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ヒストリー

ヒロシマの記録1964 9月


1964/9/1
小泉純也防衛庁長官が衆院内閣委員会で「サブロック積載の原子力潜水艦の寄港は核兵器の持ち込みになる」と答弁。海原治防衛局長は「サブロックは全部核爆雷である」と発言
1964/9/2
「サブロックは核爆雷」との政府答弁について、社会党が声明。「核兵器受け入れの伏線であり、直ちに寄港承認を取り消すべきだ」
1964/9/2
日本共産党の宮本顕治書記長がアカハタ紙上でソ連共産党へ反論。部分核停条約の締結について「帝国主義者に譲歩と妥協をあえてした」と強い調子で反撃
1964/9/3
日本原水協が米原子力潜水艦の寄港に反対声明。「原子力潜水艦の寄港については1,600人の原子物理学者が不安の意を表明しているにもかかわらず、政府は安全性についてなんら責任ある説明をせず、米政府の一方的な資料を基に承認を決めた。米政府の意図はアジアの核戦争危機を増大させ日本を移動基地にしようとするものである」
1964/9/3
社会党、総評など7団体が米原子力潜水艦寄港阻止緊急抗議中央集会開く。東京の日比谷野外音楽堂に1万2,000人が参加
1964/9/3
椎名悦三郎外相が参院外務委員会で「サブロックはまだ開発中で現在装備されていない。核兵器の持ち込みは事前協議の対象になるし、日本政府の知らない間に核武装艦が寄港することは絶対に起こりえない」と強調
1964/9/5
米原子力潜水艦入港反対佐世保市民会議の議長宅(佐世保市稲荷町)に投石や脅迫電話
1964/9/6
広島県原水協(共産党系)が呉市内に原子力潜水艦入港監視センター設置決める
1964/9/6
日加閣僚会議のため来日中のポール・マーチン・カナダ外相とミッチェル・シャープ通産相が広島市を訪問
1964/9/8
日本原水協など58団体で組織する米原子力潜水艦寄港阻止実行委員会が東京・日比谷野外音楽堂で総決起大会。1万5,000人が参加
1964/9/8
原水禁広島・長崎大会実行委員会(社会党、総評系)が原子力潜水艦寄港反対の3,000万人署名運動展開を決める。森滝市郎氏らが首相官邸を訪れ、安全性などの公開質問状を手渡す
1964/9/9
日本被団協が(1)医療手当の増額(2)原爆病院病舎の増設(3)被爆者用ドック新設(4)検診の交通費支給(5)老人ホーム新設-を厚生省に要望
1964/9/10
佐藤勝也長崎県知事が愛知揆一科学技術庁長官に要望書。「長崎県は世界第2の原爆被害県であるから、県民の不安をなくすよう佐世保に入港する米原子力潜水艦の安全性について事前に十分な説明をして欲しい」
1964/9/10
社会党が全国書記長・国民運動委員長会議を開き、原水禁運動の新組織「原水爆禁止日本国民会議」結成の方針を決める
1964/9/11
東ドイツの原子力計画の推進者ハインツ・バルウィッヒ博士が米に亡命
1964/9/11
ビノグラドフ駐日ソ連大使が椎名悦三郎外相にソ連政府の警告声明を手渡す。「米原子力潜水艦の日本寄港は日本を原水爆基地に利用する道を開くもので、重大結果を招く恐れがある」
1964/9/12
バンダラナイケ・セイロン首相がインドのシン外相と会談、インド洋の非核武装化を提案
1964/9/12
仏の平和科学者グループの中心人物A・カストラー・ソルボンヌ大教授が広島市を訪問。6月に仏を訪問した広島・長崎世界平和巡礼団員と再会
1964/9/15
フルシチョフ・ソ連首相が訪ソ日本国会議員団との会見で「ソ連は途方もなく強力な恐怖兵器を開発した。これは人類の破壊、消滅兵器だ」と語る。米政府筋は「中国への脅し」と分析、英ではコバルト爆弾から殺人光線までさまざまな憶測飛び交う
1964/9/15
科学技術庁が第1回原子力船安全基準専門部会。事故想定小委員会など4小委員会を設置、年内に結論を出す方針を決める。部会長に山県昌夫東大名誉教授
1964/9/16
広島市で米原子力潜水艦寄港反対デモ。第10回原水禁世界大会(共産党系)広島地区実行委員会傘下の42団体1,300人が参加
1964/9/16
「米の核兵器管理は万全。不慮の発射はありえない」。ジョンソン米大統領がシアトルで演説
1964/9/17
ジョンソン米大統領が「米は人工衛星を破壊する新しい防衛手段を持っている」とサクラメントで演説。この発言を受け18日にマクナマラ米国防長官が「2種類の対衛星兵器を持ち、数回にわたる数百キロ上空での衛星迎撃実験に成功した」と語る
1964/9/17
ジュネーブ軍縮会議、成果なく休会
1964/9/18
民社党が米原子力潜水艦寄港問題で、社共両党とは別に独自の反対議案を提出する方針を確認
1964/9/18
フルシチョフ・ソ連首相が「恐怖兵器を開発した」との発言を否定。「私が日本の国会議員にした話は戦術的兵器の一般論」。19日にも改めて否定
1964/9/20
東京五輪の聖火が6万人の市民が見守る中、広島市の原爆慰霊碑前に到着
1964/9/21
チェコスロバキアで第13回パグウォッシュ会議。(1)欧州中部、中近東、南および東アジアなどに核中立地帯の設置(2)部分核停条約を拡大強化し、地下核実験も禁止-などを勧告
1964/9/22
原爆乙女を主人公にした芸術祭参加テレビドラマ「日本の青春~私は踊り続ける」(名古屋テレビ)の広島ロケが始まる
1964/9/23
広島県原水協(共産党系)の「原潜寄港阻止呉集会」開く。1,500人が呉市内をデモ
1964/9/23
仏の国民議会国防委員会が1965~70年新5カ年軍備計画。中距離地対地核ロケット25基の生産など
1964/9/24
社会党、総評系の原水禁広島・長崎大会実行委員会が原水禁運動の新組織を来年1月をめどに発足させることを決める
1964/9/24
米原子力潜水艦の寄港に伴う政府の第1回放射能事前調査が佐世保港で始まる
1964/9/26
山口大自治会連合会が「原潜寄港阻止」を訴え全学授業放棄を決め校門にピケ
1964/9/27
米軍横須賀基地前で全学連、社青同の約1,000人が「原潜寄港阻止」を叫びデモ。警官隊ともみあい、警官5人が負傷、学生1人逮捕。右翼団体16人逮捕
1964/9/27
広島原爆病院の藤本幸雄内科部長が広島市で開かれた肺がん研究会中・四国部会で、「肺がんと被爆との間には関係が認められ、早期診断が大切」と報告
1964/9/29
ラスク米国務長官が声明。「中国は近い将来最初の核装置を爆発させるかもしれない。もし核爆発があれば、米はそれを探知し、その事実を発表する」
1964/9/30
鈴木善幸官房長官が記者会見で「中国が核兵器の開発を相当進めていることは事実だ。核兵器の運搬手段、その他の開発を完了するにはかなりの年月を要するので、中国が核武装するのは遠い将来のことと推測される」
1964/9/30
「中国核実験の時期が迫ったとのラスク発言は虚構」。中国の権威筋が反
1964/9/--
平和美術会議(佐藤忠良事務局長)が1960年から原爆犠牲者の肖像を描き、遺族に贈る活動を続ける。64年も朝倉摂氏、森芳雄氏、丸木位里・俊夫妻らが63年に亡くなった作家の大田洋子さんら30人を描く

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