は海外にも広がっている。重大な局面に立ち会った関係者の証言を交えながら、呉地方隊と呉基地の歴史をたどる。(小島正和)

 呉地方隊と呉基地の出発点は1889年に開庁した旧海軍呉鎮守府である。

 明治維新以降、日本は欧米諸国に追い付け追い越せと軍備拡充に力を注いだ。海軍は全国を5海区に分割し、そのうち4海区に地方拠点となる鎮守府を置いた。瀬戸内海、紀伊半島から九州の一部を含む海区は、地形や良港に恵まれた呉を拠点とした。

 呉鎮守府には、造船や兵器開発を担う部署が併設され、後に呉工廠(こうしょう)となった。艦船や兵器の製造拠点として発展。大和、長門、摂津などの大型戦艦を送り出した。

 終戦後の1945年11月、海軍解体に伴い呉鎮守府は廃庁。ところが日本近海には日米両軍が敷設した大量の機雷が残る。航路の安全を確保するため除去が必要だった。

 処理に従事したのは海上保安庁などに移った元海軍兵たち。朝鮮戦争が始まった50年には、国連軍支援のため朝鮮半島沖の元山でも掃海に当たった。

 54年に自衛隊法が施行された。掃海業務を担っていた保安庁警備隊呉地方基地隊は、海上自衛隊呉地方隊として新たなスタートを切ったのだ。

大和に転属 巨大さに驚き

広一志さん(90)=呉市伏原

 1940年6月、海軍に志願、呉海兵団に入隊した。信号兵として、旗を振り他艦と交信する任務に就いた。

 戦艦加古を経て、41年の夏、大和に転属した。呉のドックで艤装(ぎそう)中でね。初めて甲板に立った時は、あまりの巨大さに驚いた。

 連合艦隊旗艦の訓練は厳しかった。突然のラッパを合図に、急いで配置に就く。スリッパの並べ方が悪いなどと、ほぼ毎日ビンタですよ。「鬼の日向か蛇の伊勢か。いっそ大和で首つろか」。そんな言葉が交わされた。

 42年5月、初陣となるミッドウェーへ出撃した。空母が何隻も並び高揚感があった。18歳にして太平洋で戦死か―。そんな考えが脳裏をかすめたが、戦闘はなく帰還した。終戦は摂津で迎えた。

 竹原に帰郷していたが、海上保安庁呉航路啓開部の掃海艇の信号員になった。210トンの木造艇で瀬戸内海や大阪湾の機雷を除去した。

 50年10月、朝鮮半島の元山沖での掃海作業に向かった。任務の内容を初めて知ったのは福岡県門司港に艇が集合した時。海域では共同作業する米軍の補給艦に横付けし、コーヒーやチョコレートをもらった。米国の豊かさを実感、戦争に負けたのは当然と思った。

 その後自衛隊に入った。呉基地警防隊や第1術科学校勤務を経て74年に退職。「死」が近かった海軍時代を考えれば平穏だったね。

(2014年4月1日朝刊掲載)

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