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ヒストリー

ヒロシマの記録1966 5月


1966/5/1
ソ連国立ボリショイ・サーカスの一行65人が広島市を訪問。原爆慰霊碑に参拝
1966/5/4
外務省が国連局に「軍縮室」を新設。核軍縮外交推進の一環で、情報収集と分析に当たる
1966/5/7
ユーゴのチトー、アラブ連合のナセル両大統領が共同声明を発表。世界軍縮会議の開催を提唱
1966/5/8
広島市を訪れた湯川秀樹京大教授が記者会見。「原爆ドームは将来の人類のためにも、ぜひ保存してもらいたい。いつ人類を滅ぼすか分からない核兵器の恐ろしさは永久に忘れてはならないことだ」
1966/5/8
応用物理学会会長で上智大教授(元東大教授)の被爆者、平田森三氏(広島市出身)が急性白血病のため東京・順天堂病院で死去。60歳
1966/5/9
中国が9日、西部地区上空で核実験を行った-と北京放送が10日伝える。通算3回目
1966/5/9
広島市が、浜井市長と市民代表3人をソ連・ボルゴグラード市に親善訪問団として送ることを決める。ボ市の姉妹都市縁組の呼びかけにこたえる
1966/5/9
広島南ロータリークラブ(山中武夫会長)が平和記念公園に建立した平和の像「若葉」の除幕式。創立10周年記念で、少女が子ジカを連れたブロンズ像。円鍔勝三氏作。湯川秀樹京大教授の平和祈念の歌を台座に刻む
1966/5/10
中国の周恩来首相が演説。「中国の第3回核実験の成功は、解放のために戦っている人民たちに対する偉大な激励である。核兵器を独占することはできない。米帝国主義もソ連修正主義の指導者たちも核兵器によって生き延びることはできない」
1966/5/10
中国の核実験に対し、橋本登美三郎官房長官が談話を発表。「日本国民の名において強く抗議するとともに、再び繰り返さないよう強く反省を求める」
1966/5/10
中国核実験について佐藤首相が閣議で「放射能降灰の恐れがあるので、関係機関は早急に観測調査を実施し、危険防止に努めてほしい」と関係各相に指示。内閣放射能対策本部も放射能の測定強化を協議
1966/5/10
気象庁が中国核実験で全国14気象台に放射能臨時観測態勢に入るよう指示
1966/5/10
中国核実験に対し原水禁国民会議が緊急常任執行委員会を開き、抗議声明を発表。(1)実験の理由がどのようなものでも核兵器とその開発を政争の具とすることは絶対容認できない(2)中国に核実験の口実を与えるような核保有国の実験続行も反対
1966/5/10
核禁会議が中国核実験に抗議声明。「われわれはいかなる国のいかなる理由による核実験にも反対する立場から、中国の暴挙に強く反対し、これ以上、死の灰をふりまかないよう中国政府に反省を求める」
1966/5/10
日本原水協が中国核実験に声明文を発表。「米のベトナム侵略強化を軸にしたインドシナ全域への戦火の拡大、ますます露骨になった中国侵略の意図、核による脅迫に対応して今回の実験は行われた。今こそ人民大衆の力で核兵器使用禁止の国際協定を締結させる運動を起こすことが緊急課題。これこそが中国を含むすべての国の核実験をやめさせる最も現実的な方法である」
1966/5/10
中国核実験に反対し革マル派全学連90人が東京・国電新橋駅構内で抗議集会後、無届けデモ。学生4人逮捕。マル学同中核派の学生20人も都内で無届けデモ
1966/5/10
社会党の原爆被爆者対策特別委員会(大原亨委員長)が「原爆被爆者援護法」を議員立法の形で国会に提出する方針を決定。原爆医療法を改正して被爆者援護手当支給などを盛り込み、名称を「援護法」に改める
1966/5/10
世界平和アピール7人委員会が中国を含む軍縮会議開催を呼びかけるアピールを発表。米ソ英仏中の核保有国とジュネーブ18カ国軍縮委員会の加盟国に送付へ
1966/5/10
ジュネーブ18カ国軍縮委員会が休会。1962年発足以来、263回目の討議で散会。中心議題の核拡散防止条約をめぐる東西対立は解けず
1966/5/11
マクロスキー米国務省スポークスマンが「中国の第3回核実験はTNT火薬130キロトン相当」と発表。当初の推定より大型と言明
1966/5/11
内閣放射能対策本部が中国核実験による放射能測定結果を発表。秋田、東京、大阪、米子、仙台の各地方気象台で平常時の30~120倍を検出。12日には対策本部の本会議で、放射能の種類分析など対策を協議
1966/5/11
全国各地で中国核実験によるとみられる放射能降下物を観測。広島大理学部放射能研究室が強放射性粒子40個を検出。通常の1,200倍。新潟大理学部化学教室も29個を検出。内閣放射能対策本部は「直接人体に障害を起こすことはないが、放射能雨は避けた方がよい」と警告
1966/5/11
米中両国が相互に核兵器を最初に使用しないことを誓約する中国提案の「核兵器相互不使用案」を米政府が拒否-。米国務省スポークスマンが明かす。「強制力のない誓約は効力がない」が拒否の理由
1966/5/11
インド政府与党の国民会議派執行委員会がガンジー首相に「中国の脅威に対処するため、平和目的一本の核研究政策を修正し、核兵器開発に入るよう」要請
1966/5/11
スハルト・インドネシア副大統領が記者会見で、核爆弾製造計画を言明。「われわれも核爆弾をつくろうとしており、他の諸国に立ち遅れたくない」。ジャカルタ消息筋は「長期計画を指摘したにすぎない」と語る
1966/5/12
ロバート・ケネディ米民主党上院議員が上院で「中国と核兵器の管理を討議し、国際的な軍縮への努力に参加するよう同国を招請してはどうか」と提案。マンスフィールド、マクガバン上院議員が支持
1966/5/13
椎名悦三郎外相が衆院外務委員会で中国核実験について答弁。「中国は核兵器の全面廃棄のため核開発すると言っているが、米ソの膨大な核戦力の前に中国が核開発しても全廃のための発言力はない。まず中国が自ら核開発をやめるべきである」
1966/5/13
米政府原子力委員会が「中国の第3回核爆発は水爆ではない」と発表。放射能降灰の分析から「水爆開発への実験的な爆発装置」と推定
1966/5/13
国連の非同盟諸国55カ国代表が世界軍縮会議開催で非公式協議。準備委員会の発足を進める意向を強く示す
1966/5/17
原水禁広島市協議会(会長、浜井広島市長)が、8月6日に元安川で行う原爆犠牲者慰霊のとうろう流しの中止を決定。「市民から集める浄財を形式的な行事に使うと原水禁運動から一層市民を離れさせる。募金を被爆者救援に生かす道を考える」
1966/5/17
米上院がジョンソン大統領に核拡散防止協定の締結推進を勧告する決議案を全会一致で可決
1966/5/18
外務省が在日仏大使館を通じ、仏が南太平洋ムルロア環礁で行う予定の核実験中止を申し入れ
1966/5/18
マクナマラ米国防長官がカナダ・モントリオールでの米新聞編集者協会で演説。「現在の米中関係は、力でなく理性による共通利益を基盤に実際的な打開が可能」と中国との関係改善を呼びかけ
1966/5/19
原水禁国民会議が、予想される米原子力潜水艦の横須賀入港反対の特別決議。「政府が入港を認めることは米のベトナム政策と核戦略に協力するだけでなく、核兵器そのものを公然と認めるものである」
1966/5/21
日本原水協が建設していた「平和と労働会館」が東京・新橋6丁目に完成。被爆者救援運動の全国センターにする意向
1966/5/21
輸血用血液不足に悩む広島原爆病院の入院被爆者のため、共産党系の広島県被団協(田辺勝理事長)と広島県原水協(佐久間澄理事長)が広島市に市民献血運動の推進を申し入れ
1966/5/23
スウェーデンが提唱した「核実験探知クラブ」の初会議である専門家会議がストックホルムで開会。スウェーデン、日本、カナダ、インドなど非核保有8カ国が参加。日本から宮村摂三東大地震研究所教授ら3人が出席。26日まで。最終日、地下核実験追跡のための世界的な探知網の設置を呼びかける共同声明を発表
1966/5/24
自民党神奈川県連や横須賀市の保守系団体が米原潜寄港に対し「日米親善横須賀市民協議会」の結成を決定。寄港反対デモへの抗議行動などを予定
1966/5/24
米民間原子力開発機構(APDA)と日本の電力中央研究所が高速増殖炉とプルトニウムの研究開発に関する協力計画の合意文書に調印
1966/5/25
ワルシャワで開かれた米中大使会談で、米が「中国が部分核停条約に参加して大気圏内核実験をやめるなら、『米中が最初に核兵器を使う国にならないと相互宣言する』中国提案に応じられるかもしれない」と申し出。米ニューヨーク・タイムズが6月3日付で伝える
1966/5/28
中華民国新聞編集人訪問団(丁維棟団長)の一行9人が広島を訪問。29日、原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学
1966/5/29
日本被団協(森滝市郎理事長)が広島で第21回全国代表理事会。分裂している原水禁運動への加盟問題が再燃し紛糾。「当面、いかなる原水禁運動組織にも加盟しない」とのこれまでの基本方針で運動の統一を目指すことを決定。日本原水協寄りの東北、九州ブロックから出された森滝理事長の不信任案は結論を持ち越し
1966/5/30
米原子力潜水艦スヌークが横須賀港に初入港。米原潜の日本寄港は9回目。総評や社会、共産両党など約1,500人が臨海公園で抗議集会。米海軍基地前では学生約200人が無届けデモ。6月3日、出港
1966/5/30
中国が世界軍縮会議に条件付き出席を同意した-とアラブ連合の反政府系週刊誌「ローザ・エル・ユーセフ」(30日発行)が伝える
1966/5/31
衆院内閣委員会で外務省の安全保障課長が「米原子力空母エンタープライズ、護衛艦ベインブリッジの日本寄港の可能性はある」と答弁。1965年11月26日、在日米大使館から外務省に「両艦が米第7艦隊に編入されたため、将来、日本寄港もあり得る」と通報を受ける
1966/5/31
米原潜スヌークの横須賀寄港に反対する社会党国会議員団約60人が在日米大使館に抗議文書を手渡す。「米は日本の国民感情を理解していない」

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