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ヒストリー

ヒロシマの記録1995 8月 ①


1995/8/1
中国新聞が被爆50周年で、「ヒロシマ50年」を共通テーマに1日~7日付まで7日間連続の社説を掲載。統一テーマの連続社説は論説史上初めて。1日付は「人類は核被害に学んだか」と世界に問い掛け、6日付で「核廃絶へ確かな道を歩もう」、7日付で「生存への情熱を新時代へ」と訴え、新たなヒロシマの役割を示す
1995/8/1
被爆都市ヒロシマの戦後を振り返る「あの日あのころ ひろしま50年展」(広島市、中国新聞社など主催)が中区の広島そごうで開幕。市の被爆50周年事業の一つ。会場では中国新聞が紙上で紹介した「ヒロシマの形見」の被爆資料、遺品も実物55点、写真パネル6枚を展示。7日まで。総入場者数は4万6,867人
1995/8/1
中国新聞の半世紀の原爆報道記事を網羅した「原爆記事データベース」が入力作業の開始から2年7カ月ぶりに完成、本社内での使用が可能になる。広島への原爆投下から3日後の1945年8月9日以来、現在まで約7万8千件を収容。総行数は約490万行で文庫本約500冊に匹敵。原爆関連に限った記事データベースとしては国内最大
1995/8/1
中国新聞労組が原爆投下当日の広島の惨状を想定し記事化した1945年8月7日付「ヒロシマ新聞」(8ページ)が刷り上がる。市内の被災状況や米原爆開発の舞台裏などを伝える。中国新聞は原爆で壊滅状態になり、3日後の同月9日から代行印刷で新聞を発行したが、「ヒロシマ新聞」は発行出来なかった紙面を現在の視点で想定、表現
1995/8/1
被爆者援護法が施行(7月1日)されて1カ月間に広島市が受け付けた特別葬祭給付金の請求件数は1万4,820件に
1995/8/1
原爆犠牲者を悼む広島県教委主催の「平和の祈り」が広島市の縮景園で開会。被爆50周年で初開催
1995/8/1
広島市が原爆り災者名簿などを原爆資料館東館で公開
1995/8/1
被爆建物の広島逓信病院旧外来棟の補修整備完成式。広島市中区の中国郵政局の被爆50周年事業
1995/8/1
原水禁国民会議などの被爆50周年原水禁世界大会国際会議が東京の総評開館で開幕。7カ国の海外代表10人を含む約200人が参加。核拡散防止条約(NPT)延長を受けた核兵器廃絶の道筋をテーマに意見交換。2日まで
1995/8/1
長崎市内の市民・反核団体が、パグウォッシュ会議に参加した外国人学者7人を招き、長崎市内で「核廃絶をめざす科学者ナガサキ国際フォーラム」を開く
1995/8/1
オーストラリアが仏核実験再開決定に抗議し駐仏大使を召還(6月末)したことへの報復措置として、仏政府が駐オーストラリア大使の召還を発表
1995/8/1
ブルネイで開会した東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム第2回会議が、核実験の即時中止を求める声明。ASEAN加盟国や日米、中国、ロシア、EU(欧州連合)など19カ国・機構の外相らが参加し、中止要請にはEU代表、中国以外の全参加国が賛成
1995/8/1
河野洋平外相がブルネイの首都バンダルスリブガワンで中国の銭其〓外相と会談。核実験問題について河野外相が包括的核実験禁止条約(CTBT)の早期締結を要請
1995/8/1
大阪貿易会が仏のシラク大統領とウブリュー駐日大使あてに核実験中止の要請書を送付。日本の経済団体の反対意思表示は初
1995/8/1
デンマークのラスムセン首相が、シラク仏大統領に核実験再開の翻意を促すため、パリへの自転車抗議の旅に参加
1995/8/1
核実験再開決定が世界の非難を浴びるフランスで、民放テレビ「ARTE」が原爆特別番組で日本のアニメ映画「はだしのゲン」を放映、「黒い雨」も放映。2日夜は民放テレビ「M6」が米映画「広島-地獄の廃墟」を放映。その他の各局も原爆に関する映画、ドキュメンタリーを次々予定
1995/8/1
名古屋市の自動車用音響機器メーカーのビートソニックが、仏核実験再開決定に反対する反核ステッカーの無料配布を始める。申し込みが殺到
1995/8/1
仏紙ルモンドが1日付紙面で仏国防相報告書の内容を伝える。「これまでに実施された核実験の回数は204回で、うち3回だけ放射能汚染が確認された」
1995/8/1
米の歴史研究家約200人が、米スミソニアン航空宇宙博物館の原爆展の縮小問題で、博物館の上部機関スミソニアン協会に抗議文を提出。計画を大幅縮小し、歴史的に誤った内容にした-と指摘
1995/8/1
米アメリカン大で開かれた原爆資料展(7月8日~27日)の総入場者数は約3千人-と広島市に連絡。米政府関係者や議員の見学の有無は不明
1995/8/1
北朝鮮の軽水炉転換を支援する国際事業体「朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)」の第1回総会がニューヨークの米国連代表部で開会。8月中にも建設用地選定のため北朝鮮に現地調査団を派遣し、軽水炉提供協定の交渉を開始することで合意
1995/8/1
英の航空ショー「エルビントン国際航空スペクタキュラー」で、主催者の計画した広島原爆投下の再現の催しが反核団体の抗議で中止になったことが明らかに
1995/8/1
広島原爆から3週間後の1945年9月初め、米軍が旧ソ連の戦略重要66都市の破壊に必要な原爆数を計204発と計算していたことを示す文書を、中国新聞社が米国立公文書館から入手。算定に使ったのは米軍機が撮影した広島の廃虚の航空写真
1995/8/1
戦時中に強制連行され、被爆死した中国人、楊希恩さんの妻の陳秀英さんと長男の楊世斗さんが、希恩さんの被爆死の可能性がある広島市内2カ所を訪れる。広島地裁検事局跡(三川町)と広島西署跡(大手町)
1995/8/1
東広島市主催の戦後50年記念講演会が同市であり、元原爆資料館長の高橋昭博さんが「私の被爆体験とヒロシマの心」と題して講演。小中学生4人が平和学習の体験を発表
1995/8/1
東広島市の原爆死没者慰霊式(同市原爆被害者の会主催)が福祉センター「松翠苑」の慰霊碑前で営まれる
1995/8/1
広島県豊田郡瀬戸田町の田坂博子さん(63)が「原爆乙女」と呼ばれた半生を手記「ヒロコ 生きて愛」にまとめ出版。渡米治療、米国人との結婚などを通し、冷たい視線に耐えた青春や戦後の人生を回顧
1995/8/1
鳥取市で「国際平和コンサート」。鳥取大の新倉健教授が作曲した「広島が言わせる言葉」など演奏
1995/8/1
島根県八束郡玉湯町で「広島市民の描いた原爆の絵展」と戦争資料展が開会
1995/8/1
下関市の市立美術館で「平和美術展」が開会、6日まで
1995/8/1
徳山市の湯野小で徳山被爆者の会の硯谷泰久副会長と木原千成理事が広島での被爆体験を語る 1995/8/1
原爆映画「夏少女」の撮影が呉市仁方本町の今村造船所で始まる
1995/8/1
被爆体験を持つ広島市出身のデザイナーで愛知県立大教授の片岡脩さんの平和アピール「ラブピース」ポスター展が中国新聞ビルで開会。6日まで
1995/8/1
沖縄のミュージシャン喜納昌吉さんが大阪市で平和祈念イベント。広島、長崎への平和メッセージを携え、沖縄伝統の小舟サバニで土佐堀川を上る
1995/8/1
「平和50周年記念(広島・長崎平和祈念)郵便切手」が全国一斉に発売。原爆ドームやハトの図柄の80円2種と50円1種。発売枚数は各2千万枚
1995/8/2
広島県安芸郡江田島町の原爆被害者の会が建立した「平和の碑」が同町役場構内で除幕式
1995/8/2
広島県双三郡三良坂町の4つの小中学校の児童、生徒や教師約500人が、同町平和公園で「´95平和集会」を開き、反戦、反差別、平和を訴える
1995/8/2
平和記念公園で中国郵政局主催の「アオギリの下で被爆体験を聞く会」。職員約50人が元郵政局職員の沼田鈴子さんの体験を聞く
1995/8/2
河野洋平外相がブルネイの首都バンダルスリブガワンで、仏のバルニエ欧州問題担当相と会談。仏核実験計画で「日本国民の理解を得るのは困難」と実験中止をあらためて要求。バルニエ氏は「広島の経験を背景にした日本国民の感情や反応は理解できる。しかし実験は、使用しない核の信頼性を確保するためのもの」と強調
1995/8/2
被爆50周年で初めて原爆死没者慰霊式・平和祈念式に海外被爆者の遺族招待を計画した広島市が、原爆投下直後の早期死没者の遺族を招待の対象外にしていたことが判明。「原爆手帳を持つ死没者」遺族が対象。手帳は1957年施行の原爆医療法で制度化され、それ以前の死没者は持っておらず、参列を断られた遺族が出る
1995/8/2
被爆50周年と国連教育科学文化機関(ユネスコ)設立50周年を記念するコンサート「ピース・ワールド・イン広島´95」が広島グリーンアリーナで開会。10カ国約630人が参加。世界から募集した平和賛歌109曲の中からグランプリに選ばれたレバノンのオマール・ベネル・カタブ小学校の「サン・オブ・ピース」を発表
1995/8/2
パレスチナ先行自治区ガザ市で初の原爆展が開会。日本の平和運動団体ピースボートがパレスチナ解放機構(PLO)主流派ファタハ青年部の協力で開いた「731部隊展・原爆展」。3日も
1995/8/2
広島市民約1,700人が平和記念公園を一斉清掃
1995/8/2
戦時中、夫の楊希恩さんが強制連行され被爆死した遺族の妻・陳秀英さんと長男・楊世斗さんが、因島市解放センターで悲しみの証言
1995/8/2
被爆50周年記念「第41回広島平和美術展」が広島県民文化センターなどで開幕、7日まで
1995/8/2
米元兵士の反戦組織「平和をめざす元兵士の会」のチャールズ・アトキンス理事ら2人とカナダの「反核元兵士の会」のロナルド・モズレー氏が、「不戦兵士の会広島県支部」の招きで広島入り。日本原水協の原水禁世界大会国際会議に出席
1995/8/3
ロンドンの国会議事堂前広場で反核団体メンバーが、広島、長崎被爆50周年を前に、ろうそく200本を平和のシンボルマーク形に並べてともす
1995/8/3
広島に原爆を投下した米爆撃機「エノラ・ゲイ」のポール・ティベッツ元機長が米CNNテレビのインタビューに答える。「投下を今でも後悔していない」
1995/8/3
ロシア原子力省幹部が、財源不足で建設の遅れていたウラル地方の核閉鎖都市チェリャビンスク65の新核物質保管施設の2000年完成を明かす。建設総費用3億1千万ドルのうち米が1億5千万ドルの支出で合意済み
1995/8/3
倉敷市が戦後50年を機に、初めて同市内の54小学校、23中学校の代表計154人を「子ども平和大使」として広島市の原爆資料館や竹原市の大久野島毒ガス資料館に派遣
1995/8/3
日本原水協などの「原水爆禁止国民平和大行進」の東京-広島コースと富山-広島コースが平和記念公園に到着
1995/8/3
「歩こうヒロシマまで」一行が島根県邑智郡瑞穂町を出発。同町の出羽公民館の学習グループ「瑞穂平和を考える会」が主催、広島まで70キロを歩き、原爆の子の像に千羽づるをささげる。8回目
1995/8/3
広島県高田郡高宮町の高宮中の生徒が、姉妹都市交流で町を訪れているニュージーランド・セルウィン町のビル・ウッズ町長に広島、長崎の被爆の惨状を伝える写真20枚を手渡す
1995/8/3
テレビドラマ「夢千代日記」で知られる湯村温泉のある兵庫県美方郡温泉町が広島市の原爆養護ホームの神田山やすらぎ園と倉掛のぞみ園に温泉の湯9.5トンをプレゼント
1995/8/3
全農林中四国地方本部の女性部が山口県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑にマッサージチェア、ショーケースなど56万円相当を寄贈
1995/8/3
「戦後・被爆50年ブックフェア」(中国新聞社、長崎新聞社主催)が広島市の紀伊国屋書店広島店で開会、20日まで。同市内の5書店と呉、三原、福山、三次市内の6書店でも10日まで
1995/8/3
日本原水協を中心の原水爆禁止世界大会国際会議が広島市で開会。中国、仏核実験再開の動きに抗議。「核兵器全面禁止へ草の根の国際共同行動」をテーマに討議。5日、核兵器廃絶は世界の緊急課題とする「被爆50年、世界へのよびかけ」と題した宣言を採択。この後、世界大会・広島に移行。6日の閉会総会で「広島の誓い」を採択
1995/8/3
仏政府が、核実験再開に反対するオーストラリアの抗議措置に、新たな報復措置を発表。オーストラリア空軍の公開入札から仏企業が排除されたことに対し、(1)世界貿易機構(WTO)へ提訴(2)対オーストラリア商談3件の見直し-を発表。駐オーストラリア大使召還に次ぐ措置
1995/8/3
ブルネイで開会の東南アジア諸国連合(ASEAN)拡大外相会議が閉幕。欧州連合(EU)代表のソラナ・スペイン外相が、仏核実験再開決定に対するASEAN各国や日本の反対に対し、「各国の強い懸念をEUに伝える」と言明。仏のバルニエ欧州問題担当相は核実験の正当性を強調
1995/8/3
広島市がコンピューターネットワークのインターネットを使う「広島市ホームページ」を設け、運用開始。被爆地から原爆・平和関連の情報を世界に発信。6日の市原爆死没者慰霊式・平和祈念式の平和宣言も流す
1995/8/3
戦時中、強制連行され被爆死した中国人労働者の楊希恩さんの追悼式が広島平和記念公園の原爆供養塔前で営まれる。妻の陳秀英さんと長男の楊世斗さんが参列。「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」が主催
1995/8/3
広島県と広島市が健康診断などに招いた米、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、パラグアイの被爆者13人が広島入り。県庁で藤田雄山知事に手薄な被爆者医療の不安を訴え
1995/8/3
日本山妙法寺主催の「平和と生命への超宗教巡礼」一行が広島市に到着。アウシュビッツ強制収容所のあるポーランドのオシフィエンチムを出発し16カ国約5千キロを踏破
1995/8/4
「´95国際高校生サミット」が広島市の広島女学院高校で開会。世界15カ国の約230人が参加。平和、環境、飢餓のテーマで講演会や分科会。5日、仏核実験再開に反対を訴える「スチューデント・アピール」を採択し、閉幕
1995/8/4
被爆50周年取材で広島を訪れた海外マスコミ関係者が広島国際会議場で平岡敬広島市長に共同インタビュー。11カ国29社の約80人。「日本の戦争加害」明示の姿勢を評価、仏核実験に対する市長の行動を問う声も
1995/8/4
「被爆50周年原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑慰霊祭」が平和記念公園そばの碑前で営まれる。広島市内の旧国民学校の児童・生徒や教師を追悼
1995/8/4
関東22大学の弁論部などで作る「全関東学生雄弁連盟」の8人が、広島市の紙屋町交差点で「平和問題」をテーマに訴え
1995/8/4
広島市フォークダンス協会のメンバー21人が、広島市の姉妹都市ドイツ・ハノーバー市の被爆50周年平和式典に招かれ、JR広島駅から出発。ひろしまフラワーフェスティバルでの交流が縁
1995/8/4
広島県高田郡高宮町の中学生らの平和行進に、姉妹都市交流で同町を訪問中のニュージーランド・セルウィン町のビル・ウッズ町長が参加。高宮-甲田町間約11キロを歩く
1995/8/4
日本原水協などの原水爆禁止世界大会国際会議で、マーシャル諸島ロンゲラップのネルソン・アンジャイン評議員が仏核実験再開に反対する国際会議を南太平洋で開くよう提案
1995/8/4
反戦、反核、反差別を訴える「大柿-広島60キロ平和行進」(能美島部落解放共闘会議などで実行委員会)が平和記念公園に向け広島県佐伯郡大柿町を出発。8回目
1995/8/4
広島市の本川小学校で姉妹・友好校であるドイツ・ハノーバー市と長崎市の小学生を招き「平和のつどい」
1995/8/4
広島県世羅郡世羅町の世羅中学校生徒会が、せら文化センターで初の平和集会。中国新聞福山支社の大平泰編集部長の講演や生徒が制作したビデオを鑑賞
1995/8/4
第133臨時国会の衆参両院本会議で「中国の核実験に抗議し、フランスの核実験に反対する決議」を全会一致で採択。唯一の被爆国の立場から、あらゆる核実験に反対の姿勢をあらためて明確化。他国の核実験に対する反対決議は1974年のインド地下核実験以来21年ぶり
1995/8/4
日本が仏核実験再開決定に反対する国会決議をしたことで、仏外務省のマルタン次官補が松浦晃一郎在仏日本大使に遺憾の意を表明
1995/8/4
世界各国に組織を持つ平和団体「友和会」米国支部のジョー・ベッカー支部長ら会員9人が、米の原爆投下を謝罪し、恒久平和を訴える約7,800人の米国民の署名を広島市の原爆資料館に手渡す
1995/8/4
反核平和を訴え東京-広島-長崎間1,500キロを走る「被爆50年反核平和マラソン」の一行が岡山市役所を出発。全労連など主催。岡山-三原間106キロを26区間で走破へ
1995/8/4
米上院本会議が、1996会計年度国防支出権限法から核爆発を伴わない小規模核兵器実験「流体核実験」予算5千万ドルの削除を求めた修正案を否決。実験予算は承認
1995/8/4
北朝鮮の「反核と平和のための朝鮮被爆者協会」の辛炯塾副会長が広島入り。北朝鮮在住の被爆者数を「現時点までの判明分で273人」と明かす。北朝鮮関係者が具体的な被爆者数を示したのは初めて
1995/8/4
中国新聞の被爆50周年企画を単行本にした「核と人間-実験台にされた“いのち”」が発刊。原爆傷害調査委員会(ABCC)の被爆者調査の真相や米ソ核軍拡競争がもたらした放射能被害の実態ドキュメント

原水禁国民会議などの被爆50周年原水爆禁止世界大会・広島大会が開幕。9カ国18人の海外代表を含む約6千人が参加。非核・平和社会の実現を訴えるヒロシマ・アピールを採択。社会、自民党に加え、新進党も初参加。5日は分科会
1995/8/4
連合広島の「欧州平和使節団」が、戦後50周年記念として近代オリンピック発祥の地ギリシャから持ち帰った聖火を、広島平和記念公園の「平和の灯」に献火
1995/8/4
日本の戦争加害責任と被爆実態を子どもたちに伝える平和集会「ありがとう平和 こんにちは未来」が広島グリーンアリーナで開会。日本、米、シンガポールの子ども8,500人が参加。「私たちは地球上から核兵器と核実験をなくすため行動する。平和な世界を作っていきたい」と共同メッセージ。広島平和教育研究所や全国被爆教職員の会が開催
1995/8/5
北朝鮮の被爆者組織「反核と平和のための朝鮮被爆者協会」の孫益善理事が、原水禁国民会議などの原水爆禁止世界大会分科会で「日本政府はわが国に苦難を与えたことを正式に謝罪し、国家の責任で補償せよ」と訴え
1995/8/5
広島市と協力して原爆資料展を開催した米アメリカン大の核問題セミナー参加学生ら11人が広島入り。平和記念公園の碑巡り。訪問に先立ち、姉妹校の立命館大で第2次世界大戦時の日本とアジアの関わりを学習
1995/8/5
核禁会議の広島地方集会が広島市内で開会。「核兵器の惨禍を二度と繰り返さないよう全力を傾注する」とのアピールを採択
1995/8/5
広島市中区堺町1丁目の韓国人原爆犠牲者慰霊碑で約300人が韓国人原爆犠牲者の慰霊祭
1995/8/5
広島平和記念公園の原爆供養塔前で「子どもの慰霊祭」。広島、東京、北海道など8都道県の小中学生約80人が黙とう
1995/8/5
中国の核実験や仏核実験再開決定に抗議し、原水禁国民会議などの原水爆禁止世界大会参加者ら約500人が原爆慰霊碑前で約40分間座り込み
1995/8/5
ドイツのリヒャルト・フォン・ワイツゼッカー前大統領が戦後50年記念講演などのため来日。7日、東京・霞が関の国立教育会館・虎ノ門ホールでの戦後50年の記念講演会「ドイツと日本の戦後50年」で講演。「核を持たないことこそ未来の信頼醸成への道」と軍事中心の安全保障概念を捨てるべきと語る。平岡広島市長が平和宣言で述べた植民地支配への謝罪表明を高く評価。ワイツゼッカー前大統領は10年前、ナチスの戦争責任を率直に認める画期的な演説
1995/8/5
仏核実験再開に抗議し、仏領ポリネシアで反核航海を計画している広島インランドシー・ヨットクラブが、広島そごう前で市民募金を呼び掛け
1995/8/5
仏のボトル・ディマンシュ紙(5日発行)の世論調査で、仏国民の約6割が仏核実験再開を中止すべきと考えていることが明らかに
1995/8/5
広島に原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイが発進した北マリアナ連邦テニアン島・テニアン市のヘルマン・マングローナ市長が広島入り。原爆慰霊碑に献花。「自ら望んだことではないが、惨劇に力を貸したことを申し訳なく思う」。平和祈念式に参列へ。参列は1983年に続き2回目
1995/8/5
放影研が初めて一般公開。同研究所の設立20周年記念行事実行委員会が企画。「被爆者のがん発生率」「胎児被爆の影響」「被爆二世への遺伝的影響の有無」などの研究内容を専門家がパネルで説明、研究の実演も。前身の原爆傷害調査委員会(ABCC)時代から秘密主義と批判があり、入場者も約800人を超し大きな反響
1995/8/5
「核のない平和な地球」をテーマに、日本マスコミ文化情報労組会議の広島フォーラムが広島市の中国新聞ホールで開会。全国の新聞、テレビ、出版関係者約200人が参加。7日まで
1995/8/5
岡山市の目抜き通りに平和を願う行灯(あんどん)約5千個がともる。岡山市福祉総務課が戦後50年事業で計画
1995/8/5
広島県世羅郡世羅西町の被爆者らが町民と協力し、「戦争犠牲者追悼の碑」を町福祉センター入り口に建立、除幕式と慰霊祭
1995/8/5
福山映画サークルが終戦、被爆50年で企画した「戦争と平和を考える上映会」が福山市中央公民館で開会。「原爆の子」「ひめゆりの塔」など3本を上映
1995/8/5
広島が被爆50周年を迎えた日に合わせ、米ワシントン中心部のリンカーン記念堂前で、国際環境保護団体グリーンピースなどが「反核集会」。記念堂前のプールで慰霊の灯ろう流し
1995/8/5
「´95生協ヒロシマ行動学習講演会」が広島YMCAで開会。前長崎市長の本島等さんが、加害を見詰めた平和への提言を講演
1995/8/5
´95非核宣言自治体全国大会が広島市内で開会。仏核実験再開の撤回を求め、フランス製品不買運動など盛り込んだ緊急アピールを採択
1995/8/5
「核兵器をなくそう女性のつどい´95」が広島グリーンアリーナで開会。海外19人を含む約5千人が参加。「思想、信条を超え、核戦争防止、核兵器廃絶、被爆者援護・連帯に力を合わせよう」とのアピールを採択
1995/8/5
ボランティアが被爆者の思いを米国の子どもや市民に伝えるネバー・アゲイン・キャンペーン(NAC)「平和大使」最終候補者の広島合宿が広島市内で始まる。被爆者から体験を聞き取り。6日まで。7日から3日間は長崎合宿
1995/8/5
社会党の国会議員らで作る政策集団「護憲懇談会」(代表世話人・秋葉忠利氏ら)が被爆50周年で核廃絶を求めるアピールを発表。核保有国に対し、(1)核兵器の使用や製造、実験、保有が国際法違反であることの宣言(2)中国と仏の核実験中止-を求め、日本政府に非核三原則の法制化など求める
1995/8/5
連合、原水禁国民会議、核禁会議が初めて合同で開く「連合平和ヒロシマ集会」(6日)を前に、芦田甚之助・連合会長ら3団体代表が広島市内で記者会見。「平和運動の結集の第一歩」と集会の意義を強調
1995/8/5
広島市南区の段原中学校で旧第一国民学校の原爆死没者慰霊祭。遺族ら約130人が今年、建立した慰霊碑を除幕
1995/8/5
被爆50周年真宗大谷派非核非戦法要が広島市東区牛田旭の満景寺で営まれる。非核非戦の宣言
1995/8/5
平和を祈りながら走る米先住民ネイティブ・アメリカンの儀式「セイクレッドラン(聖なるランニング)」の走者が原爆ドーム前に到着。被爆50年で広島、長崎に向け、日本列島を縦断へ
1995/8/5
広島・長崎の原爆犠牲者を追悼する平和祈願コンサートがバチカンのパウロ6世記念会館で開会
1995/8/5
広島市の元安川左岸で「原爆犠牲ヒロシマの碑」碑前祭。広島県内や米の小、中、高校生ら約200人が参列
1995/8/5
TBSと米CBSが戦後50年で共同実施した世論調査の結果がまとまる。広島、長崎への原爆投下について、日本人の7割は米政府が謝罪すべきと考え、米人の7割以上は謝罪すべきでないと回答。日米両国民の意識の差が明らかに
1995/8/5
広島市中区の世界平和記念聖堂で平和祈願と原爆犠牲者追悼のミサ。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世のメッセージが披露
1995/8/5
連合広島の主催で「アジアから飢餓と貧困をなくす集い」が広島市内で開会。約450人が参加。被爆50年を迎え、アジアの現状と改善を考える
1995/8/5
非核・平和の社会を目指す「御調地区平和のつどい」が広島県御調郡御調町の文化会館で開会。「核兵器廃絶と軍縮を求める運動を強めよう」とのアピールを採択
1995/8/6
広島の被爆50周年に合わせ、パリで仏核実験再開に抗議する集会、約2千人が参加。環境保護団体や労組など約100団体の共催
1995/8/6
反核講談師の久保浩之さん(63)=呉市清水2丁目=が前年から始めた「原爆供養講釈」口演が100回目。広島YMCAでの「原爆被害者証言のつどい」で「石に影を焼き付けた男」を演じる
1995/8/6
広島市出身のカメラマンで被爆者の井上清司さん(57)が、被爆体験と戦後50年の生活をつづった「ヒロシマ・一期一会」を出版
1995/8/6
「山口環境ネットワーク」と「原発いらん!山口ネットワーク」が、原発建設計画の進む山口県熊毛郡上関町と徳山市間約47キロを延べ50人でリレーする「セイクレッドラン」を実施
1995/8/6
世界陸上選手権の会場のスウェーデン・ウッレビ競技場で、原爆犠牲者に1分間の黙とう
1995/8/6
尾道市退職婦人教職員の会が「被爆50年ヒロシマ退婦教のねがい」と題した平和アピール構成詩をベイタウンホールで披露
1995/8/6
益田市の高校生グループが、不戦の願いを託した「戦争と平和パネル展-高校生のおもい」を同市の石西県民文化会館で開会。9日まで
1995/8/6
益田市で「平和をすすめる益田市民の会」主催の反核平和集会。5回目
1995/8/6
長門市深川湯本の大寧寺にある「広島・長崎原爆殉難平和祈念碑」前で町民7人が被爆死没者のめい福を祈る。長門・大津原爆友の会は前年6月、会員の高齢化などから解散、参拝者もわずか
1995/8/6
全国高校野球選手権大会に出場する広島県代表の宮島工業ナインが、西宮市内の練習場で原爆投下時間に1分間黙とう
1995/8/6
尾道市の尾道地区原爆被害者の会が市内の原爆慰霊碑前で慰霊祭。広島市の方向に黙とう
1995/8/6
広島県御調郡久井町の原爆慰霊碑前で町原爆被害者の会が平和祈念式。4月に発足した被爆二世の会が「平和の灯」に点火。同郡御調町でも町原爆被爆者協議会が原爆死没者追悼法要
1995/8/6
岡山県浅口郡里庄町の主婦らで作る里庄朗読ボランティアグループ12人が、原爆の悲劇をテーマにした朗読劇「この子たちの夏-1945・ヒロシマ・ナガサキ」を町立図書館で上演。2年前から自主公演し、初めて全編上演
1995/8/6
福山市原爆被害者の会が同市内の原爆死没者慰霊碑前で慰霊式典
1995/8/6
三原市の小中学生で作るヤングボランティア「いなほ」が同市内で、広島平和記念公園の「原爆の子の像」に供える千羽づるを折る「おりづるの会」を開く
1995/8/6
岡山県内の各地で慰霊や核廃絶の祈念式。岡山市の市原爆被爆死没者供養塔前で市原爆被爆者会が追悼式。高梁市では市と上房・高梁地区原爆被爆者会の慰霊祭と平和祈念式。津山市でも津山地方原爆被災者の会が、今年建立された被爆50周年記念碑前で平和祈念式
1995/8/6
江津市有福温泉町の被爆者療養研究所「有福温泉荘」で、広島県内から来た温泉治療の被爆者や有福温泉小の児童ら計約100人が死没者慰霊と平和祈念式
1995/8/6
山口市宮野江良の「原爆死没者之碑」前で山口県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑主催で死没者追悼式。被爆者ら25人が参列、核廃絶運動の強化を誓う
1995/8/6
被爆直後、庄原市の山内国民学校(現山内小)に開設された広島第一陸軍病院庄原分院山内病棟に収容され、亡くなった旧陸軍関係被爆者88人の慰霊祭が、同町の原爆慰霊碑前で営まれる
1995/8/6
広島県高田郡八千代町の原爆被害者友の会が被爆50周年記念事業として基幹集落センター敷地に建立した「原爆慰霊碑」を除幕。双三郡三良坂町の平和を願う会は平和の集い。町内の被爆・戦死者506人の追悼式も
1995/8/6
広島市中区の世界平和記念聖堂で、韓国とフィリピンの司教を招き、旧日本軍の侵略の歴史など戦争の加害責任を見詰め直すシンポジウム「アジアの司教から」を開く
1995/8/6
戦時中、広島文理大(現広島大)などで学んだ東南アジアの元「南方特別留学生」が当時の興南寮跡(広島市中区大手町4丁目)に集い、留学時代をしのぶ会。ブルネイの元首相ペンギラン・ユソフさん(72)ら5カ国9人
1995/8/6
被爆した十字架が50年ぶりで礼拝堂に掲げられた広島市中区上幟町の流川教会で追悼の礼拝
1995/8/6
広島赤十字・原爆病院の前庭で日本赤十字社主催の追悼式。関係者約250人が出席。毎年、現役職員が式を開いてきたが、大きな節目の追悼式は最後と日赤が主催
1995/8/6
国の史跡指定が決まり、世界遺産化の推薦が確実視される原爆ドーム横で、旧産業奨励館で亡くなった旧中国四国土木出張所(現中国地方建設局)殉職者の慰霊祭。遺族ら約100人が参列
1995/8/6
広島市中区東白島町の中国郵政局で慰霊式。4月に平和記念公園から里帰りし、局の中庭に植樹した被爆アオギリ二世の記念碑を元職員で被爆語り部の沼田鈴子さんらが除幕
1995/8/6
広島市内を走っていた広島電鉄の路面電車内で被爆し、生き残った人たち46人が「電車内被爆者のつどい」を開く。被爆電車に乗り、原爆投下時に八丁堀電停で黙とう。広島電鉄が企画、1985年と90年に次いで3回目
1995/8/6
広島市中区の平和大橋西詰めの広島市立高女(現舟入高校)の慰霊碑で慰霊祭。長女を亡くした91歳の広島市女原爆遺族会会長の真田安夫さんも参列
1995/8/6
「呉の子どもの平和をねがう絵画展(前期)」が呉市のれんがどおりで開催、11日まで。市の戦後50周年記念事業。後期は9月21日から5日間
1995/8/6
広島市東区牛田本町4丁目の内科医、碓井静照さん(58)が、被爆体験や反核への思いをつづった「消えた十字架」を出版
1995/8/6
避難する被爆者を真夏の日差しから守った広島市東区牛田旭2丁目の竹やぶで、愛知県内の4合唱グループがコンサート。竹やぶを絵本にした画家はらみちをさん(67)=同区=や絵本から合唱曲を作った作曲家藤村記一郎さん(43)=愛知県日進市=らも出席
1995/8/6
広島交響楽団とマイケル・トーマスが率いるPMFオーケストラが広島国際会議場で「平和コンサートの夕べ」。トーマスが被爆50周年のために作った「しょうわショアー」で幕開け
1995/8/6
広島壮年走ろう会の「ひろしま・ながさきピースリレー」が平和記念公園を出発。設立25周年で企画。平岡広島市長らのメッセージを携え、9日に長崎入り
1995/8/6
米シアトル市のクエーカー教会で、広島市特別名誉市民のフロイド・シュモー氏の100歳の誕生を祝う会
1995/8/6
戦後50年、被爆50年を記念し、沖縄伝統の丸木舟「サバニ」で、ヒロシマと沖縄の心を結ぶ祈りの旅を続けていたミュージシャン喜納昌吉さんら一行が、最終目的地の広島市に到着。5月19日に沖縄を出発、25の島々に寄る。上陸地の太田川河川敷の歓迎セレモニーで、「世界の核兵器が花火に変わらないか」と喜納さん。7日、広島市内のコンサートで島々の町村長から預かった平和メッセージを広島市の代表に渡す
1995/8/6
ピースコンサート「HIROSHIMA´95」が広島厚生年金会館で開会。通算10回目で幕を閉じる。「音楽を通じて平和を訴える役目を果たした」。延べ199組のアーチストが参加。広島市への寄付金も利息を含め約1億8千万円
1995/8/6
ニュージーランドのオークランドで、仏核実験再開決定に抗議するためムルロア環礁に向かうヨットの第1陣2隻が出港。ボルジャー首相らが見送り
1995/8/6
仏核実験再開決定に反核運動が盛り上がるオーストラリアの主要都市で反核平和行進。シドニーでは市民ら約1万5千人。訪問中の北海道札幌郡広島町の北広島少年少女合唱団と笠岡市の笠岡みたけ少年少女合唱団の計100人も参加
1995/8/6
国際環境保護団体グリーンピースのモスクワ支部が赤の広場で、仏核実験再開決定などに抗議
1995/8/6
韓国ソウルで第28回韓国人原爆犠牲者追悼式。在韓被爆者は日本と同様の被爆者援護策を訴え 1995/8/6
「被爆50周年鎮魂薪能」(広島祭委員会、中国新聞社など主催)が広島市の元安川に浮かべた特設舞台で開催。恒例の灯ろう流しも
1995/8/6
中国新聞が社会面で「伝えねば…明日の平和へ」との見出しで、被爆から半世紀を生き抜いた被爆者3人の軌跡をたどる。原爆孤児で1958年に原爆慰霊碑前の合同結婚式を挙げた内田瞳さん(63)、63年にローマ法王へ核実験全面禁止の願いを伝える世界女性キリスト教徒平和の旅に日本からただ1人参加した森木葉子さん(66)、50年前の8月6日に絶望的な惨状の中で誕生した山口哲弘さん
1995/8/6
中国新聞社が被爆50周年のヒロシマを伝える「特報」約1万3,100部を広島市内の繁華街や平和記念公園、原爆養護ホーム舟入むつみ園など16カ所で配布
1995/8/6
被爆50周年に合わせ、全国(中国5県は除く)で開かれた平和祈念の催しを中国新聞紙上でまとめる
1995/8/6
中国の新華社電が被爆50周年の平和祈念式について、平岡市長の平和宣言のうち特に植民地謝罪を述べた部分を引用し報じる
1995/8/6
米紙ニューヨーク・タイムズが1面に原爆投下直後と現在の広島市中心部の写真を掲載。4ページの原爆特集も組む。米ではこの1~2週間に発売のニューヨーカー、ニューズウイークなど有力雑誌も原爆特集。原爆投下の正当化論に各新聞、雑誌が自ら検証を試み、疑問を投げているのが特徴
1995/8/6
広島への原爆投下機エノラ・ゲイの爆撃手トム・フェアビー氏(76)が、北カロライナ州シャーロットの地元紙とのインタビューで語る。「原爆でおびただしい人々が亡くなり残念だ。戦争を終わらせるためにこんなことが必要だったなんて、遺憾に思う」
1995/8/6
広島市の平岡敬市長名で核兵器廃絶を訴える1ページの意見広告「ヒロシマをよく見て」が米紙ワシントン・ポストに掲載。「米国を批判するとか、謝罪を求めているのではなく、広島と長崎で実際に起きたこと、そして核兵器の残酷さを世界に知ってほしい」と強調。同市が海外の新聞に意見広告を出したのは初
1995/8/6
連合、原水禁国民会議、核禁会議が初めて合同で開く「連合平和ヒロシマ集会」が広島グリーンアリーナで開会。約1万人が参加。核兵器廃絶を訴える集会アピールを採択。集会は連合の呼び掛けで「平和運動の結集を」と前年から3団体が協議。連合の主催、2団体が共催の形で実現。原水禁と核禁会議が合同集会をするのは1961年の分裂以来初めて
1995/8/6
村山首相と広島県内の被爆者7団体の代表が話し合う会が広島市内のホテルで開会。各代表が被爆者援護法に「国家補償」の文言を明記するよう要請。首相の前向き発言はなし
1995/8/6
平和祈念式の模様がコンピューター通信網インターネットで世界に生中継。教育・研究機関など70団体で作る中国・四国インターネット協議会(CSI)が初めて試み。広島市の「ホームページ」も平和宣言を即時に流し国内外に発信
1995/8/6
平和祈念式で平岡広島市長の「平和宣言」に、国際的非難を浴びる中国と仏核実験に対し、具体的な国名を挙げた抗議表現がなく、参列者らに不満の声。平岡市長は「平和宣言はすべての核実験に反対しているヒロシマの基本姿勢を表した。被爆50周年にあたっての理念と核兵器廃絶、平和な世界の実現に向けて努力を続ける決意を表明したので、時事的な問題は言わなかった」
1995/8/6
平和祈念式に出席した村山首相が広島市内で記者会見。仏核実験再開決定に対し「国連総会での核実験禁止決議を強力に推し進めたい」との考えをあらためて示す。被爆者援護法の見直しについては、「国家補償」の文言の盛り込みや特別葬祭給付金の範囲拡大は消極的
1995/8/6
広島県や広島市の招きで原爆死没者慰霊式・平和祈念式に参列する在外被爆者16人と遺族4人の声を、中国新聞が特集で収録。届かぬ援護策など在外被爆者や遺族の厳しい戦後がにじむ
1995/8/6
平岡広島市長が平和宣言。「原子爆弾による広島壊滅の日から五十年が経過した。あの日をしのび、犠牲者の御霊に心から哀悼の意を表するとともに、高齢化が目立つ被爆者の苦難を思い、改めて核兵器の開発と保有は人類に対する罪であることを強く訴える。この半世紀の間、私たちは原子爆弾がもたらした人間的悲惨、とりわけ放射線被害という人類史上初めての惨禍を広く世界へ知らせ、核兵器の廃絶を一貫して呼びかけてきた。しかし、国家間の不信は根強く、核兵器はなお地球上に大量に蓄積され、私たちの願いに正面から立ちふさがっている。核兵器の保有を国家の力の象徴と考える人たちがいる現実に、私たちは深い悲しみを覚える。原子爆弾は明らかに国際法に違反する非人道的兵器である。どこの国であれ、また、いつの時代であれ、核兵器がある限り、広島・長崎の悲劇が再び地上に現出する。それは人類の存在を否定する許されない行為である。人類が未来に希望をつなぐためには、今こそ勇気と決断をもって核兵器のない世界の実現に取り組まなければならない。私たちは、その第一歩として核実験の即時全面禁止とアジア・太平洋における新たな非核地域の設定を求める。日本政府は、日本国憲法の平和主義の理念のもとに、非核三原則を高く掲げ、核兵器廃絶に向けて先導的役割を果たすべきである。また、核時代の証人である内外の被爆者に対する温かい援護について一層の努力を要請する。核兵器の保有は決して国家の安全を保障するものではない。また、核兵器の拡散や核技術の移転、核物質の流出も人類の生存を脅かす。それらは人権抑圧、飢餓・貧困、地域紛争、地球環境の破壊などとともに平和を阻む大きな要因である。現代は地球の安全保障を考えなければならない時代である。私たちは国家の枠を超えて人間として連帯し、英知を結集し、平和を築くために行動していきたい。第二次世界大戦終結五十年を迎えるにあたって、共通の歴史認識を持つために、被害と加害の両面から戦争を直視しなければならない。すべての戦争犠牲者への思いを心に深く刻みつつ、私たちは、かつて日本が植民地支配や戦争によって、多くの人々に堪え難い苦痛を与えたことについて謝りたい。記憶は過去と未来の接点である。歴史の教訓を謙虚に学び、次代を担う若い世代に原爆や戦争の悲惨さを語り継いでいくとともに、平和の基礎となる人間教育に力を傾けたい。生命と人権が何よりも大切にされる社会にこそ、若い世代は限りない希望を抱くであろう。被爆五十周年の平和記念式典にあたり、核兵器の廃絶と平和な世界の実現に向けて、今後も努力を続けていく決意をここに表明する」
1995/8/6
被爆50周年。原爆投下から半世紀、広島は政令指定都市として復興したが、国内外の反核運動にもかかわらず核兵器廃絶は実現できず、広島市内の被爆者の平均年齢は66.0歳に。被爆者の核廃絶の願いや被爆体験を次代に継承する色彩の濃い節目に。広島市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式には過去最多の約6万人(広島市発表)が参列。在外被爆者の遺族や北朝鮮、中国、ブラジル、インドネシアなど9カ国の被爆者が初招待。国内の「三権の長」も初めてそろって出席。原爆慰霊碑に奉納された原爆死没者名簿には、1年間に亡くなった被爆者と新たに死亡確認された被爆者計5,094人が記帳され、記載総数は19万2,020人。「平和の鐘」が遺族代表2人から遺族、子ども代表各1人に。平岡広島市長は「平和宣言」で「人類が未来に希望をつなぐためには、勇気と決断を持って核兵器のない世界の実現に取り組まなければならない」と訴え。アジア・太平洋地域の非核化とともに、戦時中の植民地支配やアジア各国に与えた苦痛を謝罪。「共通の歴史認識を持つために、被害と加害の両面から戦争を直視しなければならない」と呼び掛け。式典では初めて小学生代表2人が「平和への誓い」を読み上げ、新たな地球平和への努力を誓う。ヒロシマ50年を取材する海外報道機関も21カ国、95社に
1995/8/7
岡山県青年学生平和友好祭実行委員会主催の「反核・平和の火リレー」が岡山県庁前を出発。11日まで県内300キロをリレー。8回目
1995/8/7
府中市の府中東高校で平和集会。広島平和記念公園の「平和の灯」から採火した火を前に、全校生徒が平和の誓い
1995/8/7
原爆投下直後、広島市内で被災者の救援に当たった「賀北部隊」の元隊員や遺族が、東広島市西条栄町の市中央公園にある「賀北部隊・原爆被災者救援之碑」前で記念式。当時の体験を振り返り、平和を誓う
1995/8/7
「被爆者の健康を守るつどい」が広島市の県民文化センターで開会。高齢化する被爆者に健康管理の重要性を知らせるため、広島県と市が被爆50周年事業として主催。約200人が参加。県、市が招いた米、ブラジルなど11カ国の在外被爆者と遺族代表10人も出席
1995/8/7
原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)の敷地内にあった噴水の吐水口として使われていた石の彫刻2点を、広島市安佐南区西原4丁目の上野岩人さん(75)が原爆資料館に寄贈。ドームの世界遺産化を目指す貴重な資料として市が保存、展示方法を検討。「獅子」「人の顔」の彫刻
1995/8/7
廿日市市の廿日市小で、神奈川県藤沢市の小中学生らとの平和交流会。全国の市長でただ一人の被爆者、山下三郎・廿日市市長が被爆体験を語る
1995/8/7
戦時中に強制連行され、広島で被爆死した中国人、楊希恩さんの当時の雇用主「西松建設」(本社東京)が広島滞在中の遺族で妻の陳秀英さんらに回答文書を届けた。「(中国人労働者の移入は)国の政策で行われたことであり、謝罪や死亡通知を出すことはできない」との内容。遺族側は不服として受け取りを拒否
1995/8/7
中国共産党機関紙「人民日報」(7日付)が日本の被爆50周年に関する論評を掲載。「日本が長期にわたって対外侵略政策を推進したことが、広島、長崎に原爆を受けるようになった根本原因」とし、被爆は侵略戦争が招いた結末との見方を示す
1995/8/7
広島、長崎への原爆投下を謝罪し日米友好を深めるため、米平和団体「アメリカ友和会」が派遣した代表団10人が長崎入り。「長崎県被爆者手帳友の会」を訪問、謝罪を表す書簡と約7,800人分の賛同署名を手渡す。長崎市の伊藤一長市長にも提出
1995/8/7
米の平和運動家、故バーバラ・レイノルズさんが創設した「ワールド・フレンドシップ・センター」(広島市南区皆実町)の設立30周年記念式が、設立の会合場所だった中区幟町の縮景園で行われる。バーバラさんの娘ジェシカさん(51)や初代理事長の原田東岷さん、現理事長の森下弘さんら関係者約40人が足跡をしのぶ
1995/8/7
コンピューター通信網のインターネットを使って広島市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式を世界各国に生中継した中国・四国インターネット協議会(CSI)が、中継受信数は内外5カ国計42カ所にのぼった-との結果をまとめる。米からは「多くのアメリカ人が(原爆投下という)非人間的な悲劇に深い悲しみを抱いている」とのメッセージも届く
1995/8/7
原爆死没者慰霊式・平和祈念式に参列した在外被爆者と遺族代表20人のうち3人が広島市役所で被爆者援護法による特別葬祭給付金を請求。広島県にも別の3人が相談。市は滞在期間を考慮し、受給資格の有無の認定を急ぐ
1995/8/7
来日中のワイツゼッカー前ドイツ大統領が村山首相を表敬訪問。「日本が近隣諸国と良好な関係を保つためには、過去を無視しないことが重要」と忠告
1995/8/7
原水禁など被爆50周年原水爆禁止世界大会が長崎市に移り長崎大会結集集会。8カ国16人の海外代表を含め約3,500人が参加。8日は分科会。9日の閉会総会で、無条件の包括的核実験禁止条約の実現、脱原発・脱プルトニウム運動の推進-など求める大会宣言を採択
1995/8/7
超党派国会議員の「ムルロア環礁での(フランスの)核実験に強く反対する議員の会」(代表世話役=武村正義蔵相・新党さきがけ代表)が発足。9月2日のタヒチでの抗議集会に約20人が参加し、うち5人は抗議船に同乗する方針を確認
1995/8/8
来日中のドイツのリヒャルト・フォン・ワイツゼッカー前大統領が被爆地広島を初訪問。原爆慰霊碑に献花、原爆資料館を見学。「広島の平和の願いを生涯にわたり、どこへ行っても持ち続けるだろう」とのメッセージを記帳
1995/8/8
仏ワイン輸出業協会が、仏核実験再開決定に反対するワイン不買運動は南太平洋地域だけでなく、最大の輸入国ドイツや北欧、オランダ、カナダ、日本でも販売打撃を与えていることを明かす
1995/8/8
環境保護団体グリーンピースが、中国が今月中に1回以上の核実験実施を計画しているとして、中国政府を非難し計画中止を求める
1995/8/8
長崎原爆投下50周年に合わせ、米ホワイトハウス前の公園で、米平和団体「広島・長崎平和委員会」が追悼集会

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