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ヒストリー

ヒロシマの記録1963 1月


1963/1/6
1962年8月6日にソ連・モスクワ赤の広場で核実験反対のデモをした全学連の桑原洋さん(東大生)が帰国。レニングラードの国際学連大会に出席のため訪ソ。逮捕されたが間もなく釈放され、核実験反対を訴えヨーロッパ各国を回った後、旅費がなくなりバンコクから強制送還
1963/1/7
仏政府が太平洋タヒチ島東南約1,600キロのガンビエ諸島に水爆実験基地を計画。10の島からなり、マンガレバ島のリキテアが中心地。ロイター通信が伝える
1963/1/8
広島「折鶴の会」の沖野富美江さん(基町高校1年)らが、ケネディ米大統領に「核戦争の恐怖を取り除き軍縮会議を広島で開いて」と手紙。ジェームス・フィッツジェラルド広島アメリカ文化センター館長に託す
1963/1/8
広島市が送った1962年の平和宣言「広島アピール」がドイツ語訳され西ドイツで約1万部配布される。西ドイツ国際反戦同盟シュツットガルト支部長のR・ローゼンリンク夫人から浜井広島市長に連絡
1963/1/10
英・ロンドン百人委員会のM・T・シラップネル氏から広島市に被爆写真送付の依頼。数枚送る
1963/1/12
原水禁広島協議会が広島市大手町の平和会館で常任理事会。日本被団協が展開する「被爆者援護法獲得運動」の支援を申し合わせ
1963/1/12
広島原対協の被爆者福祉センターで「被爆者健康管理に関する懇談会」開く。県、市、県市医師会、広島大、原医研、原対協、ABCCなどが参加。「被爆者の健康管理は従来の血液主体の検査だけでは不十分、がんの早期発見につとめる必要がある」で一致
1963/1/12
広島県被団協が広島市大手町の平和会館で理事会。2月下旬から3月上旬を被爆者健康診断推進月間として県内10カ所で映画会や講演会
1963/1/14
ケネディ米大統領がNATO集団核戦略(ナッソー提案)の推進へ
1963/1/14
ニューヨークで米ソ軍縮・核実験停止協定交渉始まる。米フォスター軍縮局長、ソ連ツァラプキン軍縮代表
1963/1/14
ドゴール仏大統領が記者会見で「フランスは独自の国防力を持つ。将来、潜水艦と核弾頭を保有するようになれば、おそらく自分自身のミサイルを持つことになろう」と暗に米のポラリス・ミサイル供与を拒否
1963/1/16
フルシチョフ・ソ連首相が東ドイツ社会主義統一党大会で演説。平和共存路線を強調。「共産主義でも戦争に勝ち抜けず、世界大戦は大量破壊のものすごい光景を現出する。核兵器をぶっつけあえば7億から8億の人々が死んでしまい、すべての諸国が抹殺される。社会主義の第一の任務は世界平和のため戦うことである。米は4万個の強力な核弾頭を持っている。核戦争は勝者のいない破滅をもたらすだけだ。原爆で汚れた領土に社会主義の建設は不可能」
1963/1/17
モダンジャズのアート・ブレーキー氏が広島公演、原爆資料館を訪れ、慰霊碑に参拝
1963/1/17
西ドイツのジークムント・シュミット博士から「核兵器禁止運動をしたため警察に逮捕されている。広島市民の支援を求めたい」と市に書簡。同博士は毎年、広島の原爆被害者のために救援金。浜井広島市長が2月8日「あなたが告発されたという手紙は広島市民にショックを与えた。悪法も国民を拘束することはわかっているが、言論の自由を拘束することは民主主義に反する。あなたの行動が法にふれたことはむしろ称賛さるべきだ」と激励の手紙
1963/1/18
広島市平和記念公園に「平和祈念像」建立の計画を進めていた平和祈念像建設会(前田伊織会長)を相手取り、工事の請負工務店が起こした工費請求訴訟の第1回公判が広島地裁で開かれる。全国から1,500万円の募金が集まったが、基礎工事だけでストップ
1963/1/20
フルシチョフ・ソ連首相が1月7日付でケネディ米大統領に再書簡。「ソ連領内の自動地震探知所設置は地上2、地下1」を提案
1963/1/20
日本被団協が平和会館で全国代表理事会。社会党が提出を予定している被爆者援護法案の成立促進のための運動案決める。国会請願や原爆慰霊碑前座り込み
1963/1/20
米ソ首脳が核実験停止で書簡交換。モスクワ放送が伝える。フルシチョフ・ソ連首相(1962年12月19日付)「ソ連は核実験停止協定締結のため自国領内で年2、3回の査察を認め、核実験監視所3カ所の設置に同意」。ケネディ大統領(同12月28日付)「米は査察官のソ連領土への立ち入りがスパイ行為に結びつく可能性をなくすための合理的提案を受け入れるつもり」
1963/1/22
ワシントンで米英ソ3国の核実験停止交渉始まる。ソ連は自国領土内に3カ所のブラック・ボックス設置と年に2、3回の現地査察を主張。米英は年8~10回の現地査察を主張
1963/1/23
「広島-アウシュビッツ平和行進」が27日のアウシュビッツ解放18周年記念日の朝、同地に到着するとタス通信東京支局から同行進団事務局に連絡。行進は1962年2月6日、広島を出発、東南アジア、インド、パキスタン、中近東、東欧と行進、24カ国7万キロを歩く
1963/1/23
メスメル仏国防相が「フランスは1962年5月以来、広島型の3倍強力で、ずっと小型の原爆1個を保有している。ミラージュ4型に搭載するこの種原爆の工場生産は今年から開始する」
1963/1/24
黒金泰美官房長官が「米から原子力潜水艦を休養のため日本に寄港させたいと申し入れがあった」と発表。政府は核装備のポラリス型ではないので認める方針。社会党は強く反発。申し入れはライシャワー駐日大使から1月9日に
1963/1/26
ソ連政府機関紙のイズベスチヤが「ソ連の原子力潜水艦レニンスキー・コムソモルがこのほど北極点への潜水航海に成功」と報道
1963/1/26
ケネディ大統領が東西の核実験停止交渉が続いている間はネバダの地下核実験中止を指令
1963/1/26
米国務省が「NATO加盟国に売却予定のポラリス潜水艦はNATO自体に売るのであり、個々の加盟国に売るのではない」と表明
1963/1/27
「広島-アウシュビッツ平和行進団」の一行4人がアウシュビッツに到着、収容所解放18周年記念集会に参加。国際アウシュビッツ委員会代表が「アウシュビッツとヒロシマは約100万の無実の人が殺された残酷な集団殺害のシンボル。アウシュビッツとヒロシマを二度と繰り返さないため世界の人たちに訴えよう」とあいさつ。行進団の代表日本山妙法寺の佐藤行通師にアウシュビッツ収容所の「死の灰」を渡し、広島にまつってほしいと要請。2月5日、ポーランド大使館から日本山妙法寺に連絡入る。行進団は佐藤氏の他、加藤祐三(東大大学院生)、山崎友宏(上智大卒)、梶村慎吾(東大学生)の3人
1963/1/29
内閣放射能汚染対策本部が、最近、日本海側の雪や雨に相当量の放射能を検出していると発表。特に米子は対策本部が1962年5月に出した放射能対策暫定措置指標の第1段階(十分な調査を進める必要)を超える。ソ連が1962年12月23~25日に行った総量32メガトンの大型核実験の影響とみられる
1963/1/29
志賀健次郎防衛庁長官が衆院予算委員会で「中国は早くて1、2年の間に最初の核実験を行うと思われる。実験には最低2個の原爆が必要なので2個は保有しているとみられる」と見解
1963/1/29
故岡本尚一弁護士が中心になった「原爆訴訟」が1年2カ月ぶりに弁論を再開。田畑茂二郎京大教授、高野雄一東大名誉教授、安井郁法政大教授の鑑定が出そろう。3教授とも「無差別の原爆投下は国際法違反」
1963/1/30
マクナマラ米国防長官が米下院軍事委員会で「開発中のナイキ・ジュースの後継のナイキXの開発に着手する必要がある。最近、研究を中止したスカイボルト計画は完全な失敗」と述べる
1963/1/30
米国務省が北米大陸の核武装問題で、「カナダ政府は北米大陸の防衛に寄与するような実質的な提案を何もしていない」と声明。31日、ジーフェンベーカー・カナダ首相が「カナダに対する不当な干渉」と反発
1963/1/30
広島原爆病院が診療状況を発表。血液疾患が減り、がんが増える
1963/1/31
水爆の父エドワード・テラー博士が米共和党下院議員委員会で「米の核実験は、きれいで安い核装置を開発するためにさらに必要」と述べる
1963/1/--
米海軍の原子力艦艇化進む。1月4日、ポラリス潜水艦トーマス・ジェファーソンの就航で計31隻に。計画中を含めると86隻
1963/1/--
1962年2月6日、広島市を出発した日本山妙法寺を中心とする「広島-アウシュビッツ平和行進」(佐藤行通師ら4人)がチェコスロバキアのリディスに到着。第二次世界大戦の犠牲者の墓を参拝

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