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ヒストリー

ヒロシマの記録1984 7月


1984/7/1
防府市在住の児童文学作家、那須正幹さんが「折り鶴の子どもたち」を出版。PHP研究所刊
1984/7/2
通産相の諮問機関、総合エネルギー調査会の原子力部会(松根宗一部会長)が「核燃料の濃縮、再処理、廃棄物処分の一貫体制確立を急ぐため、核燃料サイクルの商業化を急げ」とする提言
1984/7/3
映画「白い町ヒロシマ」の主役に広島市の菊崎志保さんが決まる
1984/7/4
長野県議会が非核三原則の堅持を内容とする「非核平和県民宣言」を全会一致で決議。都道府県レベルの非核宣言は1982年10月の徳島県議会に次いで2番目
1984/7/4
中国電力島根原子力発電所2号機の建設に伴う漁業補償交渉が全面解決。総額46億4,100万円
1984/7/4
弟を原爆で失った広島の歌人宮田定さんが、広島平和記念館に原爆ドームを描いた水墨画を寄贈
1984/7/4
広島YMCAの玄関にある旧済美国民学校の碑の横に、詩人峠三吉氏の詩「墓標」を彫った銅板
1984/7/5
米女性フォーク歌手のシャリーン・ゲッディスさんが日本公演スタート。3年前来日の際「ヒロシマ」を作詞作曲、今回も「2度と再び」を披露へ。8月6日の原水禁世界大会広島大会にも参加
1984/7/5
日本原水協が原水爆禁止84年世界大会準備委員会の代表委員を草野信男氏から金子毅統一労組懇常任代表委員に、運営委員を吉田嘉清氏から赤松宏一事務局長に変更
1984/7/5
神奈川県議会が「神奈川非核兵器県宣言」を賛成多数で可決。自民党は反対
1984/7/5
東京・日比谷公会堂で「反核・日本の音楽家たち」(芥川也寸志氏ら代表委員43人)の反核演奏会。「演奏家たちのメッセージ84」。13日も
1984/7/5
被爆者の生活と意識についての中国新聞社調査で、「8割近い人が被爆者であることを意識し、3人に2人が将来に不安」。核戦争懸念も半数超す
1984/7/6
69歳の被爆女性が広島市で入水自殺
1984/7/6
東京都内の10市区首長が反核・平和で初会合。青山良道中野区長が呼びかけ
1984/7/6
オーストラリアのリチャード・バトラー国連大使が広島市を訪れ、原爆慰霊碑に参拝、資料館を見学
1984/7/6
鳥取県議会が「核軍備反対の意見書」を賛成多数で可決
1984/7/6
オリンピック開催中の米ロサンゼルスで8月に反核行動を計画している米の「84平和と正義のための動員」のメンバー、リー・ゼファさんが広島市を訪れ、平和の灯の分火などを広島市に感謝
1984/7/6
84国民平和大行進が団体旗自粛問題で大阪府内から分裂行進。原水禁系の大阪軍縮協と、共産党系の大阪原水協・市民団体の大阪生協連の2コースに
1984/7/6
セルヒオ・ゴンサレス・ガルベス駐日メキシコ大使が広島大で講演。「アジアにも非核地帯を」
1984/7/7
長崎大の公開講座「平和を考える」が開講。市民ら84人が参加(「長崎年表」)
1984/7/7
高知県議会が「非核平和高知県宣言」を全会一致で採択
1984/7/7
広島県原水協が全県理事会で団体旗自粛の破棄を決める。役員改選で佐久間澄理事長は留任したが、原水爆禁止84年世界大会広島実行委員会に参加していた藤本幸作事務局長は事実上の更迭、後任に全商工中国支部の藤田厚吉委員長を選び、5人の副理事長のうち徳毛宜策副理事長ら3人が交代
1984/7/7
平和大行進の長崎-広島コースが原水禁、原水協の対立なく長崎をスタート
1984/7/8
ビルマのサン・ユ大統領が原爆資料館など見学。夫人、息女、外相ら一行43人
1984/7/8
スライド「広島市民が描いた原爆の絵」の説明文の翻訳活動支援を目指し大阪で「ヒロシマの資料を海外にしらせる市民基金の会」(山中栄子代表)が発足。山中さんの長男の速人さんを中心とした翻訳活動を支援。11月27日、完成した11カ国語分を広島市の「ヒロシマを知らせる委員会」(原田東岷委員長)に手渡す
1984/7/9
広島県原水協と同県平和委員会が、原水禁84年世界大会広島実行委員会への代表派遣を藤本幸作前原水協事務局長から武田寛事務局次長に、湯川寛子平和委副理事長から大西良子委員に代える
1984/7/9
米ミシガン大の医学生ら11人が原爆病院を訪問、被爆者医療の実態学ぶ
1984/7/10
中国電力島根原発2号機が着工。日本で38基目。総工費3,200億円、営業運転1988年9月を目指す。計画公表から10年、事前調査申し入れから8年7カ月。反対派1,000人が抗議集会
1984/7/10
広島県労青年部など県原水禁加盟9団体の主催する県内87市町村「平和の火リレー」が平和記念公園を出発。3回目。26日、広島市に帰着
1984/7/10
原水禁84年世界大会準備委員会が東京で5回目の運営委員会。日本原水協の内部紛争を反映し草野信男、吉田嘉清氏と金子毅、赤松宏一氏が共に出席
1984/7/10
英軍事専門誌ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリーが「5月13日にソ連コラ半島のセベロモルスク海軍基地のミサイル貯蔵基地で大爆発事故。少なくとも200人が死亡。火災は5日間続き、北方艦隊は6カ月間、活動困難に」と報道
1984/7/11
中国新聞が広島県原水協理事長に留任した佐久間澄氏にインタビュー。「1977年の原水協、原水禁の組織統一合意以来、市民団体などと共に積み重ねてきた統一への努力の過程を抜きに、政党が大衆団体へ過剰な介入をした結果が今回の事態だと思う。介入に抵抗を示した事実を残すことは今後の平和運動にマイナスにならないと判断した。個人としては現在、中央組織とは距離を置いている。中央の運動をいい方向に向けるためにも、原点での運動を強化しなければならない、と考えて(理事長留任を)決断」
1984/7/12
広島平和教育研究所(空辰男理事長)が、米の中学、高校の軍縮教育教材「選択-紛争と核戦争についての単元」の日本語版「チョイス-核戦争か希望か」を出版。原作は米の「憂慮する科学者同盟」が制作
1984/7/12
中国外務省が「今年の原水禁世界大会にオブザーバーを派遣」と発表。団長は羅冠宗中国国際交流協会理事
1984/7/13
広島県歴史教育者協議会(横山英会長)が、中、高校生向けに「原爆モニュメント物語」を出版。平和記念公園と周辺の13のモニュメントについて記す
1984/7/13
丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」9点が京都市美術館で展示。30日から熊本で6点、長崎でも8月9日から6点を展示
1984/7/13
ベルギー政府が米の巡航ミサイル48基をブリュッセル南方フロレンス基地へ配備決定
1984/7/13
全国革新市長会(伊藤三郎川崎市長)総会で「非核宣言都市連絡会議」の発足決める
1984/7/14
広島市の私立城北高校の生徒宅にホームステイしヒロシマ学習をしている米ニューヨーク州のブルースター高の生徒ら11人が原爆資料館を見学
1984/7/14
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。スウェーデンのウプサラ大地震研究所が発表
1984/7/15
中国新聞が「試練の原水禁統一大会影落とす原水協内紛」と題しまとめ記事。1977年以来、まがりなりにも続いてきた統一大会が開催不能になりかねない事態を前に、再出発への関係者の声など収録
1984/7/16
荒木広島市長が14日のソ連核実験に抗議電報
1984/7/16
山口県上関町の漁民ら150人が、原発建設に反対し中国電力本社前に座り込み。直接抗議は初
1984/7/17
日本原水協が常任理事会で草野信男、吉田嘉清氏に対する問責決議を採択。吉田氏を原水協の専従役員から罷免
1984/7/17
奄美諸島の被爆者掘り起こしのため長崎県被爆者手帳友の会(深堀勝一会長)が名瀬市で聞き取り調査。長崎市の軍需工場に動員され被爆した人が多く、手帳未交付は75人と分かる
1984/7/17
米ソが新ホットライン協定に仮調印。衛星でファクス送受信へ
1984/7/17
ソ連の14日の地下核実験に抗議し、広島県内の28カ所で被爆者らが座り込み
1984/7/18
広島市の「ニュー双葉美容室」(沖幾三社長)が広島原爆病院で入院患者の整髪奉仕。1957年から8月6日前と年末に行い52回目。8月6日には広島市の美容師新田ツヤ子さんが17回目の美容奉仕
1984/7/18
電気事業連合会が核燃料サイクル3施設の立地を青森県六ケ所村に決定
1984/7/18
在日米海軍が空母ミッドウェーに核爆雷積載可能ヘリコプター6機の配備を確認
1984/7/19
広島県原水協が広島市で開く原水禁84年世界大会の準備中断を決める。28日、広島入りする平和行進も独自コースを設定
1984/7/19
衆院社労委で被爆者手当の2%増額を盛り込んだ被爆者特別措置法改正案を共産党を除く各党賛成で可決。野党共同提案の被爆者援護法案は廃案に
1984/7/20
「核兵器廃絶平和都市」宣言の甲府市が、8月6日の広島市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式典へ市民代表53人の派遣決める。長崎市以外の自治体が同式典に市民代表を送るのは初
1984/7/20
中沢啓治さんのアニメ第2作「黒い雨にうたれて」が完成し東京で試写会
1984/7/20
イングランド北部セラフィールドの核燃料再処理工場周辺で「白血病の発生が全国平均の10倍」と英政府筋が発表
1984/7/20
84国民平和大行進が分裂したまま岡山入り。岡山県内でも原水協、原水禁、市民団体が個別に引き継ぎ、間隔をおいて分裂行進に
1984/7/20
画家の丸木位里、俊さん夫妻の作品を集大成した「鎮魂の道-原爆・水俣・沖縄」出版。作品36点を収録。岩波書店刊
1984/7/20
政府が非核三原則、核不使用条約で社会党の稲葉誠一氏に答弁書。「非核三原則は既に内外に周知徹底されており、改めて法制化の必要はない」「核不使用条約のような実効性を欠いた条約の締結を主張する考えはない」「前年1年間のトマホーク積載可能な米原潜の日本寄港はスタージョン級12回、ロサンゼルス級5回」
1984/7/20
東京で開かれた原水禁84年世界大会準備委の席上、代表委員の中野好夫氏が「草野信男、吉田嘉清両氏から辞表が出ている」と報告。文面は「原水禁運動の統一と世界大会の成功を願い辞任する」
1984/7/21
84国民平和大行進について今堀誠二広島女子大学長、長崎広次広島大名誉教授、相原和光YMCA国際平和研究所長、木村富十四県生協連会長が「統一行進を実施し(自粛するかどうかで対立している)旗問題は自粛の精神を踏まえて各団体の良識にゆだねる」との提言を発表
1984/7/21
広島県原爆被爆教職員の会が、OBを加えた組織強化を総会で決定
1984/7/21
ソ連がカスピ海北方で10分間に3回連続地下核実験。スウェーデンのウプサラ大地震研究所が発表
1984/7/21
日本大学付属第二中の藤本一臣教諭が広島原爆養護ホームに入居している友保キヌエさんの被爆体験を聞き書き、英訳し民間ユネスコ世界大会参加者に配る
1984/7/21
中国新聞が原水禁84年世界大会準備委運営委員を辞任した吉田嘉清氏にインタビュー。「(辞任は)ギリギリの状態の中で、悩み抜いた末の結論だ。草の根の活動家たちが今年の大会を体験することによって今の組織の枠組みを打ち破り、大きな運動につないでくれることを期待して辞任を決意した」「(今回の事態は)共産党が原水協を別動隊にしようとしたのが根本原因だ。原水協を思うがままの団体にするためには私が邪魔だったのだろう。クーデターが起き、原水協は分裂したのだ」「組織に寄りかからない運動こそ今、問われていると思う。この政党介入は、運動全体が直面している問題だということを理解してほしい」
1984/7/22
中国新聞が「原爆被爆者援護法案」の国会上程の歴史をまとめる。1959・11・12(社会)継続・廃案自63・2・8(同)同自64・4・16(参院、社会)同自66・6・13(社会)同自67・6・5(同)同自71・2・24(社、公、民)廃案自72・3・7(同)同自73・3・7(社会)修正のため撤回自74・3・29(社、共、公、民)廃案自74・12・18(参院、社、共、公、民)継続・廃案自75・10・15(参院、社、公、共、民、二院ク)同自77・4・19(社、公、民、共、新自ク)廃案自77・10・15(同)継続・撤回自81・3・17(社、公、民、共、新自ク、社民連)廃案自82・4・8(社、公、民、共、新自連=新自ク、社民連)同自83・3・17(同)継続・廃案自84・3・30(社、公、民、共、社民連)廃案
1984/7/22
80カ国130人の海外代表が参加し、広島市で第1回民間ユネスコ運動世界大会広島大会を開催。ストックホルム国際平和研究所のロルフ・ビョーネルシュタット理事長、米の国防情報センターのジェームス・ブッシュ副所長らが出席
1984/7/22
仏から日本へ使用済み核燃料から取り出されたプルトニウム250キロを米、仏の艦船で護送へ
1984/7/22
中国新聞が歴代首相・厚相の被爆者援護法語録をまとめる
1984/7/23
荒木広島市長が21日のソ連地下核実験に抗議し在日ソ連大使館に抗議電報
1984/7/23
広島県庁ギャラリーで初の原爆写真展。8月4日まで。広島、長崎両県が1982年度に作った原爆写真パネル20点(写真64枚)で、これまでに全国29会場で展示
1984/7/24
ジュネーブ軍縮会議で核実験全面禁止交渉の小委員会設置見送りが確定。米ソの対立が原因
1984/7/24
ソ連の21日の地下核実験に抗議し、広島県内28カ所を含め全国40カ所で被爆者らが座り込み
1984/7/25
84平和国民大行進について広島県内は統一行進が実現。84年世界大会広島実行委員会事務局会議で決める。(1)旗の掲揚を含め参加の方法は問わない(2)行進は原水禁と原水協の間に生協を中心とする市民団体が入り、出発順序は禁、協が一日ごとに交代
1984/7/25
20年間、被爆体験をつづり続けた広島の主婦のサークル誌「あさ」が会員の老齢化などで18号を発行し終刊へ。1964年10月、会員の1人山下朝代さんを38歳で原爆症で失ったのを機に「山下会」を結成、名前から1文字を取って「あさ」を年1度刊行してきた。20年間に3回休刊。最初からの会員はいない中で、3年目から加わった広島市安佐北区の隆杉京子さんらが中心に活動
1984/7/25
米国がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1984/7/26
広島国際文化財団(山本朗理事長)の84年アキバ・プロジェクトの米4記者が広島入り
1984/7/26
荒木広島市長が25日の米核実験に抗議電報
1984/7/26
戦争の犠牲となった世界各国の子どもたちの被害をドキュメンタリーフィルムとアニメで記録した「戦争=子どもたちの遺言」が完成、東京で試写会。「10フィート運動」を進めた羽仁進さん、岩倉務さんらが製作
1984/7/26
被爆女性の手記集「木の葉のように焼かれて」の第18集が、新日本婦人の会広島県本部の手で発刊
1984/7/26
ニュージーランドに労働党政権発足。デービッド・ロンギ首相は非核三原則を貫き、原子力艦艇の寄港拒否の方針示す
1984/7/27
長崎県原水協の森正雄理事長の辞任、組織脱退が明らかに。新理事長は9月30日、山川新二郎長崎総科大教授を選出(「長崎年表」)
1984/7/28
84平和国民大行進が広島入り。かろうじて統一の形保つ
1984/7/28
米の25日の地下核実験に抗議し、広島県内の10市10町28カ所で被爆者らが座り込み
1984/7/28
カリフォルニア州ロングビーチに仮住まいのバーバラ・レイノルズさんが、ベトナム難民を世話しながら衰えない平和への情熱
1984/7/29
テニアン島からエノラ・ゲイの出撃をミサをして見送った元米空軍従軍司祭のジョージ・ザベルカ神父が、ざんげの思いを胸に福山市から平和大行進に参加。戦後、広島、長崎を訪れショックを受ける。「原爆投下部隊の乗組員たちに精神的な影響を与える立場にありながら、止めることができなかったことを、広島、長崎の人々におわびしたい」。8月5日、広島市の幟町カトリック教会の「平和を考える集い」でざんげ。1982年には米のシアトル-ワシントン間の反核行進に参加、83年には英からヨーロッパ各国を回りベツレヘムに向かう平和巡礼団に参加
1984/7/29
英の日曜紙サンデー・テレグラフが、英軍捕虜として広島湾の貨物船内で作業中に原爆に遭い奇跡的に助かったというエドワード・ソーヤー元軍曹の体験記を掲載。手記によると「ソーヤー氏ら捕虜8人は広島郊外の収容所からトラックで太田川河口の桟橋に到着、うち4人が貨物船の砂糖を荷揚げ中に被爆。捕虜の米海兵隊軍医少佐と日本人医師が船外に連れ出してくれた。船外にいた仲間の捕虜4人は即死していた…」〈注〉信ぴょう性は疑問
1984/7/29
女性の立場で反核運動に取り組んでいる「デルタ女の会」(浜村匡子代表)が、広島市で「草の根の平和の声をつなぐつどい」を開く
1984/7/30
広島原爆病院の1983年度の病院白書まとまる。83年4月から84年3月までの入院患者の死亡は54人、過去10年で最低の記録。死因1位はがん
1984/7/30
日本被団協が1983年から進めていた被爆者調査の結果まとまる。22都道府県の3,690人が回答。病気や健康への不安が62.1%
1984/7/31
1985年の第1回世界平和連帯都市市長会議への参加表明都市が6カ国9都市にとどまっているため、広島、長崎市が新たに30カ国81都市に参加を呼びかけ
1984/7/31
広島平和文化センターが製作していた原爆映画「ヒロシマ・ナガサキ―核戦争のもたらすもの」のビデオ版が完成。1本1万5,000円
1984/7/--
宝塚市出身の元高校国語教諭北浦葉子さんがニューヨーク州郊外に住み、原爆フィルムやスライドをもって全米を行脚
1984/7/--
第五福竜丸の記録を児童向けノンフィクション「死の海をゆく第五福竜丸物語」として国際基督教大職員の長谷川潮さんが出版
1984/7/--
旧広島高等師範付属中の1年生たちが「昭和20年の記録-全滅を免れた附中1年生」を出版へ。同1年生たちは原爆1カ月から半月前に農村挺身隊として農村へ避難
1984/7/--
広島市の画家吉野誠さんが核実験抗議の座り込みをテーマにした80号の作品「無言の叫び-座り込みより」を完成
1984/7/--
「世界に愛と平和を広めよう」と広島工大付属中の生徒らが英文メッセージを134カ国の在日大使館、領事館に送り、各国語で「愛」と「平和」の言葉を送り返してくれるよう依頼。返事は石碑に彫り、広島市中区の同校広島校舎に設置
1984/7/--
岐阜県高教組恵那支部の教師たちが募金活動をし、県立恵那北高校と同中津高校の1年生3人を、広島市で開かれる原水禁世界大会と原爆死没者慰霊式・平和祈念式に派遣決める。岐阜県教委と恵那地区校長会が「生徒を組合活動に巻き込むべきでない」と中止申し入れ

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