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ヒストリー

ヒロシマの記録1974 4月


1974/4/2
長崎の原爆詩人、福田須磨子さんが死去。52歳。長崎市に青果卸商の末娘として生まれる。長崎男子師範会計課に勤務中に被爆、父母と長姉は自宅で爆死。1954年、ビキニ水爆実験に衝撃を受け、同年、病床から「ひとりごと」という告発詩を新聞に投稿、1958年詩集「原子野」を刊行、1968年、被爆後の日常の病苦と生活を見据えた記録「われなお生きてあり」で第9回田村俊子賞を受賞
1974/4/2
森山欽司科学技術庁長官が記者会見で「1975年度から核融合研究開発体制を整備し、四分の一世紀後には実用炉を実現。田中首相の了承を得た」と語る
1974/4/2
敦賀原発作業員が「被曝し放射線皮膚炎を起こした」と証言している問題で、田中首相が森山欽司科学技術庁長官ら関係閣僚に原因の徹底究明を指示
1974/4/2
広島被爆者団体連絡会議の近藤幸四郎事務局長ら代表10人が広島テレビを訪れ、「広島平和音楽祭」実行委員会(古賀政男委員長)に抗議。(1)右翼や暴力団と関係があると批判されている美空ひばりが平和のための音楽祭に出演するのは許せない(2)平和、原爆の名で歌謡ショーを開くのはもってのほか(3)長崎の原爆記念日の8月9日に広島で開くのはおかしい
1974/4/3
森山欽司科学技術庁長官が衆院科学技術振興対策特別委員会で「わが国の米原子力潜水艦の放射能監視体制は丁寧過ぎる」と発言。野党が反発
1974/4/3
陸上自衛隊13師団の栗栖弘臣師団長が全電通原爆遺族対策委員会と同被爆二世協議会の自衛隊広島市中パレード中止要請に対し「パレードを中止するつもりはない。むしろ反対運動を放置しているのが問題」と言明
1974/4/4
社会、共産、公明、民社の4野党が提出した被爆者援護法案が衆院社労委員会に付託され審議始まる。大原亨氏(社会・広島1区)が国家補償を立法の原則とした理由として(1)原爆投下は国際法で禁止されている毒ガス、化学兵器以上の国際法違反の行為だが、日本はサンフランシスコ条約で対米請求権を放棄しており、日本政府が補償すべき(2)太平洋戦争を開始し、終結する権限と責任は日本政府にあった(3)一般戦災と違った放射能被害の特殊性がある-などを挙げる
1974/4/4
参院予算委員会第4分科会が、敦賀原発で被曝し放射線皮膚炎にかかったと証言している岩佐嘉寿幸さんの問題で質疑。診察した医師や日本原子力研究所の幹部から事情聴取。被曝の可能性をめぐり真っ向から対立
1974/4/4
被爆者の救護や治療にあたった看護婦や医師、警防団員らを援護の対象に加える戦傷病者戦没者遺家族等援護法の改正案が衆院社会労働委員会で可決
1974/4/5
新潟県公害研究所が、環境放射能調査に使用した放射性物質セシウム137を紛失していたことを1週間後に発表
1974/4/8
広島市原爆被爆者協議会(会長、山田広島市長)や広島県被団協など8団体が被爆者問題懇話会開く。野党共同提案の被爆者援護法案の実現をめざす共同行動は意見が不一致
1974/4/8
中国電通局が被爆職員や被爆二世の健康管理などを充実させるため、労組と共同で「原爆被爆者対策特別委員会」を設置
1974/4/8
中国電力の山根寛作社長が記者会見で「島根2号に続き、山口県内に原子力発電所を建設」と表明
1974/4/12
韓国人被爆者の孫振斗氏の被爆者健康手帳請求訴訟で手帳交付の命令を受けた福岡県が「福岡地裁判決は原爆医療法の解釈に疑問」として控訴
1974/4/15
米国防総省が核攻撃に備え住民避難計画の検討を再開。アスピン下院議員が明かす
1974/4/15
日本分析化学研究所の米原潜放射能測定データねつ造事件で警視庁捜査2課が、同研究所の元部長を詐欺容疑で任意調べ。元部長は容疑否認
1974/4/15
大阪市の岩佐嘉寿幸さんが敦賀原発で被曝し放射線皮膚炎にかかったとして、日本原子力発電会社を相手取り4,000万円の損害賠償請求の訴えを大阪地裁に起こす
1974/4/17
広島テレビが広島平和音楽祭の開催趣旨に抗議していた広島被爆者団体連絡会議に「音楽祭は平和への願いを音楽で追求するもので他意はない。開催趣旨に反する歌手はいない」と回答
1974/4/17
広島原水協(佐久間澄理事長)と広島県被団協(田辺勝理事長)が広島市公会堂で「被爆者援護法の実現を迫る緊急集会」開き、決議文を採択
1974/4/18
原子力委員会の田島英三委員(立教大教授)が辞表提出。委員会の運営体制を批判
1974/4/19
ケネディ米上院議員がソ連の米研究所で「米ソが包括的な核実験禁止について話し合う時期が熟した」と演説
1974/4/19
政府が被爆者に対する各種手当支給の所得制限を緩和する被爆者特別措置法施行令の改正を閣議決定。年間所得税額8万円
1974/4/20
関西電力美浜原子力発電所1号機の定期検査で欠陥見つかる。蒸気発生器細管4本に金属管の厚みが減る減肉現象。福井県が設計変更要請へ
1974/4/20
岩佐嘉寿幸さんの敦賀原発被曝訴訟で、科学技術庁が調査委員会を設置
1974/4/20
原水禁国民会議と総評被爆連が広島市の見真講堂で被爆者援護法の即時制定要求集会。総評被爆連議長の大原亨代議士は「援護法案成立の見通しは暗い。次の国会に野党案に沿った政府案を出すよう働きかける」
1974/4/20
原水禁国民会議の広島、長崎、静岡3県連絡会議と社会党、総評の3団体が広島市で原水禁運動の統一をテーマに集会を開き、統一に努力することを確認
1974/4/22
中国電力島根原子力発電所が、2号機建設、電気料金値上げ反対を叫ぶ同社労組員ら200人によって約4時間封鎖される。運転には影響なし
1974/4/22
広島原爆病院が1973年中の診療概況を発表。過去最高の87人が死亡。入院患者の高齢化、長期化も深刻に
1974/4/23
「広島三菱重工業韓国人被爆者沈没遺族会」(盧長寿会長)がソウル市で発足。軍需工場に徴用され、戦後、木造船で帰国途中に壱岐で遭難した韓国人の遺族。(1)遺骨の捜索(2)補償金の支給-などを要求し田中首相あての決議文を後宮虎郎駐韓大使に提出
1974/4/24
原爆裁判を通して日本の戦争責任や韓国・朝鮮人被爆者、被爆二世の苦悩を描いた映画「人間であるために」が完成、東京・読売ホールで初上映。監督、脚本・高木一臣氏、出演・伊藤雄之助、中野誠也氏
1974/4/25
広島県安芸郡安芸町で被爆後の被災者収容名簿や死亡診断書などが見つかる
1974/4/26
日本学術会議が総会で原子力平和利用3原則の再確認を求める政府への勧告案を採択
1974/4/27
原子力委員会(会長、森山欽司科学技術庁長官)が東京電力福島第2原子力発電所1号機の設置を許可。初の公聴会意見に見解示す
1974/4/30
中国電力の山根寛作社長が「山口県内に原発を造りたい」と発言したことに対し、山口県阿武郡田万川町江崎漁協の代表が中国電力に「田万川町に立地の予定があるなら外して欲しい」と要請
1974/4/30
日本原水協が原水禁運動の国民的統一を呼びかけるアピールを発表。「野党4党が被爆者援護法案を共同提案するなど統一の手掛かりができた」
1974/4/--
広島市が姉妹都市のソ連・ボルゴグラード市に贈る原爆ドームの模型が完成。五十分の一の大きさで、広島市竹屋町の古田耕三氏が製作
1974/4/--
原爆投下直後に長崎県が調査した「原子爆弾空襲被害概況」が見つかる
1974/4/--
栗原貞子さんが詩集「ヒロシマ・未来風景」を出版
1974/4/--
米核実験のため1946年以来、強制移住させられていた旧ビキニ島住民の帰島延期。放射能除去、見舞金などで住民の同意を得られず
1974/4/--
広島大の平和科学研究所構想が固まる。研究センターと資料センターに8部門

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