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ヒストリー

ヒロシマの記録1963 2月


1963/2/1
米国務省が「米はノーチラス型原子力潜水艦の日本寄港が認められるなら、安全その他の措置について完全な保障を日本政府に与える用意」と言明
1963/2/1
ラスク米国務長官が核実験停止交渉で記者会見。(1)ソ連領内の国際核査察の回数で相互の歩み寄りがなく交渉は進展していない(2)米は地下核実験の再開準備を進めることを決定した
1963/2/3
ソ連共産党機関紙プラウダがニューヨークの米英ソ3国核実験停止交渉中止は、西側に実験停止の意思がないためと論評
1963/2/4
カナダへの米核兵器配備をめぐり賛成派の国防相が反対派の首相と対立し辞任
1963/2/6
仏政府が仏独協力条約に対するソ連政府からの覚書を公表。「もし西ドイツ軍が核兵器を入手したら欧州情勢の重大な悪化を意味することになろう。このような情勢になれば、ソ連政府は直ちに必要な措置を取らないわけにはいかない」と激しく抗議
1963/2/6
マクナマラ米国防長官が下院歳出委員会で「米はソ連を上回る核兵器を持っている。米ソとも100メガトン爆弾は必要ないので持っていない。しかし、核戦争では通常の意味での勝利はあり得ない。ソ連の攻撃で米国民の死傷者は最低1,000万人だが、実際にはその数倍になるだろう。戦後は米ソはともに2、3流国に落ち込むだろう」と証言。3月29日に証言内容公表
1963/2/6
米原子力潜水艦の日本寄港問題でビノグラドフ駐日ソ連大使が大平正芳外相に「戦略的兵器を日本周辺に集中することに無関心ではいられない」と抗議、日本に慎重な対応を希望。米は「言いがかり」と反発
1963/2/7
来日中のギルパトリック米国防次官がNHKのインタビュー、記者会見で「米は極東でも既に十分な核抑止力を持っている。中国が核爆発に成功しても脅威にはならない。日本に核兵器を持ち込む計画はない」と表明
1963/2/8
米政府原子力委員会が「8日、ネバダ実験場で地下核実験を再開した。爆発程度は中程度あるいはそれ以下」と発表
1963/2/12
世界平和アピール7人委員会が、18カ国軍縮会議の成功を願うとアピールを発表
1963/2/12
社会党が中央執行委員会。「あらゆる国の核実験に反対する」など原水禁運動の統一3原則を確認。(1)原水禁運動の方向は、すべての核実験に反対し、東西両体制の平和交渉のもとでいっさいの核兵器の製造、実験、貯蔵、拡散の禁止をめざし、この上に立って核実験停止協定の締結、日本の非核武装、アジア太平洋地域非核武装地帯の設置、被爆者援護などの活動を進める(2)日本原水協の民主的運営のために満場一致の機関決定が破られないよう運営、機構の改善を求める(3)世界大会の在り方を再検討し大会の基本的な性格を日本大会とし、その上で国際交流を行う。あらゆる階層の発言が正しく反映できる構成にする
1963/2/12
18カ国ジュネーブ軍縮会議が再開。フランスは欠席。クズネツォフ・ソ連代表が戦略核兵器、ミサイル潜水艦の外国領土利用を禁止する条約案を提出
1963/2/12
ローマの米関係者が「米は4月1日までに地中海にポラリス潜水艦3隻を配備する。イタリアにあるジュピター中距離弾道ミサイル(IRBM)基地は同日までに非実戦化される」と述べる
1963/2/13
ジュネーブで開かれている国連科学学術会議が世界の原子力発電所状況をまとめる。「1962年6月現在、世界6カ国に19基の原子力発電所があり、総出力は160万キロワット。本年末までには55基、450万キロワットに」
1963/2/13
原水禁広島協議会が米原子力潜水艦の日本寄港問題について政府と米政府に抗議文送る。「寄港を認めることは日本の核武装に既成事実をつくる恐れがあり、極東の緊張を招く。被爆国の政府としては人類的な立場で全面軍縮に努力すべきで、寄港受け入れを直ちに取り消せ」
1963/2/14
米原潜寄港で安全問題などについて米側から回答書。「日本寄港の際、核燃料の積み替えは行わない」。原子炉の構造については軍事機密として回答を拒否
1963/2/15
ジュネーブ軍縮会議でクズネツォフ・ソ連代表が「もはや問題は核実験停止条約をソ連案通り受諾するか、それとも結ばないかのいずれか。交渉は今や技術的な問題ではなく純然たる政治問題」と演説
1963/2/16
近藤鶴代科学技術庁長官(原子力委員長)が緊急原子力委員会。米原潜の日本寄港問題で結論出ず。米側が「安全保障証明書」を出す意思がないため、原子力委員会は苦境に
1963/2/16
広島原爆病院に入院中の広島県安佐郡可部町の末次君子さんが急性骨髄性白血病で死去。25歳。「なおりたい。もう一度ふつうの娘に戻りたい。白血球よそんなに増えないでおくれ」とつづった闘病日記が発表される
1963/2/16
原爆で生活を破壊された人に援護の手を-と、日本被団協と原水禁中国ブロック協議会の約100人が、原爆被害者援護法の制定を求めて平和記念公園の原爆慰霊碑前で24時間座り込みを開始。慰霊碑前にテント2つを設営「被害者に障害年金を支給」など11のスローガンを書いたのぼりを立て参拝客に署名求める
1963/2/17
日本被団協と原水禁中国ブロック協議会が原爆慰霊碑前24時間座り込みを正午で打ち切り、500人が参加し決起集会。国会請願代表団38人を激励、請願団を代表し桧垣益人広島県被団協事務局長が決意表明。「生活困窮被爆者へ特別生活援護手当の支給」など11項目を決議、「被害者アピール」を発表。アピール「1957年原爆医療法が施行され、60年、62年に一部改正されたが、まだ改善の余地が残っている。国際法に違反した非人道的な原爆で死亡した人や、その遺族に対してなんらの補償もされていないし、身体障害者にも償いがされていない。医療法の完全化とともに原爆被害者援護法が一日も早く制定されるよう要望する。被害者問題は単に同情を求める問題ではない。再び広島、長崎の悲劇を繰り返さぬためには、原水爆を禁止するとともに被爆者の援護が最も重要である。これは人類の幸福を守る運動であり、当然の権利である」。参加者全員で広島駅までデモ行進
1963/2/18
ソ連のバイオリニスト、レオニード・コーガン氏が広島公演に訪れ、原爆病院で慰問演奏
1963/2/18
日本原水協の統一・再建問題で日本青年団協議会(大西末広会長)と全国地域婦人団体連絡協議会(山高しげり会長)が呼びかけ、新たな組織づくりをめざし青年婦人懇談会。社青同、総評青年・婦人対策部、新産別、全逓、日本婦人有権者同盟、主婦連、民社青連などが参加
1963/2/20
ジュネーブの18カ国軍縮会議で、ソ連のクズネツォフ軍縮代表が「NATOとワルシャワ両条約国間の不可侵条約草案」を提出
1963/2/21
日本原水協が常任委員会を開き、社会党系と共産党系の間で運動統一へ向け妥協が成立。3月1日の焼津集会は統一集会に。安井理事長が「原水爆禁止運動の統一と強化について」と題する声明を発表。声明「原水禁運動は原水爆の製造、貯蔵、実験、使用、拡散を禁止、あらゆる階層の人々が思想、信条、政党、政派の違いを超えて参加する国民運動である」。運動方針(1)いかなる国の核実験にも反対、核停協定即時無条件締結(2)米の核兵器持ち込みと日本の核武装中止、本土と沖縄の核基地撤去-など▽社会党、総評など13団体が「団結固め前進図る」と声明。一連の混乱の責任を取り3月1日のビキニ・デー集会後に安井郁理事長、黒田秀俊、佐野文一郎両常務以下の担当常任理事19人全員が辞職へ▽原水禁広島協議会は妥協を歓迎しながらも、役員総辞職、「いかなる問題」で不安を隠せず▽日本共産党は安井声明の「いかなる国の実験にも反対」や13団体の分派活動は誤り-とする内野竹千代統一戦線部長談話を発表
1963/2/21
民社党の春日一幸国対委員長が黒金泰美官房長官に「政府は今国会に原爆被爆者援護法案を提出せよ」と申し入れ
1963/2/21
米政府原子力委員会が、ネバダで2回の核実験を実施と発表
1963/2/21
茨城県東海村の日本原子力研究所・原子燃料再処理試験場で爆発事故。原研の爆発事故は初めて
1963/2/22
社会党が「原爆被爆者救援決議案」を国会提出。「広島、長崎の30万人余の被爆死亡者と30万人余の被爆者及び遺族に対する補償、救援の諸施策を確立することは急務である。政府はすみやかに被害者の医療の裏付けとなる生活保障などについて措置するべきである」
1963/2/22
ジュネーブ軍縮交渉で米側がソ連領に対する現地査察を年間8~10回を7回にしてもよいと妥協案。ソ連は2、3回を譲らず
1963/2/23
東ドイツ・ドレスデン市の平和会議R・エーベルハルト書記長から「ドレスデン市壊滅18周年記念日に当たり広島アピールを全市民が支持し、広島市民とともに全力を挙げ原子力戦争再発を防ぐ」の手紙が広島市に届く
1963/2/28
日本原水協が静岡市の県教育会館で全国常任理事会。「すべての国の核実験に反対」を3月1日のビキニ・デー宣言に入れるかどうかで社会党と共産党が再び対立。1日、午前2時過ぎに安井郁理事長が「これ以上責任を持てない」と担当常任理事総辞職を宣言、1日の焼津全国集会は流会に。安井理事長「刀折れ矢つきた感じだ。この記念すべき日を何とか統一して集会を開きたいと努力してきたが、基本的に理念が違うのだから統一体としての活動はできないと思って辞任した」
1963/2/--
仏・グルノーブル市の平和委員会から広島市に被爆写真を送ってほしいとの依頼。市は説明文をつけ30枚発送へ
1963/2/--
バーバラ・レイノルズさんらの「広島平和巡礼」報告書が完成。1962年3月から5カ月間、米、ヨーロッパ、ソ連などを訪れ、原水爆禁止を訴えたバーバラさんと被爆者の松原美代子さん、英宏昌君の記録。23ページ

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