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ヒストリー

ヒロシマの記録1966 10月


1966/10/1
広島市が市内の川岸にある不法住宅立ち退き長期計画を初めて発表。1月から進めている立ち退きの残り873戸、1,091世帯が対象。1968年3月までに全戸立ち退きを目指す。同市基町地区などは含まず
1966/10/1
インドの国際法学者ラダ・ビノッド・パール博士が来日。博士は東京裁判で判事を務め、「原爆投下者こそ真の戦争犯罪人」と東京裁判無効論を主張。1952年に広島を訪れ原爆慰霊碑の「碑文論争」の火付け役に
1966/10/3
アイゼンハワー元米大統領が記者会見で「私が大統領だったら、ベトナム戦争の早期終結のためには核兵器使用の使用を排除しない」と強硬論
1966/10/4
仏が南太平洋ムルロア環礁で核実験。通算10回目。一連の核実験の6回目。「これで1966年度の太平洋核実験は終了」と公式コミュニケ
1966/10/6
原対協の職業補導部の第13回入所式が原爆被爆者福祉センター(広島市国泰寺町1丁目)であり、被爆者や家族247人が入所
1966/10/6
広島市土橋町2丁目の建設現場で被爆者とみられる頭がい骨1個が見つかる
1966/10/6
広島市議会の各派代表者会議が原爆ドーム保存募金に対する態度を協議、結論を出せず
1966/10/7
日本学術会議の有志70人が米のベトナム参戦反対声明を発表。「米はベトナムでの軍事行動を即時やめよ」。同会議第1部(文学、史学、哲学)部長の城戸幡太郎北海道学芸大学長らが中心に呼びかけ
1966/10/9
米上院軍備分科委員会のステニス委員長がテレビ会見で語る。「米がある状況下ではベトナムで戦術核兵器を使用することに賛成する」
1966/10/9
仏哲学者で作家ジャン・ポール・サルトル氏と作家シモーヌ・ド・ボーボワール女史が広島を訪問。10日まで滞在。同日、原爆ドームや原爆資料館、広島原爆病院などを訪れ、広島「憩いの家」で被爆者らと懇談。「私たちも将来、再び悲劇が繰り返されることがないよう戦わねばならない。皆さんの苦しみは平和の殉教者としての誇りに満ちた苦しみだと思う」と激励
1966/10/10
米ワシントンで米ソ首脳会談。ジョンソン米大統領らとグロムイコ・ソ連外相が東西関係の改善などを協議。グロムイコ外相が会談後、核拡散防止問題に関し、「米ソ両国は合意に達するよう努力し、国際協定の締結を促進しているように思える」と語る
1966/10/10
広島を訪問のサルトル氏とボーボワール女史が、原爆ドーム保存へ寄せ書きを残す。「日本に存在するただ一つのものであるこの廃虚は、まことに、あの殺りくが、決して2度と起こらないために、みんなが生き、かつ戦うわれわれ意志のあかしである」(サルトル氏)。「あの戦争の恐怖の象徴である、上空から狙われたこのドームは、われわれに、あらゆる力を傾けて平和のために戦う決意を迫る」(ボーボワール女史)
1966/10/11
米国務省スポークスマンのマクロスキー氏が核拡散防止問題で声明を発表。「米ソ首脳会談の結果、核拡散防止条約をめぐる誤解が若干取り除かれた。しかし重要問題がまだ解決されないまま残っている」
1966/10/11
中国電力(本社広島市)が原子力発電所第1号機を島根県の島根半島に建設すると発表。規模は35万キロワット程度。1971年度着工、運転開始は1974年度か1975年度の予定。当初の電力長期計画より2年繰り上げ着工を目指す。島根半島を選んだ理由は(1)人口密度が低い(2)地盤が固い(3)将来2、3基分が確保できる-など
1966/10/13
国際医学会議が英エジンバラで開会。日本の原爆被災者および原子力施設従業員の災害例を医学的に討議。英医学研究会議、英原子力公社などの主催で、日本、米、チェコスロバキアなど11カ国代表が出席
1966/10/13
「ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会」が東京・教育会館で設立総会。ベトナム戦争を遂行しているジョンソン米大統領ら米政府首脳を戦犯として告発する戦争犯罪国際裁判を開こう-との英哲学者バートランド・ラッセル卿のアピールを支持。ベトナムへの調査団派遣(12月)など活動方針を決める
1966/10/14
広島で被爆した電気器具製造業二井正志さんが世界58カ国を車で回って原水爆禁止を訴える旅に横浜港から出発。アジア、中近東、ソ連、欧州、米、中南米を回り、原爆被災写真展などを開く
1966/10/15
日本被団協(森滝市郎理事長)のパンフレット「原爆被害の特質と『被爆者援護法』の要求」ができる。国家補償に基づく援護法の要求項目を体系化。表紙に折りづるをあしらい「つるパンフ」と呼ばれる。無料医療の実施や遺族年金を含む13項目の要求を盛り込む(「ヒロシマ四十年・森滝日記の証言」)
1966/10/15
広島県河川課が原爆ドーム南側の広島市大手町2丁目、元安川東岸の不法住宅41戸、196世帯の強制撤去方針を決める。うち20戸、35世帯が28日、自主的に立ち退く
1966/10/16
仏の作家ジャン・ポール・サルトル氏とシモーヌ・ド・ボーボワール女史が離日。お別れ会見で「被爆者よ誇りを持て」と語る。「広島に行って原爆被爆者が社会から見捨てられているのに驚いた。彼らは被爆者として誇りを持って現代社会に統合されるべきなのに、逆に恥ずかしさに満たされ隔離されている。当然の場所を与えるために戦わなければならない」
1966/10/17
インドの国際法学者ラダ・ビノッド・パール博士が来日時に残した原爆ドーム保存募金の金一封が浜井広島市長に届く。同博士の歓迎事務局長を務めた中国新聞社社友の佐伯敏夫氏が仲介
1966/10/19
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「19日、ソ連セミパラチンスク地区の地下核実験を探知」と発表
1966/10/20
沖縄の被爆者8人が広島原爆病院に入院。沖縄被爆者の広島治療は1965年9月の11人に次ぎ2度目
1966/10/20
国連総会第1委員会が軍縮関係6議案の一括討論を開始。米ソが共同提案した核拡散防止取り決め促進アピールに関し、米ソ代表が演説
1966/10/20
ソ連のフェドレンコ国連代表が国連総会第1委員会の演説で西ドイツの核能力を警告。「西ドイツは既に年間13個の原爆を造るだけのプルトニウムを生産し得る立場にある。1970年までには年間200個を生産し得るであろう」「南アフリカ共和国は西ドイツの援助下で、核兵器を生産するための潜在力を作る準備を引き続き進めている」
1966/10/21
浜井広島市長が記者会見で「原爆ドーム保存全国募金を11月1日から始める」と発表。「保存運動は市議会と話し合いを進めてきたが、これ以上延ばせない」と決断。28日、市議会に通告
1966/10/21
日本原水協のベトナム人民支援カンパが目標の1,000万円を突破し,1,049万9,101円に
1966/10/22
原医研の志水清教授らが日本社会学会(東京・明治学院大)で「原爆被災の社会的影響」をテーマにした研究の中間集計を発表。広島市北部の農業地帯の被爆世帯903例について被爆実態や家族崩壊など分析
1966/10/23
原爆歌人の故正田篠枝さんの遺稿集「百日紅」の出版記念会が広島YMCAで開かれ、約60人が故人をしのぶ
1966/10/24
インドの国際法学者ラダ・ビノッド・パール博士から広島市民にあてたメッセージが浜井広島市長に届く。「広島、長崎の被爆という受難は、不幸にもその後の人類の歴史を変える力になっていない。両市民は人類の将来に責任の一端を担う新たな努力を今こそしてほしい」
1966/10/24
頭部を壊された広島市二葉山の平和塔の釈迦像が同市の美術デザイナー青木勲さんの手で修復され、45日ぶりに復元安置
1966/10/25
米ソ英や日本など国連加盟31カ国が国連総会第1委員会に「核拡散防止条約の締結を阻害する行為の否認」に関する共同決議案を提出。条約までの中間措置として核拡散を防止する狙い
1966/10/25
英のチャルフォント国務相(軍縮担当)が国連総会第1委員会で演説。「核拡散防止は急務であり、条約を作ることが先決。非同盟諸国のいうように条約と同時に全面軍縮の具体的計画を作る必要はない」
1966/10/27
中国が核弾頭付きミサイルの実験に成功した-と発表。1964年10月16日の第1回核実験以来2年で核兵器の弾頭化を実現。「いかなる状況下でも最初に核兵器を使用する国にはならない」と政府声明。米政府原子力委員会も「中国ロプノル実験場で核実験を探知」と発表
1966/10/27
中国核実験について米当局筋が「米としては中国からの核ミサイル攻撃に備える防衛体系の建設を当面急ぐ必要はない。むしろ核拡散防止条約の早期締結をはかるべき」との見解を明かす
1966/10/27
ソ連のタス通信が中国核実験に関し、北京特電を論評なしで報道
1966/10/27
英外務省が中国核ミサイル実験に対し、公式声明を発表し非難。「中国が世界世論の反対の中で、大気を汚染する新たな実験を実施したことを遺憾に思う」
1966/10/27
米政府原子力委員会が「ソ連は27日、ノバヤゼムリャ実験場で強力な地下核実験を行った」と発表 1966/10/27
アジア、アフリカ、中南米と欧州の32カ国が国連総会第1委員会に核拡散防止条約の締結促進に関する強硬な共同決議案を提出
1966/10/27
原爆ドーム保存に関し、中国新聞社説が「ドームを文化財保護法による太平洋戦争の『史跡』第1号に指定するよう、市、市議会が国に働きかけよ」と提言
1966/10/28
広島市議会が原爆ドームを文化財保護法による国の史跡指定で永久保存する運動の推進を決定。浜井市長のドーム保存募金の強行方針に対し、募金批判派の池永清真議長が各派代表者会議で「史跡指定」を提案
1966/10/28
愛知揆一官房長官が中国核ミサイル実験に対し、強い抗議談話を発表。「中共政府は核実験をもって平和実験の手段としているが、人類の理想実現に逆行する。今回の実験に強く抗議するとともに、再び実験を繰り返すことのないよう猛省を促す」
1966/10/28
松井明国連大使が国連総会第1委員会の演説で、中国核ミサイル実験に遺憾の意を表明。「国連加盟国が核軍縮問題について真剣に努力している最中に行われた実験は、世界の大勢と人類の理想に逆行」と強調
1966/10/28
中国核ミサイル実験に対し、原水禁3団体が抗議を表明。原水禁国民会議は「中国の核実験に反対しつつも、米と日本政府に対する中国核実験誘発の責任追及を続けていく」。日本原水協は畑中政春代表理事の談話。「中国の核ミサイル実験は米帝国主義のベトナム侵略、核兵器使用のあがきに対して大きな打撃を与えた。われわれは原水禁世界大会の諸決議を実践する中で、国民の悲願である核実験完全禁止を勝ち取る戦いを進めていく」。核禁会議の声明は「日本国民と世界人類の名において強い憤りの意志を表明し、断固抗議する。われわれは中国の暴挙に強く反対し、これ以上、核保有への道を進まないよう反省を強く求める」
1966/10/28
自民党が中国核ミサイル実験について幹事長談話。「実験強行はあらゆる国の核実験に反対してきたわが国の総意を無視するもので、強く抗議し猛省を促す」
1966/10/28
ウ・タント国連事務総長が中国核ミサイル実験について遺憾を表明。「いかなる核実験も、『核実験禁止に関する国連総会決議』に照らして遺憾」
1966/10/28
ロンドン医科大のドール博士が第9回国際がん会議(23日から東京)で被爆がん患者の発生調査結果を発表。「広島、長崎の白血病は峠を越した。しかし胃がんなど悪性腫瘍が増加するかもしれない」
1966/10/28
江津市有福に建設される原爆被爆者温泉療養所の運営について、原対協が「利用者の料金で独立採算制にする」方針を決める
1966/10/28
島根県八束郡美保関町の町議会全員協議会が、中国電力の原子力発電所の誘致で合意。専門家を招いて意見を聞くことに
1966/10/29
米の原子力科学者ラルフ・ラップ博士が中国の核戦力について言明。「中国は1967年半ばまでに原爆とミサイル核弾頭100発を持つことになろう。米はベトナムでの戦略を変える必要に迫られるであろう」
1966/10/29
共産党系の広島県原水協(佐久間澄理事長)と広島県被団協(田辺勝理事長)が広島県に(1)原爆医療法改正と完全援護法制定促進を県が政府に要望(2)被爆者相談所の設置など県としての被爆者対策の実行-などを要望
1966/10/30
ジョンソン米大統領が「中国は自ら危険を招きつつある。中国が開発するいかなる核弾頭付きミサイルの軍事力も抑止できる」とミサイル開発に警告
1966/10/31
世界平和アピール7人委員会の茅誠司前東大学長、植村環日本YWCA名誉会長、上代たの前日本女子大学長の3人が、中国核ミサイル実験で佐藤首相あての要望書を愛知揆一官房長官に提出。「核兵器を中心とする軍縮への道を開くため、早急に国際会議を開くべきだ。中国の国連不参加が障害なら、政府は国連総会であらゆる努力を」
1966/10/--
毎年、海外に送る浜井広島市長の平和宣言が未発送と判明。原爆ドーム保存募金をめぐる市と市議会の対立の巻き添え。近く発送へ

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