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ヒストリー

ヒロシマの記録1964 8月


1964/8/1
広島市の平和記念公園で「平和の灯」点灯式。西尾末広民社党委員長ら1万人が参列。松下正寿核禁会議議長が「ともしびを平和と平和運動の象徴として、全面核停が実現するまで燃やし続ける」
1964/8/1
自民党の村上勇組織委員長が広島市で記者会見し「自民党はこれからも核禁会議の運動を強く支持し、協力していきたい」と語る
1964/8/2
社会党が広島市で中央執行委員会。援護手当や死没者に対する弔慰金の支給など被爆者救援運動の強化決める
1964/8/2
第10回広島市平和美術展が広島平和記念館で始まる。9日まで。メキシコ、東ドイツの版画40点を特別展示
1964/8/2
社会党、総評系の「原水禁広島、長崎大会」に出席する河上丈太郎社会党委員長が広島で記者会見。「大会成功のために全力をあげるが、共産党のように党の方針をそのまま運動の中に持ち込まない」
1964/8/2
第4回核禁会議国民大会開く。広島市公会堂に1,000人が参加。1964年度核禁アピール。「中国、仏が部分核停条約に加盟を拒否しているのは遺憾である。両国が同条約に疑念をもつのはわかるが、その立場を容認することはできない。とくに隣国の中国の核武装阻止には全国民的努力を尽くす」
1964/8/2
広島県原水協(共産党系)が広島県内3コースで進めた平和行進が広島市入り
1964/8/2
日本原水協主催の第10回原水禁世界大会国際会議が閉幕。「核戦争の危険を防ぐには世界各国民の闘争、とくに民族の独立と解放を求めるアジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国民を支持することが必要である。われわれは世界の人民が米帝国主義と戦うことを要求する」と決議
1964/8/3
原水爆被災3県連絡会議主催の原水禁広島、長崎大会国際会議が始まる。広島県労働会館で5日まで。36カ国9国際団体から海外代表89人が参加。森滝市郎原水禁広島協議会代表委員が主催者報告。「この大会の目的は10年にわたる原水禁運動の伝統を継承し、その正当的な基調に立って、国民運動としての再結集をはかることである」とし、運動目標に(1)地下核実験停止と全面核停条約の締結(2)仏の太平洋核実験反対(3)東南アジアでの米の核兵器使用の危険に対する警告-など7項目を提示
1964/8/3
日本原水協主催の第10回原水禁世界大会総会開く。京都、大阪で5日まで
1964/8/3
京都平和大会(社会党、総評系)開く。共産党を除名された志賀義雄代議士が「中国と日本原水協は真の平和運動を分裂、破壊するものだ」と非難
1964/8/4
世界平和評議会から広島市民に贈られたジョリオ・キュリー金賞を浜井広島市長に伝達
1964/8/4
戦争抵抗者インター(WRI)のインド人E・P・メノンさんとサティシュ・クマールさんら6人が広島市に到着。1962年6月1日インドのガンジー墓前を出発。2年にわたり14カ国1万3,000キロを歩く
1964/8/4
成田知巳社会党委員長が広島市で記者会見。「原水禁運動は外国代表や思惑に左右されてはならない。原水禁運動発祥の地である日本があくまでも正しい基盤に立ち『いかなる国の核実験にも反対』『部分核停を全面核停へ』の原則に立って運動を統一しなければならない」
1964/8/4
原水爆被災3県連絡会議の「原水禁広島、長崎大会国際会議」第2日。広島市職員の高橋昭博さんが被爆者代表として特別報告。「ベトナム、ラオスの軍事危機に関する緊急決議案」をめぐり論争
1964/8/5
大賀一郎関東学院大名誉教授が「復興のシンボルに」と広島市に2000年前のハスの種を贈る
1964/8/5
原水爆被災3県連絡会議の平和行進が広島市に到着
1964/8/5
愛媛社会党県議の真鍋梅一さんが原水爆被災3県連絡会議主催の「原水禁広島、長崎大会」に、瀬戸内海を泳いで参加
1964/8/5
米、英、ソ3国が部分核実験停止条約調印1周年にあたり共同声明。「核停条約は地球上の平和をさらに強化した。条約は兵器競争の抑制を助け、すべての人々により健康に生きる確信を植えつけた。しかし、核停条約は第一歩に過ぎない。兵器競争を鈍らせ、効果的軍縮、恒久平和をはかるには、なお重大な問題と見解の相違が横たわっている。われわれは平和の強化と話し合いによる懸案解決のため、あらゆる努力を払う」
1964/8/5
原水爆被災3県連絡会議主催の文化人・学者部会で金井利博中国新聞論説委員が「原水爆被災白書を作成し国連を通じ世界に公表を」と提案
1964/8/5
原水爆被災3県連絡会議主催の「原水禁広島、長崎大会」開会総会。広島県立体育館に2万人参加。森滝市郎原水禁広島協議会代表委員が基調演説。「第9回原水禁世界大会は特定政党支持者が圧倒的に多い一方的集会になり、日本の原水禁運動の正統的原則は否定された。それは被災地にとって耐え難い苦痛であり、広島、長崎、静岡の3被災地は原水禁運動の正統的基調に立ち、日本の原水禁運動を正常化する。私たちは一切の核兵器の製造、貯蔵、実験、使用、拡散を否定する。部分核停条約を全面核停条約に進め、人類の平和共存を確保する」
1964/8/5
大阪で日本原水協主催の第10回原水禁世界大会閉会総会。ベトナム情勢の緊迫化に伴う緊急動議採択
1964/8/5
原水爆被災3県連絡会議主催の「原水禁広島、長崎大会国際会議」が終わる。ベトナム、ラオスの危機に関する緊急動議など採択。共産党から除名された志賀義雄氏も出席
1964/8/6
被爆少女の乗松博美さん(芸名・扇ひろ子)が、平和記念式で「原爆の子の像」を歌い歌手デビュー。レコード著作権を広島市に寄付
1964/8/6
被爆19周年。広島市の原爆慰霊碑前で原爆死没者慰霊式・平和記念式。市民3万5,000人が参列。原爆死没者名簿に169人が追加。合計6万974人が眠る。8時15分、永野厳雄知事の呼び掛けにこたえ、県内一斉にサイレンや鐘が響く
1964/8/6
浜井広島市長が平和宣言。「私たち広島市民は今日まで機会あるごとに、全世界の人々にその体験を伝え、核兵器の廃棄と戦争の完全放棄を訴え続けてきた。たまたま昨年、米、英、ソ3国による部分核実験停止条約が締結され、世界の多くの国が参加したことは、まことに喜びにたえない。しかしながら、この条約は、私たちの悲願達成へ一歩進めたものではあるが、核兵器の完全放棄を保証するものではなく、加うるに世界各所における国際間の小競り合いは、大いなる危険をはらんで、現在なお続けられている。私たちは今こそ全世界の人々が原子力時代の戦争はひとり戦争当事国のみならず、全人類を滅亡に導く手段以外の何ものでもないことを、あらためて深く認識し、戦争の完全放棄をめざして一層の努力を傾注するよう望んでやまない」
1964/8/6
日映新社製作の劇映画「とべない沈黙」(黒木和雄監督、加賀まりこさん主演)のロケ班が式典を撮影
1964/8/7
日本原水協主催の第10回原水禁世界大会被爆者救援集会開く。広島市公会堂で1万2,000人が参加。被爆者救援に関するアピール「被爆者救援運動は被爆していないものが将来自ら被爆者になることを防ぎ、自らを救済する運動である。そのために核戦争の阻止、核兵器の完全禁止をめざす全世界の平和を望む人々の団結の力によって、再び被爆者を作らない体制を樹立することと原爆症の根本的治療法を積極的に追求する機関を確立することが大切であり、現行の医療法を改定し、すべて被爆者に役立つ援護法に発展させ、さらに被爆者自身の組織を町村にまで結集し、原水禁運動と一体となった運動を推進するよう訴える」
1964/8/7
バートランド・ラッセル卿が原水爆被災3県連絡会議主催の原水禁広島大会にメッセージ。「1963年度に世界の大国はTNT火薬3,200億トンに相当する爆発物を蓄積した。偶発性の核戦争の危機は増加している」
1964/8/7
原水爆被災3県連絡会議主催の原水禁広島大会閉会総会。広島市民球場で2万7,000人が参加。広島アピール「われわれは正しい歴史と伝統を引き継ぐこの大会を出発点として、日本の原水禁運動の再建と真の国民的統一を実現するため、あすからの行動に立ち上がる。部分核停条約は明るい希望を与えたが、世界の各地で原水爆の新しい危険が生まれている。ヒロシマの悲劇を繰り返さぬために、どの国の核実験にも反対し、核兵器の絶滅と軍備の全廃を訴え続け、ベトナム、ラオスでの核戦争の危機を防ごう。また被爆者救援の国際的連帯と行動を訴える」
1964/8/8
第3回核禁会議長崎大会開く。松下正寿議長が基調演説。「われわれの願いは長崎を最後の被爆地とすることである。今後も粘り強くいかなる国に対しても核兵器禁止を主張し必要な行動をとる」
1964/8/8
原水爆被災3県連絡会議主催の原水禁長崎大会出席のため、広島から長崎入りしたソ連のジューコフ団長が記者会見。「ソ連代表団は原水禁運動の統一を願って来日したが、中国代表の日本原水協への圧力が予想以上に強く、世界大会国際会議を退場せざるをえなかった」
1964/8/8
広島「折鶴の会」の子供たちが平和の願いを込めて原水禁大会の外国代表に贈った折りづるが捨てられ、ホテルのくずかごに山積み
1964/8/9
原水爆被災3県連絡会議が原水禁長崎大会。外国代表50人を含む1万2,000人参加。全面核停条約を獲得する共同行動の強化、ベトナム、ラオスでの米軍による侵略や仏の太平洋核実験に対する反対などを盛り込んだ長崎アピールを発表
1964/8/9
第10回原水禁世界大会長崎大会開く。外国代表100人を含む2万人が参加。「原爆被災地長崎が再び米帝国主義によって基地となりつつある。米帝国主義、植民地主義に打撃を与えるため国際行動を強める」と決議
1964/8/9
田川務長崎市長が平和宣言。「長崎市民は身をもって体験した惨禍が再び繰り返されざることを念願し、世界恒久平和達成への祈りを捧げて、これを全世界に強く訴え続けてきた。われらの切なる願いは部分的核実験停止条約によりその曙光が見出されつつある。さりながら、世界の情勢は砲煙いまなおそのあとを絶たず、一触即発の危機さらに迫るの感を深くする実情にある。長崎市民は、英知と正義と愛とが人類に与えられたすべてのものであることを固く信じるがゆえに、世界の良識と人道の名においていっさいの戦争をこの地上より排除して、諸国家が融和協調することを切望する」(「長崎市平和宣言集」)
1964/8/9
長崎原爆記念日。平和祈念像前で原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。市民5,000人が参列
1964/8/10
日本原水協が原水爆被災3県連絡会議に統一条件示す。「被災3県連が(1)原水協の名で外国代表招待状を出したことは誤りだと認め(2)部分核停条約を高く評価しない者でも組織から排除しない-という方針を打ち出せば、統一の話し合いを進めたい」。伊藤満原水爆被災3県連絡会議代表世話人は「われわれは今年の大会で、国民運動の正しい路線としての確信を深めた。いますぐ統一の話し合いをすることは考えられない」(「ヒロシマの記録」)
1964/8/15
米ジョンソン大統領がホワイトハウスで記者会見。「トンキン湾事件で私が第7艦隊に核兵器の使用を認める指令を出したという話はでたらめ」と、共和党のゴールドウォーター大統領候補の発言を非難
1964/8/15
AP通信が「米ポラリス潜水艦が9月初めまでに西部太平洋で任務につく」と伝える
1964/8/15
第10回原水禁世界大会国際会議をボイコットしたジューコフ・ソ連代表団長が記者会見。「世界大会は『中国の移動サーカス』だった。来年も『北京の人形芝居』が行われるならば、われわれは参加はできない」
1964/8/15
平和祈念慰霊国民大祭開く。広島市の平和記念公園で核禁広島県民会議、広島市原爆被爆者協議会など300人が参加
1964/8/19
椎名悦三郎外相が参院外務委員会で米原子力潜水艦の寄港問題について「核武装していない限り安保条約上寄港を拒否できない。安全性の解明が終われば適当な方法で国民に周知させたうえで許可する」と発言
1964/8/23
池田首相が広島市訪問。「広島原爆病院を見舞って被爆者の救済対策はどんなに急いでも急ぎ過ぎることはないと思った。原爆医療法改正はできれば次の臨時国会でやる」
1964/8/26
原水禁広島協議会が政府に米原子力潜水艦寄港反対の要請電報
1964/8/26
原子力委員会(委員長、愛知揆一科学技術庁長官)が米原子力潜水艦の寄港問題について、「米の保証どおりなら安全上支障はない」と結論。政府は米原子力潜水艦の寄港を了承する方針
1964/8/27
世界平和アピール7人委員会が米原子力潜水艦の日本寄港問題で意見発表。「原子力潜水艦が安全かどうかをさらに慎重に検討し政府の態度を決めるべき」
1964/8/28
米政府原子力委員会が「28日、ネバダ実験場で低威力(TNT火薬2万トン以下)の地下核実験をした」と発表。この年14回目
1964/8/28
政府が米原子力潜水艦の日本寄港受諾を正式決定。ホランド在日米大使館1等書記官を招き口上書を手渡すとともに原子力委員会の総合見解を公表
1964/8/29
社会党、総評は米原子力潜水艦の寄港阻止を重点闘争と位置づけ、各地方組織に寄港阻止闘争の具体的な緊急行動計画を指令
1964/8/29
米原子力潜水艦の寄港に伴い政府は各省庁連絡会議を開き、寄港が予想される佐世保、横須賀両港の放射能調査を事前と事後の2回実施することを決める
1964/8/30
日本原水協が米原子力潜水艦の寄港に対し、緊急非常態勢を組み抗議、入港阻止活動の展開を決める。呉も闘争拠点に
1964/8/31
中国新聞が「沖縄の被爆者たち」の現地ルポ連載を始める
1964/8/31
第3回原子力平和利用国際会議がジュネーブで開幕。9月9日まで
1964/8/31
ソ連共産党機関紙プラウダが、日本政府が米原子力潜水艦の寄港を認めたことに対し「日本をペンタゴンの新たな核戦略前梨地点とすることは日本を報復攻撃の第一目標にしてしまうことを意味する」と論評
1964/8/31
ソ連科学アカデミーのミリオンシュチコフ博士がタス通信記者に、熱エネルギーを直接電力に転換する世界最初の原子炉「ロマシュカ」を発表
1964/8/--
丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」10部作が海外展示の旅を終えて11年ぶりに戻る。丸木夫妻は「各種団体から貸し出しの要望があるが、原水禁運動が統一されていない現状ではすべてお断りしている。絵の純粋な意図が損なわれるのは不本意」
1964/8/--
米人平和運動家アール・レイノルズ博士とバーバラ・レイノルズ夫人が離婚
1964/8/--
米の「土曜文学評論」主筆のノーマン・カズンズ氏が浜井広島市長に原爆施設へと56万円贈る
1964/8/--
厚生省が1965年度の原爆被爆者対策の方針決める。(1)被爆者の健康管理、医療手当の増額(2)広島、長崎原爆病院の増床(3)特別養護老人ホームの新設-など64年度より15%増の14億9,000万円を大蔵省に要求へ

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