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ヒストリー

ヒロシマの記録1965 8月


1965/8/1
広島大学会館で広島県詩人協会刊の「広島詩集-原爆投下20年号」出版記念会
1965/8/1
東京で開かれた総評定期大会で中国総工会の唐章氏が、「米の核保有と中国など新興国の核保有は異なる。中国の核に対する攻撃は不当」とあいさつ
1965/8/1
唐章・中国総工会国際部副部長が太田薫総評議長に総評の「すべての核実験に反対」路線で抗議。太田議長は「資本主義国が核兵器を持つことと、社会主義国が持つことの違いは認識している。しかし、日本の国民は死の灰が降ることに無条件に怒りを感じている。総評は、この素朴な国民感情の基盤に立ってすべての国の核実験に反対」
1965/8/1
平和記念公園で平和を守る青少年の広島大会(多田守孝実行委員長)開催。西日本から約1,000人参加
1965/8/1
広島歌話会が平和記念館で「被爆20周年短歌大会」
1965/8/1
原爆資料保存会(横田工会長)が広島市内43カ所を回る原爆死没者慰霊碑巡礼。約100人が参加
1965/8/1
核禁会議(松下正寿議長)が平和記念公園で「核禁平和の灯全国大会」開く。第1部=市公会堂で原爆20周年核禁広島大会。「中共の核実験・核武装反対、偽装原水禁運動-日本原水協との対決」を打ち出す。第2部=原爆慰霊碑前に神道、キリスト教、仏教など各宗派代表と浜井広島市長ら来賓を含め1,500人が出席。たいまつ、ろうそく行進などで原爆犠牲者の霊を慰める
1965/8/2
日本原水協の第11回原水禁世界大会全体会議が閉会総会。東京・小石川サッカー場に4万5,000人。国内被爆者救援カンパで集まった443万円、中国代表から1,458万円の被爆者救援金
1965/8/3
広島県農協中央会、県経済連、県信連など農業7団体が広島市内の農協ビルで広島県農業会原爆物故者20周年追悼法要会。農業会は被爆当時、国泰寺町に事務所を持ち職員73人が被爆死。合同慰霊祭は初めて
1965/8/3
広島「憩いの家」が主催し広島市の福屋デパートで第4回文芸家・画家国際色紙展。武者小路実篤氏、バートランド・ラッセル卿らのサインや色紙
1965/8/3
日本損害保険協会広島地方委員会が協会加盟社の犠牲者89人の慰霊と平和を願い平和記念公園南側の平和大通りに建てていた「友愛の碑」が完成、除幕式。高さ2.4メートル、大理石づくり。辻普堂京都市立美大教授が制作
1965/8/3
被爆当時、広島赤十字病院外科医長だった服部健太郎横浜赤十字病院長が中国新聞紙上で自らの被爆後遺症の苦しさを証言
1965/8/3
広島市上流川町の合同庁舎裏庭で「国税関係職員をとむらう慰霊碑」除幕式。144人をまつる。設計は広島大工学部の佐藤重夫教授
1965/8/3
共産党系の広島県原水協が県立体育館の使用問題で「原水禁国民会議にだけ貸すのは大会の妨害」と声明を発表
1965/8/3
ノーモア・ヒロシマを訴え「世界連邦瀬戸内海横断遊泳会」の愛媛県の真鍋梅一県議ら6人が、高松港から玉野市日比港まで泳いで渡る
1965/8/3
広島原爆病院に入院中の患者有志8人が原水禁運動の統一、被爆者援護法の制定などを訴える要望書を2つの原水禁広島協議会と核禁会議に送る
1965/8/4
浜井広島市長が市民に8月6日の午前8時15分に1分間の黙とうを呼びかけ
1965/8/4
詩人の峠三吉氏をモデルにしたドラマ「河」が広島地方6劇団の合同で広島市公会堂で上演。土屋清氏作、演出。広島での上演は3度目
1965/8/4
細字彫刻家の東京・世田谷区、牧原玄さんが新たに原爆死没者名簿に記入される犠牲者の名前を長さ10センチ、直径3センチのぞうげの塔に刻む。塔は1953年、当時の死没者名簿に記入されていた5万8,200余人を彫り込み広島市に寄贈した
1965/8/4
原水禁国民会議の被爆20周年原水禁世界大会に出席する外国代表のうちソ連赤十字副総裁のザハロフ氏が広島入りし記者会見。「来日目的はソ連赤十字、ソ連平和委、ソ連平和基金から広島の被爆者に治療機器を贈るためで、ヒューマニズムの使者である。来賓として大会に参加するが、討論には加わらない」
1965/8/4
核禁広島県民会議が広島滞在中の中国代表団に内容証明付きで抗議文送る。「中国は部分核停条約が結ばれている時期に核実験を繰り返した。核実験をやりながら被爆地である広島で開かれる原水禁大会に参加するのは矛盾した態度だ。被爆地の市民として抗議する」
1965/8/4
平和記念公園で一陽会の大前博士さん(広島市己斐東中町)が「ヒロシマ・アピール」と題し、被爆体験を基に制作した絵画11点の野外展
1965/8/4
NHK広島中央放送局が3回シリーズ「平和都市・広島を考える」をスタート
1965/8/4
NHKが原水禁運動で広島県内アンケート。795人中、運動に「非常に関心がある」29.3%、「やや関心がある」38.1%、「あまり関心がない」25.3%
1965/8/5
7年前から一貫して原爆被害白書作成を訴え続けている中国新聞が夕刊コラムに「原水爆被害白書とは」を掲載。「日本は恩しゅうを超えて平和時代の力を原水爆被害白書に結集してこれを人類の歴史に刻み込む義務と権利がある。調査は10数億の費用と日本の学会や行政組織の英知を結集する努力とが必要」
1965/8/5
日本原水協の第11回原水爆禁止世界大会広島大会が広島市立本川小校庭で開く。48カ国5国際団体の146人の外国代表を含む1万4,000人が参加
1965/8/5
広島を訪問中の米婦人平和運動家、ハニー・ノップさんが浜井広島市長に会い米各地の平和団体から託されたメッセージを手渡す。平和団体の多くは1964年、広島・長崎世界平和巡礼団を受け入れた団体
1965/8/5
日本原水協が広島市の見真講堂で外国代表と被爆者との懇談会。インドネシアのスリアダルマ夫人ら約60人の外国代表と広島市吉島羽衣町の胡谷ミ子さんら50人の被爆者が出席
1965/8/5
ソ連赤十字のザハロフ副総裁が永野厳雄広島県知事に、広島原爆病院に贈るソ連の医療器具42点(5万ルーブル、約2,000万円)の目録を手渡す。前年の原水禁大会に参加したジューコフ団長(ソ連平和委副議長)が約束
1965/8/5
米の平和団体「米核政策健全化委員会」(SANE)の平和巡礼団(団長、マリー・ラニヨン夫人)18人が広島入り。バーバラ・レイノルズ女史らが出迎え。2つの原水禁大会に分散参加
1965/8/5
平和問題研究団体談和会の今堀誠二広島大教授らが佐藤首相に原爆被災白書づくりを陳情。広島、長崎の両県知事、市長、地元大学関係者などの有識者、世界平和アピール7人委員会の著名人らが連署した原水爆白書作成の要望書を手渡す
1965/8/5
「原爆はしかたなかった。しかし、良心の痛みは消えない」-。米の科学者オッペンハイマー博士が米CBS放送の原爆20周年記念番組で語る。「原爆による戦争終結は確かに残酷であり、軽々しく企てられたのではない。10万人の死者と10万人の負傷者をもたらすのに重要な一役を買っているときには、人間は気楽にそのことを考えられるはずはない。われわれは原爆を投下する大きな理由を持っていたと信じる。だが、われわれの良心の痛みが完全に消え去ることはないだろう」
1965/8/5
岩井章総評事務局長が広島で中国の核実験について見解。「社会主義者として中国の核実験に同情はできるが、国民運動面ではどんなに力説しても、核実験は正当づけられない。核禁会議は議論はともあれ、実際の動きはアメリカを正当化している。原水禁運動の一本化は必要だが、このような状況では統一はできない」
1965/8/5
原水禁国民会議が広島市立中島小校庭で「広島からベトナムの即時停戦を訴える大集会」。約7,000人が参加。
1965/8/6
世界各地で広島記念日。<ニューヨーク>米核政策健全化委員会が主催しタイムズ・スクエア近くで集会。ライアン民主党下院議員、女優のダイアナ・サンズさんらが参加。クイーンズの世界博会場では「平和のための婦人ストライキ運動」(WSP)の約700人が喪服を着て沈黙の行進<パリ>仏婦人同盟が主催し集会<モスクワ>英字週刊誌「モスコーニューズ」が「2度と広島を繰り返すな」の特集<米ミズーリ州セントルイス>平和と自由のための国際婦人連盟が主催し、広島に対する祈りと、数年前会員がつくった「千羽鶴」上映<オーストラリア・ビクトリア州>国際協力と軍縮のためのオーストラリア、ニュージーランド会議が平和行進<同州ジロング市>ジロング地区平和協議会が記念集会<ニュージーランド・オークランド市>ヒロシマ・デー委員会が平和行進<西ドイツ>国際反戦同盟シュツットガルト支部が広島をしのび原爆を警告する週間
1965/8/6
被爆20周年原爆死没者慰霊式・平和記念式。平和記念公園に約3万人が参列。台風15号の影響で雨模様、風強し。浜井広島市長がこの1年間に原爆症でなくなった69人と新たに原爆犠牲者とわかった400人を書き加えた原爆死没者名簿を奉納。死没者名簿記入者は計6万1,443人。佐藤首相の代理として初めて官房長官(橋本登美三郎氏)が出席。遺族代表の20歳の村上洋一郎さん、高田コズエさんが鐘を打ち鳴らし、参加者全員で黙とう
1965/8/6
佐藤首相が閣議で厚生、文部、科学技術など関係官庁が協力し原爆被爆者調査を行うよう指示。「原爆被爆者の総合的な調査、今後の被爆者対策、原爆に関する文献や資料の収集を政府が中心になって行い、原爆に対する貴重な研究資料としたい。これまで原爆問題は政治的に使われており、まとまった資料もない。戦後20年たって資料が散っており、そのほとんどは米などに持って行かれている。この際原爆に関する資料を集め、唯一の被爆国である経験を将来に生かして、総合的な対策をたててもらいたい。財政的な問題など具体的な計画については、厚生、文部両省、科学技術庁などを中心に立案を進めてほしい」
1965/8/6
11月実施の原爆被爆者実態調査について鈴木善幸厚相が閣議で報告。「(調査は)全国27万余人の原爆被爆者全員について一般調査と特別調査をし(1)基本調査(2)生活調査(3)過去20年間にわたる健康調査-の3調査を行う。これまで医療援護については原爆医療法に基づき、援護措置がとられているが、生活援護についても強い要望があり、生活と医療の2つを合わせて援護するようにしたい。今度の実態調査結果に基づき、十分検討した上、ぜひ実施したい」
1965/8/6
浜井広島市長が平和宣言。「原子爆弾は、単に、それが残虐非道なおそるべき破壊兵器であるというだけでなく、その放射能は、長期にわたって人体をむしばみ、ついには地球そのものをも人間の生存を許さないものとすることが明らかになった。…わたくしたち広島市民が『原水爆の禁止』と『戦争の完全放棄』を強く叫び続けているのもそのためである。…しかるに、この20年の間に、核兵器は質量ともに異常な発達を遂げ、これが保有国も漸次その数を増して、事態をいよいよ混乱させているばかりでなく、ベトナムをはじめ世界各所において、大いなる危険を冒しつつ武力抗争が繰り返されていることは真に憂慮にたえない。思えば、人類が現在以上の危機に直面したことはいまだかつてなかったであろう。…かかる観点よりすれば、今やすべての国家、すべての民族が、事態の重要性を深く認識し、いっさいの行きがかりを捨てて、人類の破滅防止のために全努力を傾注することが喫緊の要務であることを確信する」
1965/8/6
戦災供養塔前で「原爆死没者供養会」。宗派を超え慰霊、佐々木亮広島戦災供養会長があいさつ
1965/8/6
日本原水協が広島市公会堂で被爆者救援集会。約2,000人が参加。(1)被爆者援護法の制定、小頭症患者の完全な医療と終身生活保障、原爆医療法の改正(2)原爆症についての根治研究機関の設置(3)ABCCの一切の資料公開、返還-などを決議
1965/8/6
社会党・総評系の広島県被団協(森滝市郎理事長)が広島市の見真講堂で「原爆死没者追悼法要」
1965/8/6
被爆死した法曹関係者の霊をまつる「広島法曹原爆物故者慰霊碑」が広島市基町の広島高裁前庭に完成。除幕式と追悼法要。犠牲者67人
1965/8/6
原爆で家族を失った広島市出身の写真家井上清司氏が東京、広島で「素顔の女流写真展」。広島展で被爆者救援カンパも呼びかけ
1965/8/6
NHK教育テレビが「日本回顧録ヒロシマ~昭和20年8月6日」を放映。被爆当時の模様と秘話を未公開フィルムを織りまぜ紹介
1965/8/6
NHKが「現代の映像」で原爆ドームを取り上げ「ドームの20年」を放映
1965/8/6
ラジオ中国が原爆症の恋人を持つ女性の悲話を描いたドキュメント「ヒロシマ・ある愛と死」
1965/8/6
中国新聞が20年前の8月6日に生を受け、20歳になった3人を特集。「ピカ子ちゃん」と呼ばれた広島市中広町、富田博子さん。広島女子商に進学し、ソフトテニス全日本選手権に出場し準決勝まで進出。母親の避難先の広島県佐伯郡地御前村、地御前国民学校で生まれた山口哲弘さんは中央大法学部2年生。法律事務所で働きながらの学業。詩人栗原貞子さんの詩「生ましめん哉」のモデルで、広島貯金局の地下で8日に生まれた広島市皆実町の平野和子さんはデザイナーをめざし勉強中
1965/8/6
中国新聞の8月6日夕刊1面。「8月は広島にとって永遠に残酷な季節である。6日が近づくと広島市民ははだ、のど、心が焼けただれ、もだえ、焼けつき、いらだち、怒り、悲しんだ感覚と思いを自然によみがえらせる。20年後のきょうも広島市民は、この死者への祈りと平和への願いを込めて次の季節のコヨミをめくるならわしを20回繰り返した…」
1965/8/6
ブレジネフ・ソ連第一書記が、中国新聞の求めに応じ発表した平和擁護と熱核戦争防止についてのメッセージが、タス通信を通じて届く
1965/8/6
広島「憩いの家」の設立者、米作家のアイラ・モリス氏の妻エディタ・モリスさんが「ヒロシマの種」を英、西ドイツ、オランダ、ギリシャで刊行。3年前に出版され27カ国で300万部売れた「ヒロシマの花」の姉妹編
1965/8/6
原水禁国民会議の被爆20周年原水禁世界大会が広島県立体育館で開幕。海外10カ国2国際団体の56人を含む1万人が出席。寺田熊雄原水禁岡山協議会議長ら21人を議長団に選び、浜井広島市長が歓迎のあいさつ。日本山妙法寺山主藤井日達、広島県原爆被害者団体協議会理事の下江武介、総評事務局長岩井章、社会党書記長成田知巳氏らが来賓あいさつ
1965/8/6
中村梅吉文相が大学学術局長に原爆被災の関係資料、文献の収集、整理、保存の具体策検討を指示
1965/8/7
広島テレビが「法衣を脱いだ原爆少年僧」を放映。少年僧になった原爆孤児の20年をたどる
1965/8/7
「ワールド・フレンドシップ・センター」が発足。提唱者は米人平和運動家のバーバラ・レイノルズさん。平和記念館で発起人総会。理事長に原田東岷氏、副理事長にバーバラさん。事務局は広島市南観音町。(1)生活困窮の被爆者福祉事業(2)外国の平和活動家が広島で生活し、原水爆禁止と世界平和のための仕事ができる場所を提供(3)日本の文化に関する文献、被爆の実態などの資料を集め、各国との情報を交換
1965/8/8
東京・品川の東海寺で「広島・長崎原爆殉難者之碑」除幕式
1965/8/9
原水禁国民会議の被爆20周年原水禁世界大会が、長崎市で閉会総会。国民平和投票運動の中間集計は18都道府県で37万9,500票と報告
1965/8/9
米アーカンソー州リトルロックのタイタン2ミサイル地下発射台1基が地下で出火し、民間人作業員48人が絶望。改修工事中
1965/8/9
中国新聞夕刊の連載企画「廃虚からの道広島復興裏面史」でABCCが現在の比治山に決まったいきさつを記録。「当初、市は基町の旧軍用地を用意した。しかし、ABCCは向宇品か比治山を求めた。水害を恐れたのである。比治山への決定はマッカーサー司令部と日本政府間で決められた中央指令だった。マ司令部のサムス公衆衛生福祉局長は『反対すれば、広島市にとっても日本政府にとっても良い結果にならない』と高圧的に説得した」
1965/8/9
長崎市で被爆20周年原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。田川務長崎市長の平和宣言。「原爆の惨禍を身をもって体験したわれら長崎市民は、世界の恒久平和を念願し、常にその実現を訴え続けてきた。…しかるに国際社会の情勢は、日々深刻の度を加え、原水爆の製造とその保有量の増大を競い、世の平穏を脅かしている。また民族相克、流血の惨事は、今なお繰り返され、平和の確立は著しく妨げられている。…われらは、世界の人々がひとしく平和のうちに生存し得るの権利を尊重し、この地上に真の平和な社会の実現が、速やかに達成されることを希求してやまない」(「長崎市平和宣言集」)
1965/8/10
中国放送などで、歌手の九重佑三子さんが原水爆実験に抗議する歌「雨になにをしたの」を歌う
1965/8/11
広島大が原爆被災学術資料標本センターの構想まとめる。1966年度事業として文部省に予算要求へ。教授2人、助教授5人など59人のスタッフ。企画情報、記録管理、記録調査、標本管理、標本調査部など6部
1965/8/11
原水禁国民会議の被爆20周年原水禁世界大会国際会議が東京で開幕。13日まで。11カ国2国際団体の32人の外国代表と60人の日本代表団が参加。12日にはABCCの資料の公開を求め「国際委員会」の設置決める
1965/8/14
広島悲願結晶の会(森戸辰男会長)が平和記念公園で原爆犠牲者の追悼法要を開き、元安川と本川に1万個のとうろうを流す。8月6日が台風で延期
1965/8/14
核禁会議の「核禁と平和」国民大会が東京・日比谷公会堂で開く。2,500人が参加。スローガン「偽装原水禁運動との対決」「中国の核威嚇政策反対」
1965/8/15
旧陸軍広島幼年学校47期生の被爆者慰霊式を同校跡の広島市基町高校で開く。47期生は177人、広島県高田郡吉田町に疎開していたが、広島市内の陸軍病院に入院していた5人が被爆死
1965/8/17
米がジュネーブの17カ国軍縮委員会に核兵器拡散防止条約草案を提出。草案「本条約加盟の核保有国は、直接、間接を問わず、軍事同盟を通じていかなる核兵器も非核保有国の国家管理下に委譲しない義務を負う」
1965/8/18
東京都議会が佐藤首相、鈴木善幸厚相にあてた「原爆被爆者の援護にかんする意見書」を満場一致で採択。「原子爆弾被爆者およびその家族の置かれている悲惨な境遇を一日も早く解消するため、援護法を制定し被爆者の医療、ならびに生活について万全の措置がとられるよう強く要望する」。8月10日現在で東京都在住の被爆者は4,530人
1965/8/20
沖縄在住原爆被害者連盟(金城秀一会長)が「沖縄の被害者の治療を本土並みに保障してほしい」と沖縄訪問中の佐藤首相に要望。(1)原爆医療法を沖縄の被爆者に適用(2)被爆者実態調査の対象に沖縄の被爆者も含める(3)沖縄被爆者の医療費のうち、1957年の原爆医療法制定以後については日本政府が負担-など
1965/8/23
スカルノ・インドネシア大統領が日本人記者団と会見し「原爆実験の準備は順調に進んでいるが、いつやるかは答えられない。進歩的諸国が持つ原爆は世界の帝国主義を排除し、新しい世界をつくるために役立つ」
1965/8/24
米原子力潜水艦パーミットが佐世保港に入港。スレッシャー型、サブロック(対潜核爆雷)装備。佐世保への米原潜入港は4度目
1965/8/24
佐世保への米原潜パーミット入港に抗議し社、共両党系の労組員ら500人が統一集会。原潜反対佐世保市民会議も港を見おろす赤碕岳で抗議ののろし
1965/8/25
日本美術家平和会議(代表、佐藤忠良氏)と日本原水協が原爆犠牲者9人の肖像画を遺族に贈る。「原爆犠牲者肖像画運動」は朝倉摂、佐藤忠良氏らが7年前から始め、100人余の肖像を描く
1965/8/26
第4次米原潜寄港抗議全国行動広島県総決起大会が広島市の県庁前で開かれる。約1,000人が参加
1965/8/--
原爆犠牲者のめい福と世界平和を祈ってクスノキの彫刻とまんだらししゅうが原爆資料館に贈られる。彫刻は竹本磨哲さんの「霊界」、ししゅうは滋賀県の牧田みち子さんの作
1965/8/--
原爆資料館に被爆の惨状を物語る資料の寄贈相次ぐ。広島電信局の焼け跡で見つけた通信機器、墨書きの部分だけが焼けた掲示板の紙、熱線のため固まったびん、高熱で軽石状になったすずりなど
1965/8/--
原爆童話集「つるのとぶ日」を書いた広島県安佐郡佐東町の大野允子さんが長編原爆童話「海に立つにじ」を講談社から出版
1965/8/--
厚生省が11月1日に実施する「原爆被爆者調査」の調査方法が決まる。被爆者の60%が集中している広島、長崎地区は国勢調査員を使って訪問調査、残りは郵送調査。調査は被爆地点、被爆の模様などを聞く一般全数調査、抽出方式による生活、健康調査の特別調査、爆心地近くの被爆者を調べる近距離被爆者調査の3方法

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