×

ヒストリー

ヒロシマの記録1966 7月


1966/7/1
広島市で開かれる「被爆21周年原水禁世界大会」(社会党・総評系)に参加する西日本平和大行進団が米原潜基地、佐世保市の市役所前を出発
1966/7/1
南太平洋ムルロア環礁で予定される仏核実験に抗議するため多国籍の9人を乗せた抗議船ヒューマニティーがシドニーを出港、実験区域に乗り入れ-。シドニー工科大の英語教師ロイド・ウィルキー氏が発表
1966/7/2
米国務省が仏核実験に対し、公式に遺憾の意を表明。「部分核停条約の参加国として米政府は大気圏内外および水中でのいかなる核実験にも反対しており、仏が大気圏内で実験を行ったことを遺憾とする」。英外務省も同日、遺憾を表明。ソ連のタス通信は同日、「仏が核装置を爆発させた」と報道しただけで論評は加えず
1966/7/2
仏が南太平洋ムルロア環礁で核実験。1961年4月以来、5年ぶり。60年2月の初実験から通算5回目。太平洋実験は初めて
1966/7/2
パグウォッシュ会議の日本版「科学者京都会議」が東京・学士会館で声明書を発表。「われわれは属する国の政治的、経済的体制いかんにかかわらず、科学者の責任に基づき、科学者の国際的連帯を強め、平和時代の創造という人類の偉大な事業に積極的に寄与したい」
1966/7/2
メスメル仏国防相がラジオ会見。「仏は3年以内に核弾頭を運搬できる実戦用ミサイルを保有することになろう」。サハラ砂漠の核実験場閉鎖も言明
1966/7/2
ソ連平和委員会が長崎原爆病院に医療器具24点の目録を贈呈。外国から医療器具が贈られたのは初めて。10月1日に23点が届く(「長崎年表」)
1966/7/3
ソ連医学アカデミーのウラジミール・コバノフ副総裁らソ連平和委員会代表3人が広島を訪問、原爆慰霊碑を参拝。4日、広島原爆病院などを訪れる
1966/7/3
日本被団協が仏核実験に対し、ドゴール大統領に「被爆者の立場から南太平洋実験に強い怒りを感ずる」との抗議電報を打電。広島市原爆被爆者協議会(任都栗司会長)も同大統領に抗議の電報 1966/7/3
原水禁国民会議(社会党・総評系)が仏核実験に抗議声明。核禁会議も在日仏大使館に抗議文
1966/7/4
長崎市議会が仏核実験に対し、在日仏大使館に抗議電報(「長崎年表」)
1966/7/4
原爆スラム解消などのため、広島市議会全員協議会で「広島原爆被害者援護強化対策協議会」の設置を決定。国の特別法による高率国庫補助で公営住宅を建設し原爆スラム解消を目指す
1966/7/4
仏政府当局者が、仏核実験に対する諸外国の非難を「無用な説法」と一蹴
1966/7/8
広島「折鶴の会」が、米ニューヨークで開かれる平和国際デモ(8月6日から)に送る横断幕つくる。広島原爆病院の入院患者ら117人の被爆者写真を張り付け
1966/7/10
「胎内被爆者・被爆二世を守る会」が結成。共産党系の広島県原水協(佐久間澄理事長)や広島県被団協(田辺勝理事長)など8団体と14人が世話人。(1)胎内被爆者・被爆二世実態調査(2)医療、生活保護(3)国家補償の実現-の運動方針を決める。胎内被爆による原爆小頭症児の「きのこ会」は独自の運動を進めるため不参加
1966/7/11
広島市議会が「原爆ドーム保存」を満場一致で決議。「原爆ドームを完全に保存し後世に残すことは、20数万の犠牲者と世界の平和を願う人たちに対して広島市議会が果たす義務の一つである」
1966/7/11
仏原子力委員会が1965年度報告を発表。1年以内に最初の水爆製造開始を可能にする高性能濃縮ウラン生産に入ることを明らかにする
1966/7/12
中国の陳毅外相が訪中の日本スポーツ代表団団長、河野謙三参院副議長に「米は第二次世界大戦でドイツを避け、日本に原爆を投下した。これは東洋人を実験の道具に使ったもので、決して許すことはできない」
1966/7/18
平和記念公園の「原爆の子の像」にささげて-と米カリフォルニア州サニイベイル市の小学4年の少女2人から浜井広島市長に折りづる千羽が届く
1966/7/19
仏国防省が「仏は19日、南太平洋上で2回目の大気圏内核実験を行った」と発表。通算6回目。航空機から投下、ムルロア環礁の低高度で爆発
1966/7/22
ラスク米国務長官が言明。「米はベトナムで核による全面的破壊を伴う全面戦争を導き出すような無分別な行動をしないよう注意しなければならない」
1966/7/22
仏政府筋が「仏の最初のポラリス型原子力潜水艦が来春、シェルブール港で進水する」と語る。核弾頭ミサイル6基の積載も可能
1966/7/22
仏が南太平洋ムルロア環礁で原爆実験。通算7回目
1966/7/23
山口県原爆被爆者福祉会館建設委員会(会長、市川禎治山口大学長)が建設資金を集めるため山口市の中国新聞山口支社3階ホールで色紙即売展を開く。24日も
1966/7/24
原爆と戦争をテーマにした「少年詩集」を広島市の詩人松尾静明さんが出版。全国56の小中学校の文芸誌、壁新聞に載った詩84編を収録
1966/7/26
法務省が、日本原水協の第12回原水禁世界大会に出席のため入国申請中だった中国・劉寧一団長の入国拒否を決め、日本原水協に通告。「前年の世界大会で日本政府の外交基調にそぐわない言動があった」が理由。未承認国の北朝鮮、北ベトナム代表全員の入国も拒否
1966/7/26
呉市被爆者団体協議会(山田正義会長)が呉市議会に「原爆被爆者の援護対策確立」を請願
1966/7/26
原爆スラムの解消と被爆者の生活援護を目的に、広島市と市議会で構成する広島原爆被害者援護強化対策協議会(会長、加藤政夫広島市助役)が発足。その後、活動母体の住宅対策、生活援護対策の両部会ができず足踏み
1966/7/26
原子力委員会が1965年度の原子力開発の現状と今後を分析した「原子力白書(第10回原子力年報)」を閣議に報告。10周年を迎え、大型の原子力開発に踏み出す段階-と、国や関係各界の協力を要請
1966/7/26
日本原水協が原水禁世界大会へのソ連平和委員会、世界平和評議会の代表団参加を断ることに決定
1966/7/27
中国・劉寧一団長の入国拒否に対し、中国人民世界平和擁護委員会が抗議声明を発表。「中国人民を敵視する日本政府の行為に憤りを感じ、強く抗議する」
1966/7/27
日本原水協が法務、外務両省に中国代表・劉寧一団長の入国拒否決定の撤回を申し入れ
1966/7/27
法政大の芝田進午助教授が、米のベトナム政策に抗議して焼身自殺(前年3月)した米アリス・ハーズ夫人の書簡集「われ炎となりて」の邦訳印税を広島、長崎の女性被爆者の救援資金に充てる-と発表。夫人と取り交わした13年間の手紙を芝田助教授が邦訳出版
1966/7/27
原水禁世界大会に参加のため香港で待機中の中国代表団から、劉寧一団長の入国拒否に対する日本政府への抗議電報が日本原水協に届く。「不当な入国拒否は中国代表団に対する侮辱である。日本政府の誤ったやり方に厳重に抗議し、入国拒否の決定を撤回するよう要求する」。中国代表団16人はその後帰国し、大会に不参加
1966/7/28
北ベトナム平和委員会が、日本原水協の原水禁世界大会への代表団入国拒否に対し抗議声明を発表
1966/7/28
アジア核禁会議の国際会議が東京プリンスホテルで開会。核禁会議が日本原水協(共産党系)、原水禁国民会議(社会党・総評系)に対抗して初めて開いた国際会議。インド、タイなど10カ国37人の海外代表を含め約50人が参加。松下正寿議長が「中国の核実験は力の行動であり、アジアの自由国家はこの力の脅威に対し団結しよう」と冒頭演説。本会議の海外代表発言も中国非難が目立つ。29日、「すべての核保有国が永遠の平和のため英知に目覚め、核兵器の製造と実験を中止することを望む」との共同宣言を採択し、閉幕
1966/7/29
原水爆禁止広島市協議会(会長、浜井広島市長)が広島市の西本願寺広島別院で原爆死没者慰霊追悼法要。会場の正式決定が遅れ、参列遺族はわずか8人
1966/7/30
核禁会議のアジア核禁会議東京大会が東京・渋谷公会堂で約2,500人が参加して開会。(1)中国、仏の核実験に抗議(2)不偏不党の平和運動の推進-など決議
1966/7/30
広島県平和の灯奉賛会(門秀一理事長)などが平和記念公園の平和の池を清掃奉仕
1966/7/30
広島自由労働組合原爆被害者の会(鈴岡教宏会長)が、被爆した失業対策作業員の実態調査をまとめる。半年間、会員を直接面談して調査。作業員の高齢化と被爆者援護法制定の必要を指摘
1966/7/30
原水爆被災白書を進める長崎市民の会が、長崎市が保管中の被爆直後の実写フィルムを借りて、県児童少青年センタ-で開かれた被爆体験を考える集いで上映。被爆直後のフィルムが初めて一般公開(「長崎年表」)
1966/7/30
日本原水協の第12回原水禁世界大会国際予備会議が東京・高輪プリンスホテルで開会。8月3日まで
1966/7/31
モスクワ放送が「ソ連は2つの原水禁大会のうち原水禁国民会議の『被爆21周年世界大会』だけに代表を派遣し、日本原水協の大会には派遣しない」と報じる
1966/7/31
原爆死没学徒をまつる被爆動員学徒死没者慈母観音像が広島市大手町3丁目の元安川河岸の緑地帯で除幕式。遺族ら約2,000人が参列。死没学徒約4,000人の名前を刻む鋼製プレートを納める
1966/7/--
広島市で8月に開かれる第1回原水爆禁止科学者会議の開催呼びかけ人会が発足。坂田昌一名大教授、末川博立命館大総長、佐久間澄広島大教授ら20人。平和問題を科学的に追求する試み
1966/7/--
記録集「広島市役所原爆誌」1,500部が発刊。被爆前の広島市、原爆投下直後の様子や市職員の被爆状況、救援活動など7章。職員の原爆体験記32編も別冊編集。「職員の被害状況」では、死亡445人、行方不明199人、生存者424人のうち、被爆状況の分かった612人の消息を記録
1966/7/--
広島市内の広島、広島南、広島東、広島東南の4ロータリークラブが世界131カ国の約1万2,000クラブ会長に世界平和を訴えるメッセージを発送
1966/7/--
厚生省委託の原爆被爆者小頭症研究班(班長、中泉正徳東大名誉教授)が胎内被爆による原爆小頭症の疫学調査に着手

年別アーカイブ