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ヒストリー

ヒロシマの記録1965 7月


1965/7/6
橋本登美三郎内閣官房長官が「広島の被爆20周年記念式典への佐藤首相の出席は臨時国会の関係もあるので応じかねる」と表明
1965/7/6
「十字架背負った小頭児胎内被爆20年後の現実」と題し作家の文沢隆一さんが中国新聞に手記。「社会保障へ道開こう」と訴える
1965/7/8
中国新聞の被爆20周年企画「広島の記録」「炎の系譜」「世界にこの声を」の特集「ヒロシマ二十年」が始まる。夕刊では「廃虚からの道広島復興裏面史」
1965/7/9
広島市本通商店街振興組合の全商店の従業員約2,800人が、折りづる10万羽を折り8月6日に原爆慰霊碑にささげることを決める
1965/7/10
ベトナム戦争反対などを訴え広島大生7人が原爆慰霊碑の前で座り込み始める。1カ月継続の予定 1965/7/11
平和記念公園内の花時計の秒針が曲げられる
1965/7/12
茨城県東海村の日本原子力研究所第2号原子炉が重水漏れで運転中止
1965/7/15
日本被団協の原爆被災資料収集事業がスタート。東京・全電通会館に吉野源三郎、日高六郎、森滝市郎、庄野直美、豊田清史氏らが集まり(1)年内に自然科学を含めた公刊物・論文のリスト作成(2)占領軍が接収した被爆直後の記録フィルムの返還運動-などを決める
1965/7/15
社会党・総評系の原水禁広島市協議会(会長、浜井広島市長)が同名の共産党系原水禁広島市協議会(北西允会長)について「既存の団体と同一の名前を公称するのは、原水禁運動をかくらん」と非難
1965/7/16
法務省が「第11回原水禁世界大会」の中国代表(劉寧一団長、24人)全員の入国を認める。北ベトナム代表3人は「現時点では好ましくない」と不許可
1965/7/18
広島県母親大会実行委員会(山口勇子委員長)主催の第11回県母親大会が広島市の国泰寺中学で開き「広島の悲劇を繰り返さないためにも、子どもを核戦争から守るためにも核兵器の完全禁止を要求する」などを決議
1965/7/19
NHKが被爆20周年記念番組として特集「ただいま50万人」。3回シリーズ。片隅の被爆者、立ち退き問題、ドームの保存問題がテーマ
1965/7/19
広島・長崎世界平和巡礼団がジョンソン米大統領に送ったベトナムでの核兵器不使用と即時撤退の要請書に米国務省から返事。「核兵器使用は現時点では軍事的必要がない」
1965/7/19
仏政府が米にピエルラート核工場上空を米軍機が飛行し写真を撮ったことで厳重抗議。同工場は仏最初のウラン濃縮工場
1965/7/19
東京都原爆被害者団体協議会(東友会、及川儀右衛門会長、3,971人)が被爆者実態調査の中間集計を発表。全体の56%が健康に変調
1965/7/19
被爆当時の民間療法を約200例まとめた記録集をガリ版刷りで出版。広島市の亀田正士さん。100部刷り原爆資料館の原爆記念文庫に贈る
1965/7/20
山代巴氏編の「この世界の片隅で」が岩波書店から出版。「広島研究の会」8人によるルポルタージュ。被爆者たちの戦後20年に焦点
1965/7/20
広島原爆病院が1965年1~6月の病院概況を発表。死亡者38人、うち20代の死亡は2人。いずれも急性骨髄性白血病が原因
1965/7/22
広島「折鶴の会」が広島市に在日ソ連大使館員のピオニール(少年団)3人を招き夏休み交流
1965/7/22
羽田入国管理事務所が原水禁世界大会の南アフリカ代表の新聞記者ピーター・ラボロコ氏とZ・B・モレテ氏を強制送還
1965/7/23
広島市が被爆20周年原爆死没者慰霊式・平和記念式で、平和の鐘を打ち鳴らす遺族代表に満20歳の男女2人を選ぶ。村上洋一郎さんと高田コズエさん
1965/7/24
スカルノ・インドネシア大統領がバンドンで「インドネシアは近く原爆を製造するだろう。原爆は他国を侵略するためではなく、領土を守るため」と語る
1965/7/26
広島県庁診療所に勤務の女医嘉屋文子さんが3冊目の被爆体験記「暗雲を越えて」を出版。医師の目からみた被爆者の健康管理など
1965/7/27
東京・高輪プリンスホテルで日本原水協の第11回原水爆禁止世界大会国際会議が開幕。38カ国7国際団体代表39人と日本代表約300人が出席。ソ連の参加はなし。畑中政春代表理事が(1)ベトナム侵略戦争反対・米軍撤退(2)核兵器の完全禁止(3)原潜配備反対・外国基地の撤廃-など6項目の基調報告
1965/7/28
永野厳雄広島県知事が8月6日の午前8時15分に全県民に1分間の黙とうを呼びかけ
1965/7/28
原爆ドーム保存調査が本格化。広島市が広島大工学部の佐藤重夫教授に委託。1965年度予算で100万円の調査費を計上。(1)保存できるかどうか(2)できるとすればどのような措置をとるか-を調査
1965/7/28
広島市と広島原爆被害者援護強化対策協議会(任都栗司会長)が原爆スラム対策で建設省と協議 1965/7/29
ソ連が日本で開かれる社会党系、共産党系のいずれの原水禁大会にも不参加へ。ソ連平和委員会と話し合った原水禁国民会議の大会実行委員、前野良静岡大教授らが発表。ソ連側は「ベトナム戦争の危機が高まっているとき、中ソ論争などで内部分裂を深めることは避けたい」
1965/7/30
「絶後の記録」の著者、山陽女子短大教授、小倉豊文さんが中国新聞に手記。「8月6日がくると、私は精神異常を呈する。町を歩いていると、シャクにさわって人をなぐりつけたくなるのだ。それで、毎年『広島脱出』を実行している。平和運動の目的は悪いとはいわないが、ワイワイやっているのをみると『原爆商売・平和家業』と皮肉ってみたくもなる。あの日は全市一斉に弔旗を掲げ、人っ子ひとり通らないような死の町にすべきだ。これが死者に対する最大の慰めであり、最も効果的な平和へのデモンストレーションではないか」
1965/7/30
日本原水協の第11回原水禁世界大会国際会議が閉幕。(1)米帝国主義のベトナム侵略を糾弾しベトナム人民の闘争を支援し連帯を強化(2)戦いの旗を高く掲げ相互支援を強める(3)国際共同行動の強化-の3決議を採択
1965/7/30
1950年5月に長崎で開かれた第2回長崎、広島青年交換会で故永井隆博士が広島代表の勝丸博行氏らに託した手紙が広島平和記念館の倉庫で見つかる。交換にちなみ「ふたつの市民の努力によって、美しい平和文化の花を咲かそう」と記す
1965/7/31
日本原水協の第11回原水禁世界大会が東京・千駄ヶ谷の都体育館と蒲田の大田区体育館で始まる。47カ国9国際団体の167人を含め約1万5,000人が参加。吉田嘉清事務局長が「米帝国主義に痛撃を与え、核兵器の完全禁止、諸国人民の連帯、被爆者救援をかち取ろう」とあいさつ。入国が認められなかった南北ベトナム代表団のテープによるメッセージも
1965/7/31
英の哲学者バートランド・ラッセル卿が広島「憩いの家」を通じ広島市民にメッセージ。「広島への原爆投下は人間性に反する恐るべき行為であり、どのようにも弁解することはできない。広島市民に強いられた恐怖は、今日他のアジア民族も直面しているものである」
1965/7/31
社会党・総評系の原水禁広島市協議会(会長、浜井広島市長)が西本願寺広島別院で被爆20周年追悼法要
1965/7/31
浜井広島市長を先頭に市職員200人が平和記念公園を一斉清掃
1965/7/31
原爆投下の正確な時間は午前8時19分50秒-。原爆資料保存会(横田工会長)の資料の中に広島県佐伯郡廿日市町、三谷豊さんの証言。広島原爆医療史編集委員会編の「広島原爆医療史」にもこの証言を裏付ける旧海軍警備隊中野探哨灯台の記録
1965/7/--
4月の原爆医療法改正で「原爆スラム」解消が付帯決議されたのを機に、広島市が同スラム解消へ本腰。市内に散在する原爆スラムは基町中央部約4,000戸、段原・宇品地区6,000戸。うち被爆者戸数は2,000戸と推定
1965/7/--
広島県立呉工業高校の堀岡孝教諭が句集「広島」から58句を英訳し出版。8月6日の広島市の平和記念式典に出席した外国人代表に配布へ
1965/7/--
三次市の坂井敏彦さんが句集「原子砂漠」を自費出版へ

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