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ヒストリー

ヒロシマの記録1965 6月


1965/6/5
広島弁護士会原爆対策特別委員会の田坂戎三会長が中国新聞に「原爆被害補償の法制化を~原爆は国際法に違反する」と題し手記を掲載
1965/6/6
原爆資料館に原爆文献センター「原爆記念文庫」がオープン。広島原爆資料保存会(横田工会長)を中心に約1,500点収集
1965/6/7
7月10日からフィンランドのヘルシンキで開く世界平和評議会の「平和と民族独立と全般的軍縮のための世界大会」への代表参加が原水禁国民会議系と日本平和委員会系の2本立てに。原水禁系は高橋正雄九州大教授、高桑純夫愛知大教授ら40人、平和委員会系は平野義太郎会長ら45人程度
1965/6/8
原水禁国民会議が「被爆20周年原水禁世界大会実行委員会」を結成。基調草案「日本の平和運動は昨年の大会を契機に大きく変動した。日本原水協の政治的偏向は次第に支持を失いつつあり、われわれは原水禁運動の正しい国民的基盤をつくることに成功した」
1965/6/8
日本原水協が「第11回原水禁世界大会」への招請状発送へ。大会目的「米帝国主義者の侵略と核戦争挑発の政策に対して、人民の怒りを結集し戦争勢力に痛撃を与える」「原水禁国民会議の活動は日本と世界の平和運動を分裂させるための策動である」
1965/6/15
原爆歌集「さんげ」、詩集「耳鳴り」の作者、正田篠枝さんが乳がんのため死去。54歳。遺作はこの年7月上旬に発行される「広島詩集」に寄稿した「罪人」
1965/6/15
米テネシー州オークリッジ研究所のラッセル博士が「放射能の影響による遺伝的変化の危険性は考えられていたほど大きなものではない。広島、長崎の障害児の増加も一時的なものだろう」と発表
1965/6/20
原水爆禁止広島市協議会(会長、浜井広島市長)が分裂。共産党系が同名の協議会を発足。市協議会は1964年春、原水禁広島協議会の分裂に伴い浜井会長名で加盟団体に「いかなる国の核実験にも反対する基本原則を支持する団体だけを正式加盟団体と認める」としていた
1965/6/21
大江健三郎氏著の「ヒロシマ・ノート」、岩波書店から発行。雑誌「世界」1963年10月号~1965年3月号に連載した同名のエッセーを新書判に(「奥付」)
1965/6/22
在日韓国居留民団広島県本部の派遣した韓国在住被爆者実態調査団が報告。「調査団の韓国入りは現地で大きな反響を呼んだ。被爆者は今後、名乗り出る人がもっと増えるだろう。日本から専門医を送る必要がある」
1965/6/23
グズネツォフ・ソ連第1外務次官が広島市を訪問
1965/6/23
浜井広島市長が8月6日の平和記念式典に佐藤首相の出席を要請。「被爆20周年を記念し、首相が平和宣言をしてほしい」
1965/6/27
広島市の県婦人会館で原爆小頭症の子供を持つ親の会「きのこ会」(世話人、長岡千鶴野さん)が発会式。原爆小頭症は妊娠初期に被爆した胎児が放射能障害を起こしたまま生まれるもので知能遅延などを伴うケースが多い。作家の山代巴、文沢隆一、小久保均、山口勇子さんらが広島、山口に住む9人を突き止め会を結成
1965/6/--
広島県高田郡白木町に建設していた東大地震研究所の微小地震観測所が完成。10月から観測開始へ
1965/6/--
厚生省が「原子爆弾被爆者実態調査」の11月1日実施を決定。調査員が被爆者健康手帳を持っている26万8,291人(1964年3月現在)を訪ね質問する全数基本調査。10分の1程度を抽出し健康診断を実施。分析結果は1966年秋ごろ発表

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