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連載・特集

海自呉地方隊60年 第2部 時代の目撃者 <4> 装備の充実(1970、80年代) 艦船大型化 桟橋を拡張

 旧海軍や米国の艦船を活用して歩み始めた海上自衛隊呉地方隊。第1次防衛力整備計画(1次防)に始まる軍備方針に沿って1960年代以降、陣容を拡大していく。

 海自隊の組織再編に伴い、呉基地でも艦は大型化、多様化する。54年に46隻(総計1万4933トン)で出発した艦船は、30年後の84年には95隻(同7万1489トン)になった。

 艦船の受け入れ態勢も次第に整う。係船堀地区(呉市昭和町)には、76年に長さ132メートルの桟橋Eバース、84年には旧海軍時代の桟橋を取り換えてFバース(240メートル)ができた。87年にも潜水艦用のSバースを広げた。

 隊員は技量向上に力を注いだ。冷戦のただ中。旧ソ連をにらんだ緊張はあったものの、危機感はそれほどなかったという。「遠洋航海や近海での訓練ばかりだったよ」。OBの川西稔さん(79)=呉市西谷町=は回想する。

 ベトナム戦争を契機に60、70年代、国内で反戦運動が燃え上がった。「横須賀(神奈川県)や佐世保(長崎県)に比べ、呉は平穏だった」。今も呉市史編さんに携わる市参与千田武志さん(67)は振り返る。呉にも米軍施設はあるが、海自隊の基地や街との関係がさほど密接ではなかったからとの見方だ。

 一方、86年8月、核ミサイル搭載可能な米艦が呉基地に入港。反核を訴える市民団体の運動も活発化した。

 OBの多くは「総じて安定していた」とする70、80年代。だが90年代以降、国際情勢は変化していく。呉地方隊や呉基地もその動きと無縁ではいられなくなる。(小島正和)

「核」米艦入港 抗議のデモ

NPO法人ピースデポ代表 湯浅一郎さん(64)=横浜市港北区

 1986年8月24日朝、呉基地のFバースに米軍艦メリルが入港した。夕方に駆け付けて遠くから眺めた。甲板にミサイル発射台が見えた。ミサイル「トマホーク」搭載艦という。トマホークは核弾頭装備が可能で、射程2500キロ。被爆地を抱える広島県への寄港はあってはならないことだと考えた。

 84年に発足した「トマホークの配備を許すな!呉市民の会」に参加していた。メリルが出ていく27日まで、仲間50人と基地前で抗議し、市内でデモ行進をした。呉地方総監部、呉市や県の担当者にも抗議文を手渡した。

 呉に海自隊基地があるから入港したわけで国民を核の危険にさらす役割の一部を呉基地が担うことになる。自衛隊の位置付けが本質的に変わった瞬間だった。呉市民として見過ごせないし、ヒロシマの存在も問われると危機感を持った。基地の街だから、市民は無関心かと思ったが案外共感してもらえた。

 このころ、呉基地の監視活動を始めた。潜水艦や掃海艇の動きを定期的に記録した。基地の在り方にもの申す以上、基地のことを知らないといけない。

 自衛隊の60年を振り返り、大きな転機は78年の日米防衛協力のための指針(ガイドライン)だったと思う。米軍との軍事行動が公然化。環太平洋合同演習(リムパック)などが海自隊の任務の中に組み込まれていった。

(2014年4月4日朝刊掲載)

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