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ヒストリー

ヒロシマの記録1968 9月


1968/9/2
爆心地の5カ町の関係者で組織する被爆地図復元中島地区委員会の土肥常三郎委員長らが山田広島市長に、全市復元地図の作製を要望。爆心地復元作業は広島大原医研を中心に爆心から半径500メートルの被爆前の町並みを復元する試み
1968/9/3
核実験のため22年間、島を離れていたビキニの旧島民300人のうち代表9人が帰島。ビキニ島民はロンゲラップ、ウジェラン、クェゼリン、キリと島を転々
1968/9/5
スウェーデンのウプサラ大地震研究所がソ連の地下核実験とみられる振動を観測。米政府原子力委員会も発表。震源はセミパラチンスク核実験場
1968/9/7
日本原子力発電会社と東京電力が1キロワット時4円78銭の売電価格で契約
1968/9/8
仏が南太平洋ムルロア環礁上空で2回目の水爆実験
1968/9/9
山田広島市長が仏核実験に抗議声明。山田市長と浅尾義光広島市議会議長がドゴール大統領に抗議電報。核実験国の元首に直接、抗議電報を打ったのは初めて。外務省も抗議談話
1968/9/11
原爆被災白書推進委員会の茅誠司会長(前東大学長)、大浜信泉元早大総長、作家の大江健三郎氏、今堀誠二広島大教授らが園田直厚相に、1970年の国勢調査で原爆被災者の全数調査を要望。厚相は前向き姿勢
1968/9/13
中国放送が天満屋広島店で「太平洋戦争名画展」。藤田嗣治氏の「雲の上の空中戦」、須田国太郎氏の「学徒出陣壮行の図」、安田靱彦氏「山本五十六元帥像」、小磯良平氏「サイパン島洞窟における南雲部隊」など原画44点と米に接収された作品の複写22点など
1968/9/14
日本学術会議の原爆被災資料小委員会(永積安明委員長)が広島大原医研で「原爆被災資料に関するシンポジウム」。学術会議側から永積委員長、福島要一委員、三宅泰雄委員の3人が出席、地元関係者から「原水爆被災資料センター」建設について広島側の意見を聞く。設置場所は平和記念公園との意見が強まる
1968/9/14
広島県安佐郡可部町の朝日輝一さんが原爆で亡くなった三男俊明さん(当時広島二中1年)の血のついた制服やシャツを原爆資料館に寄贈
1968/9/18
広島市での中国人権擁護委員連合会総会で、被爆をめぐる差別問題が正式に取り上げられる。結婚差別が深刻なため、遺伝の影響の解明を積極的に働きかけることを決める
1968/9/23
ジュネーブの非核保有国会議が、日本、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フィンランド、オーストリア、スイスの7カ国が提案していた原子力平和利用に関する共同決議案を採択。国際原子力機関(IAEA)の見直し、核保有国は平和利用のための情報公開、核物質供給を保証するなどを強調
1968/9/23
日本原水協が東京・夢の島の第五福竜丸前で「久保山愛吉氏追悼、第五福竜丸保存運動推進のつどい」
1968/9/25
広島市が「原爆戸籍」と同時に行った建物調査の原簿の行方を捜す。集計表は発見。被爆前の建物は7万6,327戸、うち92%が半壊以上の被害
1968/9/26
1970年の大阪万国博覧会への協力を呼びかけ広島市を訪れた石坂泰三博覧会会長が、広島市に原爆資料の展示協力を要請。テーマ館に合成写真「破壊」のシーンの一部として展示することに決定。合成写真は現代美術研究所の粟津潔氏が製作
1968/9/28
ジュネーブ非核保有国会議が終わる。平和利用問題では前進したが、安全保障問題は国連憲章の武力不行使を確認したにとどまる
1968/9/--
広島テレビのドキュメンタリー「ある夏の記録」が第21回イタリア賞番組コンクールで特別賞
1968/9/--
大竹市玖波支所で原爆被爆者の収容名簿見つかる。大竹、玖波、小方、木野の小学校に収容された487人。金輪島に収容後、大竹へ転送
1968/9/--
ABCCが広島市に「原爆戸籍」の返還を回答。返還は9月25日
1968/9/--
広島県地域婦人団体連絡協議会(吉原ノブヨ会長)が「平和のための1円募金」で、広島市白島北町、長寿園に「平和の森」寄贈へ
1968/9/--
米20世紀フォックス映画「魚が出てきた日」広島で上演。監督ミカエル・カコヤニス氏。原爆を積んだ爆撃機墜落とその後の関係者の行動を描く(「原爆被災資料総目録・第2集」)

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