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ヒストリー

ヒロシマの記録1986 8月


1986/8/1
日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)の「平和ポスター展」が広島市で始まる。ヒロシマの願いを込めた131点を展示
1986/8/1
広島市役所の前庭に旧庁舎資料展示室がオープン
1986/8/1
「核兵器廃絶運動連帯」の国際フォーラムが閉幕。「核時代における環境と人権」の分科会では広島の被爆者をはじめ内外の核被害者が発言。米の全国放射線被曝者協会のドロシー・レガレッタさんは「核実験やウラン採鉱で核被害は広がっている。情報交換が必要」と訴え
1986/8/1
東ドイツのフンボルト大平和研究センターと広島平和教育研究所(空辰男理事長)が姉妹提携へ。資料交換や教職員・学生のセミナー開催などを計画
1986/8/1
「ロスアラモスからヒロシマへ~米原爆開発科学者の妻の手記」(フィリス・K・フィッシャー、橘まみ訳)発行。時事通信社
1986/8/2
日本原水協など主催の原水爆禁止1986年世界大会の国際会議が東京で開幕。3日まで。21カ国の海外代表76人を含む300人が参加
1986/8/2
核禁会議(民社党・同盟系)が広島市で結成25周年記念全国集会。核軍縮のための米ソ首脳会談開催など求める広島アピールを採択
1986/8/2
韓国原爆被害者協会の辛泳洙会長が在韓被爆者渡日治療の打ち切りで記者会見。「在韓被爆者の切り捨てだ。日本政府が全責任を持って継続すべき」と強調
1986/8/2
ポーランドから長崎市に贈られた平和モニュメント「生命と平和の花」の除幕式(「長崎年表」)
1986/8/2
旧広島市庁舎の被爆石を使った「平和の碑」が東京・目黒区役所に完成
1986/8/3
核禁会議(民社党・同盟系)が長崎市で「核兵器廃絶と核の平和利用を考えるシンポジウム」開く。「核不拡散と原子力平和利用は両立できる」で一致
1986/8/3
原水禁国民会議の非核・平和行進が広島市の平和記念公園に到着
1986/8/3
東京で「非核を求める草の根全国集会」。1,300人が参加。核積載疑惑艦船・航空機の来日拒否、原発の廃止、核廃棄物投棄の中止など決議
1986/8/3
長崎県被爆者手帳友の会が設立準備を進めていた「被爆二、三世の会」が発足
1986/8/3
平和を訴える「アート・ウィーク86」が広島市で開幕。10日まで。若手芸術家300人が参加
1986/8/3
広島原爆病院へ山ユリ慰問を続ける広島県山県郡戸河内町の上殿小学校で「平和を祈る山ゆりの像」が完成
1986/8/3
ソ連チェルノブイリ原発事故被害者の治療にあたった米医師ロバート・ゲール博士が「放射線被曝で数千人が白血病や各種がんで死亡する可能性がある」と語る▽ゲール博士は4日「死者は30人になった」と証言
1986/8/3
爆心直下で消えた町、広島市の旧木挽町民が41年ぶりに再会。記憶を頼りに戸別復元地図作製
1986/8/4
広島市佐伯区五日市2丁目の光禅寺に眠る身元不明の原爆犠牲者の遺骨3柱のうち1柱の身元がわかり、41年ぶりに肉親の元に
1986/8/4
日本被団協、日本生協連など10団体の「国際平和年86市民平和大行進」が広島市入り。500人が原爆慰霊碑に黙とう
1986/8/4
草の根平和グループ「ザ・リボン」の呼びかけで、200人が国会議事堂前で手づくりのリボンをつなぎ、国に非核国家宣言の実現を訴え
1986/8/4
広島県労被爆連の山下優事務局次長ら2人がソ連ボルゴグラード州労評の招きで訪ソ。広島県原水禁と広島県労会議の語り部派遣14陣
1986/8/4
日本被団協、日本生協連など10団体の「国際平和年86市民平和大行進集結集会」、日本原水協(共産党系)の原水爆禁止1986年世界大会、原水禁国民会議(社会党・総評系)の被爆41周年原水禁大会が広島市で始まる
1986/8/4
原爆詩「慟哭」の作者、故大平数子さんの名にちなんだ「大平文庫」が、勤務先だった広島市の己斐児童館にオープン。遺族が著書を含め288冊を寄贈
1986/8/4
核の脅威を皮肉とユーモアを込めて描くカナダ人画家カール・チャップリンさんが広島市を訪問
1986/8/5
広島市の大下学園祇園女子高校で、原爆の犠牲になった前身の祇園高等女学校4年生83人の名を刻んだ「動員学徒原爆犠牲者の碑」除幕
1986/8/5
広島市の広島修道大で「平和祈念コンサートHIROSHIMA」。南こうせつ、チョー・ヨンピルさんら5カ国29グループ、200人が出演。1万5,000人が15時間に及ぶ徹夜の祭典に酔う▽広島県民文化センターのノーモア・ヒロシマ・コンサートには800人。フォークソングで反戦・平和を訴える米のピート・シーガーさんが初出演
1986/8/5
広島市の「86平和サミットinヒロシマ」に出席するため、ノーベル賞受賞者、南アフリカのデズモンド・ツツ主教、米のライナス・ポーリング氏、英のドロシー・ホッジキンス氏らが原爆資料館や広島原爆病院を訪問。ツツ主教「世界の政治指導者に広島訪問を要請する。核戦争に勝者があるとの幻想は捨てるべき」
1986/8/5
日本被団協、日本生協連など10団体が「国際平和年86市民平和大集会」を広島市で開く。全国から1,800人参加▽日本原水協(共産党系)の原水爆禁止1986年世界大会、原水禁国民会議(社会党・総評系)の被爆41周年原水禁大会がそれぞれ分科会。チェルノブイリ原発事故を反映して原発の安全性をめぐる論議が高まる▽「8・5反戦・反核広島集会」に300人、日本生活協同組合連合会の「86ヒロシマ虹のひろば」には5,000人が参加
1986/8/5
日本被団協が広島市で、被爆者援護法の制定と核兵器廃絶をめざし被爆者や遺族の団結を訴える被爆者・遺族集会
1986/8/5
第13回全国高校生平和集会が広島市で始まる。37都道府県から参加した約900人の高校生や教師らが平和学習の取り組みを発表
1986/8/5
広島市平和記念公園内にある原爆供養塔前でキリスト教徒と仏教徒がそれぞれ祈りの集い
1986/8/5
広島市で初の非核都市宣言自治体全国大会。70自治体が非核の輪を広げるため近隣自治体に呼びかけることなど決める
1986/8/5
「原爆裁判~核兵器廃絶と被爆者援護の法理」(松井康浩氏著)出版。新日本出版社
1986/8/5
米各地で被爆41周年記念集会。ニューヨークで芸術家集団「民衆のための芸術」が中央公園で5時間にわたり歌やダンス公演。マサチューセッツ州チャタムではキャンドルサービス、ホノルルでは集会
1986/8/6
広島市が「86平和サミットinヒロシマ」を開催。南アフリカのデズモンド・ツツ主教、米のライナス・ポーリング氏、英のドロシー・ホッジキンス氏のノーベル賞受賞者3人を含む内外の科学者ら12人が世界平和確立の道を探る。「平和宣言の心を全世界の人々が心に深く受けとめるよう求める」とヒロシマ・アピールを発表
1986/8/6
荒木広島市長が平和宣言。「平和、それは広島の悲願である。昨年8月6日以降、ソ連が核実験を停止し、また米ソ首脳会談が開催され、核軍縮の前途に曙光を見いだし得たかと思われた。しかし、核軍縮交渉は遅々として進まず、核兵器は質的、量的に増強され、核戦略は宇宙空間にまで拡大されようとしている。ソ連のチェルノブイリ原発事故は人々を放射能の恐怖に陥れ、安全管理の国際協力に大きな課題を残すとともに、1国の事故が他国にも禍を及ぼすことを知らしめ、世界は核時代の現実に慄然とした。不幸にして凶弾に倒れたパルメ・スウェーデン首相は広島で階段の石段に焼きつけられた人影を見て『核戦争が起こればこの人影すら残らないだろう』と人類の終末を予見した。いまや核兵器廃絶と平和を願うヒロシマの声は世界の世論である。核兵器保有国は直ちに核実験を永久に停止すべきである。人類生存の命運を握る米ソ両国は、世界最初の被爆地広島において首脳会談を開催し、核軍縮への具体的方策を明示すべきである。国連事務総長は米ソ両首脳の広島訪問を積極的に働きかけるとともに、第3回軍縮特別総会を速やかに開催すべきである。日本政府はこれらの実現に努め、憲法の平和理念に基づき、国是である非核三原則を厳守し、核兵器廃絶への先導的役割を果たすべきである。時あたかも国際平和年。ヒロシマはここに『平和サミット』を開催し、核兵器廃絶と恒久平和実現への国際世論を喚起する」
1986/8/6
広島被爆41周年。広島市が平和記念公園の原爆慰霊碑前で原爆死没者慰霊式・平和祈念式。市民5万人が参列。この1年間に確認された4,941人の死没者名簿奉納。広島市の特別名誉市民アイリーン・アンダーソン前ホノルル市長が献花▽原爆ドーム周辺では500人が原爆投下時刻の8時15分にダイイン。大阪市でも「核はいりまへん-平和な世界を!8・6行動」の女性150人がダイイン▽東大寺、興福寺、唐招提寺など奈良県内の200近い寺院、キリスト教教会で平和への願いを込め鐘が一斉に鳴る
1986/8/6
国際平和年を記念した全国高校生平和文化祭典が広島市で開かれ演劇や歌で反戦、反核を訴え
1986/8/6
広島平和文化センターなどが広島厚生年金会館で「平和コンサートの夕べ」。広島交響楽団が団伊玖磨氏の交響曲第6番「HIROSHIMA」など演奏
1986/8/6
全米や欧州各地でヒロシマデー反核行動。ギリシャのアテネではパルテノン神殿で700人が黙とう▽ローマでは原子力発電所の是非を国民投票にかけるよう求める93万人の署名を集め、請願書を高等裁判所に提出▽ニューヨーク市では100万人の名前を電話帳から引き出した第三次世界大戦墓碑銘が登場▽米ネバダ州の地下核実験場付近やカリフォルニア州北部のローレンス・リバモア研究所などで130人以上が逮捕
1986/8/6
千葉県我孫子市に広島市役所旧庁舎の被爆石を使った平和記念碑が完成。平和都市宣言を記念する碑で、広島市の原爆慰霊碑をモデルにしたはにわ型
1986/8/6
米国務省が公表した外交文書で、1955年の台湾海峡危機の際、当時のアイゼンハワー大統領が中国本土に核兵器を使用する方針を決定していた事実が判明
1986/8/6
広島医療生協原爆被害者の会が体験集「ピカに灼かれて」第9集を発行
1986/8/6
広島県山県郡芸北町の原爆被爆者友の会が体験集「原爆の追憶」を出版
1986/8/6
広島在住の外国人らでつくる「ヒロシマデー国際電話プロジェクト」のメンバー50人が平和祈念式典の模様を世界25カ国へ電話で実況中継。少年少女国際電話会議も初めて催される
1986/8/6
原水禁国民会議(社会党・総評系)の被爆41周年原水爆禁止大会ヒロシマ行動の集約集会が閉幕。広島市の中央公園に3,000人が参加。関口和事務局長が「世界に広がる核被害を食い止める行動を」と訴え▽日本原水協(共産党系)の原水爆禁止1986年世界大会も閉会集会。広島県立体育館に1万1,000人が参加。「被爆者と連帯して運動の流れを作り出し、すべての人の理性と良心を結集しよう」とのアピール採択。分裂大会の溝を一段と深める
1986/8/6
斎藤十朗厚相が広島市で記者会見。韓国政府が打ち切りを通告してきた在韓被爆者の渡日治療について「継続できるよう、11月まで折衝を進める」と表明
1986/8/6
広島原爆の日に合わせ、核軍縮と平和を世界に呼びかける第2回6カ国首脳会議がメキシコで開幕。7日まで。参加国はメキシコ、スウェーデン、インド、アルゼンチン、ギリシャ、タンザニア。米ソ首脳会談の早期開催、核兵器不使用の国際条約締結などを求めるメキシコ宣言と米ソ核実験凍結について6カ国の具体的協力をうたった「(核実験)検証問題に関する協力文書」を発表
1986/8/6
広島テレビが、オーストラリアの姉妹局「キャピタル7」が1976年に制作したドキュメンタリー「AftertheA‐Bombs」を放送。英が1952年にモンテベロ島で行った核実験とその後の島の変容をルポ
1986/8/6
日赤長崎原爆病院が1985年8月から1年間の被爆者検診状況を発表。外来新患者数は初めて1万人を超えて1万70人に。病気別ではがんの21%が最多(「長崎年表」)
1986/8/6
「『原爆ヒーロー』エザリーの神話」(佐藤とよ子氏著)出版。朝日新聞社
1986/8/6
山口県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑が「語り~山口のヒロシマ4」を発行
1986/8/7
長崎市で原水禁国民会議の被爆41周年原水禁大会の開会総会始まる。18カ国44人の海外代表を含む4,000人が参加
1986/8/7
広島市で開かれていた「教育課程と教授のための世界協議会」の第5回世界教育大会閉幕。「世界中の教師が平和教育に取り組もう」とのアピール発表
1986/8/8
米下院本会議が地下核実験を1987年初めから1年間停止する修正法案を可決。上院も7日の本会議でレーガン大統領にソ連と全面的核実験禁止交渉を行うよう要請する決議案を採択。レーガン政権に圧力
1986/8/8
長崎被災協など7団体の「86国際平和年長崎市民のつどい」と日本原水協(共産党系)の原水爆禁止1986年世界大会・国際交流会議がそれぞれ開幕
1986/8/9
原水禁国民会議(社会党・総評系)の被爆41周年原水爆禁止閉会総会、日本原水協の原水爆禁止1986年世界大会が閉幕。9年ぶり分裂大会となった3つの独自大会がすべて終了
1986/8/9
南太平洋諸国会議が、公海上への核廃棄物の投棄を避けるよう求める交渉を日、中、米、仏の4カ国と個別に開始へ
1986/8/9
本島等長崎市長が平和宣言。「ソ連のチェルノブイリ原子力発電所からの死の灰は、10日あまりで地球を取り巻いた。この教訓を核戦争の防止に向けての国際世論の中に生かさなければならない。今日世界はいや応なく、米ソのペースに同調せざるを得ない状況をつくり出している。しかし唯一の被爆国としてわが国は、非核三原則を厳守し、米ソ首脳会談の早期実現、宇宙軍備拡張の防止、被爆者援護の確立など真剣に努力すべきである。特に中曽根首相にお願いしたいのは、軍縮交渉の場を長崎、広島にも誘致していただきたいこと、世界の子どもたちの教科書に原爆の惨状を誤りなく書き込んでいただきたいことです。今や世界中の平和を求める都市は数限りなく増え続け、特に平和市民団体も国境を超えて大きなうねりとなってきた。都市も平和組織も前進のため手をつなぐ時である」
1986/8/9
長崎被爆41周年。長崎市が平和公園で原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典。2万4,000人が参列。中曽根首相も出席。この1年に確認された6,208人の死没者名簿を奉安。奉安者総数は7万2,808人に
1986/8/10
長崎市の原爆犠牲者慰霊・世界平和祈念市民大行進に5,000人が参加
1986/8/10
広島市似島の老人ホーム、平和養老館に平和観音像が完成。落成式と慰霊祭
1986/8/11
米ソ首脳会談の年内開催をめざす準備作業の米ソ軍備管理・軍縮専門家会議がモスクワで始まる
1986/8/11
シュルツ米国務長官がヘイドン・オーストラリア外相との会談で、核兵器積載米艦船の寄港を拒否しているニュージーランドの防衛義務打ち切りを表明
1986/8/11
南太平洋諸国会議が域内の非核地域条約をめぐり、米、英、仏など核保有国にも受け入れ可能な条文を挿入、コミュニケを採択し閉幕
1986/8/11
ゴルバチョフ・ソ連書記長が訪ソ中の不破哲三共産党委員長と会談。不破委員長が記者会見でソ連の核実験凍結措置の延長について「世界の期待に背かない方向で積極的に検討されている」と感触を述べる
1986/8/12
米上院本会議が1987年度戦略防衛構想(SDI)研究予算を31億ドルに削減する修正案を可決
1986/8/14
ジュネーブ軍縮会議で、地下核実験探知のため、より精密なデータ交換実験を1988年をめどに実施することを決める
1986/8/15
イタリアの画家バルバラ・ビリエリさんが手形で製作した「平和の樹」を広島市に寄贈
1986/8/15
愛知県原水爆被災者の会婦人部が「原爆、忘れまじ~ヒロシマ・ナガサキ被爆体験手記集」第2集を発行
1986/8/15
41回目の終戦記念日。東京の全国戦没者追悼式に原爆死没者遺族が初めて参列
1986/8/15
ソ連政府が国際原子力機関(IAEA)にチェルノブイリ原発事故の報告書を提出。「発電機の実験準備の過程でスタッフが安全装置を切った」と人為ミスを強調した上で(1)許容限度以上に制御棒を操作(2)実験計画を超えて出力を下げたため制御不能になった-など6つの過失で爆発と結論
1986/8/16
倉成正外相が核弾頭装備可能な米戦艦ニュージャージーの佐世保港寄港で、マンスフィールド駐日大使に非核三原則厳守を申し入れ
1986/8/18
ゴルバチョフ・ソ連書記長が「一方的核実験凍結を年末まで延長」と発表し、米に同調呼びかけ。延長は4回目で、凍結期間は1985年8月6日から1年4カ月に。米は「有益でない」と同調拒否
1986/8/19
佐世保に寄港予定の米戦艦ニュージャージーの随伴艦、原子力潜水艦タニーが沖縄県の米海軍ホワイトビーチ基地に入港
1986/8/19
反戦・反核を語り合うピースボート86が広島港を出発。被爆者ら540人が乗船し、戦跡のベラウ(パラオ)共和国、フィリピン、台湾へ
1986/8/19
広島平和文化センターが仏ベルダン市で開くヒロシマ・ナガサキ原爆写真展に原爆パネル発送
1986/8/20
広島市の原爆死没者名簿に記載され、被爆死したとみられていた高松市の松島信昭さんの生存確認。松島さんは旧制広島二中から被爆直前に転校
1986/8/20
「原爆被害者援護法~反原爆論集2」(石田忠氏著)出版。未来社
1986/8/20
広島県が国連に派遣する初の「ひろしま平和大使」に選ばれた渡辺宏文君(安芸郡下蒲刈町立大地蔵小学校5年)ら小、中学生4人が広島を出発
1986/8/21
東京・練馬区の青少年平和作文コンクールに入選の中学、高校生13人が広島原爆資料館など見学
1986/8/21
レーガン米大統領が7月にゴルバチョフ・ソ連書記長にあてた書簡で、弾道ミサイル全廃を提案していたことが明らかに。米政府筋が共同通信に言明
1986/8/21
広島県が派遣した小、中学生4人の「ひろしま平和大使」がニューヨークの国連本部を訪問。マーテンソン、明石康両事務次長に核のない世界を訴えるデクエヤル事務総長あてメッセージを手渡す。22日には米、英、仏の核保有国の国連代表部を訪問、竹下虎之助知事の軍縮メッセージや非核県宣言を手渡す
1986/8/22
核燃料工場汚染を告発した女性研究員がナゾの死を遂げたカレン・シルクウッド事件で、カー・マギー社が遺族に補償金138万ドルを支払うことで和解成立
1986/8/23
海上自衛隊呉地方総監部が、佐世保港に入港する米戦艦ニュージャージー随伴艦のうち巡航ミサイル搭載駆逐艦メリルが呉市に寄港すると発表。呉地区労、呉原水協などが佐々木有市長へ入港拒否を申し入れ
1986/8/24
巡航ミサイル・トマホーク積載の米第7艦隊戦艦ニュージャージーが佐世保港に入港。随伴駆逐艦メリルは呉港、原子力巡洋艦ロングビーチは横須賀港へ。非核三原則空洞化を懸念し広島、呉、佐世保などで抗議行動
1986/8/24
「全国盲婦人広島大会」に出席した代表が16万羽の折りづるを原爆の子の像に供える
1986/8/25
チェルノブイリ原発事故の原因や経過を分析する国際原子力機関(IAEA)の専門家会議がウィーンで始まる
1986/8/25
米戦艦ニュージャージーの日本寄港について米国防総省が「核の有無を明らかにしない方針は不変」と表明
1986/8/25
米駆逐艦メリルの呉入港に抗議し呉地区労や社会党呉総支部などの60人が市役所前に座り込み。海上自衛隊呉基地前で呉原水協の80人が集会を開くなど抗議
1986/8/25
広島県山県郡芸北町の浄謙寺に韓国人原爆犠牲者の碑が完成。近所の人ら20人が法要
1986/8/27
米駆逐艦メリルが呉港を出港。戦艦ニュージャージーの寄港地、佐世保に向かう
1986/8/27
米戦艦ニュージャージーの佐世保寄港に抗議し実効ある非核政策を求める25万人の署名簿を首相官邸に提出。「非核を求める草の根全国集会」実行委員会が呼びかけ
1986/8/27
米戦艦ニュージャージーが寄港中の佐世保港に米原子力潜水艦ポラックが入港
1986/8/27
チェルノブイリ原発事故の原因や経過を分析する国際原子力機関(IAEA)の専門家会議で、ソ連がキセノンやクリプトンの放射性希ガスによる放射能5,000万キュリーの環境放出を認める
1986/8/27
1957年5月に米ニューメキシコ州アルバカーキ近くで米空軍機から18.9トンの大型水爆が落下、起爆装置は爆発したが、水爆は爆発を免れていたことが判明。アルバカーキ・ジャーナル紙が政府資料を入手し公表
1986/8/28
米原子力規制委員会顧問のゲーリー・ミルフォリン氏が、インドの核疑惑で記者会見。「インドは中国からひそかに重水を輸入したり、国際原子力機関(IAEA)が禁じている原発からの重水抜き取りで、年間15発の原爆製造が可能なプルトニウムを手にしている」
1986/8/28
国際原子力機関(IAEA)のチェルノブイリ原発事故専門家会議4日目。事故当時、原子炉内にあった核燃料の3、4%が外に飛び散り、うち2~5%が20キロ以遠に到達していたことが判明
1986/8/28
米民間グループ「市民による適正エネルギー」が米原子力規制委員会の文書などを基に「1985年の米の原発事故は3,000件。84年に比べ23%増」と発表
1986/8/29
ウィーンの国際原子力機関(IAEA)の専門家会議が原発事故の国際協力を確認し閉幕
1986/8/29
ジュネーブ軍縮会議が化学兵器、包括的軍縮計画などの報告書を採択し閉会
1986/8/29
仏の保守系週刊誌レクスプレスが「ミッテラン大統領は1985年に起きたニュージーランドの環境保護団体グリーンピースの核実験抗議船爆破の『虹の戦士事件』を当初から知っていて、もみ消しに加担」と暴露記事を掲載
1986/8/29
米航空宇宙局が「追跡用衛星2個を地球軌道に乗せるためのデルタロケットを近く打ち上げ」と明かす。戦略防衛構想(SDI)関連の衛星打ち上げは初
1986/8/31
東京で始まった第23回国際社会福祉会議の会場で広島市社会福祉協議会が原爆資料展
1986/8/31
「ストップ・ザ・戦争への道!ひろしま講座」(宗像基代表)など5団体が米駆逐艦メリルの呉入港などに抗議し広島市の平和記念公園で座り込む
1986/8/31
原爆開発のマンハッタン計画を指導した故ジェームズ・コナント・ハーバード大総長が原爆開発で文明が滅びることを恐れ、後世のために記録保存を真剣に考えていた事実が明らかに。米紙ワシントン・ポストが伝える
1986/8/--
爆心地から40キロ離れた中国山地から原爆投下直後のキノコ雲を撮影した2枚の写真が見つかる。広島県高田郡美土里町の織田吾郎さん撮影
1986/8/--
三次市に呉海軍病院の分院が置かれていたことが当時の看護婦の証言で判明。原爆投下後、被爆者救援に従事
1986/8/--
教育出版の第一学習社が、全国の高校2年生1,330人を対象に「平和観」調査。「今の日本は平和だが、いつまでも続くとは思えない」と感じ、82%が「10年以内に日本は核保有国に」と回答
1986/8/--
平和をテーマにした版画を世界の美術館に贈る運動を進める広島県沼隈郡沼隈町の「美術の森」版画工房で、最初の作品が完成。カナダなど15美術館に贈る
1986/8/--
広島市大手町1丁目の原民喜詩碑の死亡日(1951年3月13日)が「3月12日」と誤って刻まれていることが福島県の教師の指摘で判明
1986/8/--
マーシャル諸島共和国がビキニ核実験40周年で記念切手を発行
1986/8/--
市民団体「トマホークの配備を許すな呉市民の会」などが広島県内の非核宣言自治体の活動を調査。非核宣言した27自治体のうち9自治体が具体的な活動なし
1986/8/--
広島・長崎の証言の会が「ヒロシマ・ナガサキの証言86夏号」発行
1986/8/--
エジプトのアレクサンドリアで広島原爆の悲劇を描いた劇「ヒロシマ」が好評。地元の詩人ファラク・マクセムさんの脚本

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