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ヒストリー

ヒロシマの記録1965 9月


1965/9/2
広島市立舟入病院に原爆被爆者のアフタケア施設「原爆被爆者健康管理センター」の建設決まる。被爆者の人間ドック的性格を持たせ20ベッドを設ける。建設費は国の補助300万、県費150万、市費500万の計950万円
1965/9/4
アルベルト・シュバイツァー博士がアフリカ・ガボンのランパレネのジャングルにあるシュバイツァー病院で死去。90歳。1875年、ドイツのカイゼルスプルグの牧師の家に生まれる。1913年、ランパレネに移住、周囲800キロに医者のいない地区で自力で病院を建設。1952年、ノーベル平和賞を受賞、1957年には核実験停止を呼びかけるアピールを単独で発表。日本に対しては「日本人よ、世界に同情を求めず、自ら立って平和のために戦え」「原水爆は核保有国にやめてくださいとお願いするものではなく、国際法の名において禁止を要求すべきもの」
1965/9/4
ラジオ中国がドラマ「判決」シリーズで原爆症で自暴自棄になり殺人を犯した若者を主人公にした「ひろしまの歌」を放送
1965/9/9
沖縄県那覇市の丸茂つる、謝花良順さんら5人が日本政府を相手取り「原爆被爆者医療法に基づく医療費請求訴訟」を東京地裁におこす。「日本国民は法の下に平等で、沖縄に居住する被爆者も本土と同様の保障を受ける権利があり、国は原告らの医療費計30万2,488円を支払え」
1965/9/9
中国新聞社説が文部省が予算要求した広島大の「原爆学術資料標本センター」を原医研でなく広島市平和記念館に置くべき-と主張
1965/9/10
中国新聞の被爆20周年報道に日本新聞協会賞
1965/9/16
厚生省が被爆者実態調査のうちの中国地方の生活・健康調査対象16市町村を指定。広島=広島市、三原市、安佐郡安古市町、佐伯郡廿日市町、同吉和村、双三郡三良坂町、比婆郡東城町▽山口=防府市、熊毛郡平生町、大津郡日置村▽岡山=上道郡上道町、後月郡芳井町、真庭郡八束村、久米郡久米町▽島根=江津市、仁多郡横田町、邑智郡瑞穂町、隠岐郡知夫村
1965/9/20
広島市平和記念施設運営協議会(田中好一会長)が広島県動員学徒犠牲者の会の予定している慰霊塔を高さ8メートル程度にし、セメント素打ち工法は避けるよう申し入れ。平和記念公園には民間団体の建立した慰霊碑や平和の鐘などが11基あり、1964年から広島市は「これ以上増やすと記念碑過剰」と新規の計画をすべて断ってきた
1965/9/21
政府が原爆医療法の特別被爆者の適用範囲を広げる。(1)原爆投下翌日から3日以内(広島8月9日、長崎12日まで)に爆心地から3キロ以内に入った人とその胎児(2)原爆投下後、雨や風で核分裂生成物(死の灰)の影響を強く受けた地区(爆心地から3、4キロ)にいた人とその胎児。新しく特別被爆者となるのは約4万2,000人と推定
1965/9/21
東京で国際原子力機関(IAEA)第9回総会始まる。本部所在地以外の総会は初めて。加盟93カ国中、85カ国、約400人が参加
1965/9/24
日本政府の援助によって本土で治療を受ける沖縄の被爆者11人が那覇港から出発。広島原爆病院9人、長崎原爆病院2人が入院、治療。旅費、治療費は無料だが、該当者13人のうち2人は一家の稼ぎ手で本土行きを断念
1965/9/24
グロムイコ・ソ連外相が国連総会で1966年半ばにジュネーブで、中国を含めた世界軍縮会議を提案、中国の国連代表権回復に賛成。核拡散防止条約草案も提出。草案は米が提出したものと似通っており、米は好感
1965/9/26
沖縄の被爆者9人が広島原爆病院に到着、入院。与那嶺盛徳団長ら男5人、女4人。重藤文夫院長が「原爆の苦しみに続いて、戦後20年間、沖縄で苦しい日々を送られたみなさん、安心して療養してください」。9人のうち5人は外科手術、4人は内科疾患
1965/9/26
沖縄の原爆被爆者2人が、長崎原爆病院で治療を受けるため長崎市入り(「長崎年表」)
1965/9/28
サンフランシスコなど米西海岸を中心とした日本人、日系人の北米仏教団の観光団40人が広島を訪問。原爆慰霊碑前で犠牲者の供養
1965/9/28
重水漏れのため修理中の茨城県東海村、日本原子力研究所2号炉で、所員8人が微量放射能浴びる
1965/9/30
広島市議会が原水爆被災白書の作成を国に要望する決議を満場一致で可決。「政府が国家的事業として取り上げ、完ぺきな研究体制をつくって世界の文明に貢献し得る白書を完成するよう要望する」
1965/9/--
島根県の女性が被爆者健康手帳の取得を希望し、同じ会社で働いていた同僚を捜し、証言を求める。広島市羽衣町、帝国兵器会社で働いていた野地春枝さん

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