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ヒストリー

ヒロシマの記録1963 5月


1963/5/2
外務省が国際資料部内に軍縮班設置。一方で、政府内に「わが国が展開してきた核実験抗議・反対の政治的効果は外交上ほとんど限界に達した」との認識が強まり、「唯一の被爆国の強調も西側の団結にひずみを与えているのではないか」の疑問も出る
1963/5/2
在日米軍が日本人記者16人をグアム島の原子力潜水艦体験試乗会に招待。乗組員は安全性を強調
1963/5/2
広島市似島の似島学園で原爆孤児や恵まれない子供と16年過ごしてきた指導員の小野亮さんが「全国民間児童福祉施設優良従業者のつどい」で厚生大臣表彰
1963/5/3
原水禁運動の統一を訴える「長崎-広島間原水爆禁止平和行脚」が長崎市の平和祈念像前をスタート。人類愛善会、日本宗教者平和協議会、日本被団協などが推進。安井郁氏も個人的に応援。全行程参加は米川清吉(人類愛善会)、田島瑞泰(日本山妙法寺)、松沢義秋(日印友好会)の3氏 1963/5/3
広島市広報室勤務の小倉馨氏が中国新聞に「ヒロシマは象徴的名称身近な平和都市は理想か」と題し寄稿。1962年にあった特徴的平和運動を紹介。▽ヒロシマ-アウシュビッツ行進「アジア特にインド、東欧諸国などに大きな足跡を残しマスコミの届かない田舎の人々にまで強烈な印象を残した」▽ヒロシマ平和巡礼「この平和的な被爆者の声がなぜモスクワ平和軍縮会議の席上で拒否されたか虚心に考えてみる必要がある」▽「爆弾なき世界」アクラ会議「民間の個人の会議として主催され日本代表として森滝市郎広島大教授が招待された。英のノーベル平和賞受賞のノエルベーカー氏を広島に招く機縁となった」▽シアトル世界博のヒロシマ原爆写真展「熱心な婦人グループの手で実施。写真展示の隣に子どもたちの遊戯場をつくり、子どもたちの未来を保証する責任を暗示した」
1963/5/6
核兵器禁止・平和建設国民会議(核禁会議=松下正寿議長)が「わが国の原水禁運動を発展させるためには、過去の行きがかりを捨てて団結するべきだ」と寒河江善秋事務局長談話を発表。統一の条件(1)運動の目的を核兵器禁止に限定(2)いかなる国の核武装にも反対(3)政党や政治勢力の干渉と支配を排除
1963/5/6
ジュネーブ軍縮会議がワシントン・ホワイトハウスとモスクワ・クレムリンを結ぶ直通通信線(ホットライン)設置の技術的検討に着手
1963/5/7
浜井広島市長に英、西ドイツから手紙。ロンドン百人委員会のバートランド・ラッセル委員長「被爆写真30枚を受け取った。平和のために今後もともに戦おう」。ウィリー・ブラント西ベルリン市長「アウシュビッツ平和行進団に託された広島アピールを受け取った。市内を2分する壁をなくすることに努力する」
1963/5/7
オドネル米太平洋空軍司令官が「水爆積載用に開発したF105戦闘機サンダーチーフを板付基地に配備する」と発表
1963/5/7
竹原市の佐々木ホテルで第2回「科学者京都会議」。提唱者の湯川秀樹京大基礎物理学研究所長、朝永振一郎日本学術会議会長、坂田昌一名大教授をはじめ、江口朴郎、久野収、佐久間澄、末川博、田中慎次郎、野上茂吉郎、三村剛Ze、三宅泰雄の11人と事務局長の豊田利幸氏が参加。「核戦争による人類の破滅を防ぐために科学者はどうあるべきか」がテーマ。同会議は提唱3者が継続委員会をつくり、他のメンバーは固定していない。「国連のあり方は再検討の時期にきている」「アジア科学者会議の可能性を考えたい」などの意見が出される
1963/5/8
社会党、総評、日青協、地婦連など13団体で構成する原水禁連絡会議が参議院別館で原水禁運動の統一について意見を交換。「原水禁運動前進のためすべての勢力の統一を呼びかける」ことを決める
1963/5/8
米政府原子力委員会が「今月中にネバダで2回の小型核実験を行う」と発表。ケネディ大統領が記者会見で「米英ソ3国の核実験停止問題はなんらの進展もない。私としては核停協定成立の希望を持っていない。協定ができなければ核実験再開となるだろう」と表明
1963/5/9
来日中のコース米海軍長官が記者会見。「原潜の日本寄港に対し日本国内の反対運動はそれほど大きな問題になっているとは思わない。日本政府に原子炉情報を提供することはできない」
1963/5/9
第2回科学者京都会議が会場を広島市の新広島ホテルに移し再開。憲法九条の意義を強調するとともに、国連憲章の再審議と中国の国連加盟支持、アジア諸国の科学者の協力体制を実現すべき-と声明。広島市公会堂で「平和を創造するための学術講演会」も
1963/5/9
F105戦闘機の板付配備で社会党が政府に拒否するよう申し入れ。河上丈太郎委員長名でライシャワー大使に直接、ケネディ大統領にあてた親書を手渡す。福岡県知事もローム板付基地司令官に配備撤回を申し入れ
1963/5/10
呉市民会館で第2回世界連邦日本大会。世界連邦日本協議会、広島県、呉市などが主催。世界連邦世界協会会長の湯川秀樹博士、同全国婦人協会会長の湯川スミさんら大会役員のほか、世界連邦都市宣言をした全国の府県、都市代表ら500人が出席
1963/5/11
ケネディ米大統領とピアソン・カナダ首相が共同コミュニケ。ピアソン首相が「カナダは北米防衛協力に関してこれまでの誓約を守る」と米管理の核兵器受け入れを示唆
1963/5/12
広島市立千田小講堂で、広島「憩いの家」開設6周年を記念して広島いこい大会。原爆被害者約1,000人が参加。憩いの家の利用者は開設以来4万2,000人
1963/5/13
福岡県安保共闘会議が板付基地へのF105配属反対闘争を決める
1963/5/14
外務省が5月15日から7月15日まで中部太平洋で行うソ連のロケット実験に対し「他国の海洋使用権の不当な侵害」と抗議
1963/5/15
ヒラリー・ウエルツ広島学院理事長に友人の米インディアナ州ウエストベイドン大のJ・フレック神父から「今年11月に中西部の大学教授が集まり原水禁大会を開くので広島の資料写真を」と手紙。広島市は1962年秋、シアトルの世界博に送った写真など60点を送る計画
1963/5/15
原水禁広島協議会が広島市の平和会館に県内地域原水協の代表者20人を集め、日本原水協の再建と世界大会の開催、原潜の日本寄港問題を論議。中国5県のブロック会議で打ち出した「あくまで日本原水協再建のために努力し、できない場合は世界大会に代わる大会を中国5県で責任を持って開く」を確認。原潜寄港では反対署名運動
1963/5/17
社会党、総評が神奈川県湯河原で全国国民運動委員長・地方代表者会議。日本原水協再建の話し合いを続ける一方で8月には原水禁大会開催を決定。「いかなる国の核実験にも反対」を強調
1963/5/19
「核実験は世界の人々に無差別に死の灰をもたらし、国連憲章や米憲法に違反」と世界25カ国の著名人255人が米政府を相手取って起こしている「原爆裁判」の控訴準備のため、米カリフォルニア州モンテリー市の核実験訴訟委員会、フランシス・ハイスラー氏が広島市を訪問。裁判は1962年6月28日にコロンビア特別区の連邦地裁に提訴、同年12月27日に棄却。訴訟委員会は5月26日に控訴を決定。原告には米のライナス・ポーリング、英のバートランド・ラッセル、スイスのカール・バルト氏らが参加し、日本からは浜井広島市長、茅誠司東大学長、松下正寿立教大総長、湯川秀樹京大教授夫妻ら9人が加わる。ハイスラー氏「たとえ大統領の国防上の行為であっても、これを批判し検討できる体制こそ真の民主主義」「控訴審がだめなら最高裁に持ち込み、それもだめなら国際司法裁判所に提訴する。その際は日本に国として提訴に参加してもらいたい」
1963/5/19
バンディ米大統領特別補佐官が「国際的な政治的効果を考慮して、先週行う予定だった3回の核実験をとりやめた」と発表
1963/5/19
全国地方原水協ブロック代表者会議が広島市の平和会館で開き「日本原水協の辞任した役員の復帰を求めて再統一し、8月には日本原水協が主催し第9回原水禁世界大会を開く」を満場一致で確認
1963/5/20
世界16カ国の代表60人と共に広島女学院大勤務の森木葉子さんがローマ法王ヨハネ二十三世に面会、原水爆禁止を訴える
1963/5/20
ソ連が米、英、仏と地中海沿岸諸国に地中海を非核地帯にしようとの覚書を伝達。米、英は「ソ連の宣伝」と拒否
1963/5/20
広島県安保破棄共闘会議が県庁前広場で「原潜寄港反対・安保破棄・日韓会談粉砕全国統一行動県中央集会」。田中信夫社会党広島市支部書記長、徳毛宜策共産党県委員長を議長団に選ぶ。呉市灰ケ峰のレーダー基地設置反対などを決定
1963/5/21
米誌「土曜文学評論」のノーマン・カズンズ氏が4月、フルシチョフ・ソ連首相と会談したことを明らかにし、その中で同首相が「核実験を近く再開することになろう」と述べたと伝える
1963/5/22
カナダ・オタワで開いたNATO理事会が、米英の提供するポラリス潜水艦、長距離爆撃機でNATO核部隊の創設を決定。仏も同意。カナダ、西ドイツ、オランダ、ベルギー、ギリシャ、トルコ、イタリアの7カ国も戦闘爆撃機隊を参加へ
1963/5/22
米政府原子力委員会が、「22日、ネバダで地下核実験を実施」と発表
1963/5/22
東京・砂防会館で劇団民芸が「泰山木の木の下で」を上演。小山祐士氏作(「原爆被災資料総目録・第2集」)
1963/5/23
デンマーク、ノルウェー、アイスランドが核兵器の自国持ち込み禁止と、NATOの同盟国間核戦力に参加しないと、NATO理事会に通告
1963/5/23
米原潜寄港問題で人文社会科学者、文化人42人が反対の声明。南博一橋大教授、日高六郎東大教授、遠山茂樹横浜市大教授が呼びかけ、大内兵衛元法大総長、谷川徹三法大総長、都留重人一橋大教授、務台理作慶応大教授、渡辺一夫立教大教授、丸岡秀子さんらが参加
1963/5/24
臨時広島市会で米原潜寄港反対決議案が保守派の反対で提案できず
1963/5/24
日本原水協統一のため、参院会館で広島、長崎などの地方ブロック原水協代表と総評、婦人、宗教団体代表との間で懇談会。安井郁氏ら日本原水協の前役員、原水禁広島協議会の森滝市郎、佐久間澄氏らも参加
1963/5/24
日本原水協が第9回原水禁世界大会開催に向けて3カ月ぶりに行動再開。地方ブロック代表者会議の要請を受け、地方代表、辞任した安井郁前理事長ら常任理事、中央諸団体代表らが話し合い。(1)第9回世界大会開催を決意する(2)安井理事長は新理事長が選出されるまで職務を行う(3)6月3日「長崎-広島平和行進」の広島到着の際、中央団体は行進に参加する-など申し合わせ
1963/5/25
広島原爆病院に入院中の広島市三川町、清水好子さんが原爆症で死去。41歳。3年前の入院時から患者の先頭に立って原爆禁止と平和を訴える。長崎-広島平和行進団が遺影を掲げる
1963/5/26
米の核実験訴訟委員会が、核実験即時停止を求めて米政府を相手取りコロンビア特別区の連邦高等裁判所に控訴。主任弁護士のフランシス・ハイスラー氏が浜井広島市長に手紙で伝える
1963/5/27
シュバイツァー博士、バートランド・ラッセル卿、ネール・インド首相、ノーマン・カズンズ氏、浜井広島市長ら世界各国の著名平和運動家約30人が核兵器禁止と世界平和の実現を訴えて共同執筆したエッセー集「生命の問題」(AMATTERLIFE)がロンドンで出版され、浜井市長のもとへ届く
1963/5/27
米上院民主党のトーマス・ドット、ヒューバート・ハンフリー氏ら30人が「一切の大気圏内、水中核実験を停止する協定をソ連と結ぶべき」と政府に要請する決議案を上院に提出
1963/5/27
広島「憩いの家」が、近くに建設予定の道路の路線変更を県へ要望へ。「広島憩いの家を守る」実行委員会が県内の被爆者から約1万人の署名集める
1963/5/28
池田首相の出身地の竹原市議会が米原潜の日本寄港反対の決議を採択
1963/5/28
タス通信が「ソ連は中部太平洋で宇宙研究用の改良型運搬ロケットの発射実験に成功した」と伝える。射程1万2,000キロ以上
1963/5/31
日本原水協の統一再建をめぐって社共両党の話し合いつく。半年ぶりに統一へ。「いかなる国の核実験にも反対」を共産党が事実上認める
1963/5/31
原水禁連絡会議(社会党・総評系)と核禁会議が原水禁運動再建で話し合い。連絡会議側から井岡大治社会党国民運動委員長、安恒良一総評政治局長、佐野文一郎原水協常任理事、古屋脩則日青協会長、辻本八重地婦連副会長、核禁会議側から寒河江善秋事務局長、紀平行雄専務理事らが出席。幅広い大同団結をめざすことを確認
1963/5/31
ケネディ米大統領とマクミラン英首相がそれぞれフルシチョフ・ソ連首相に書簡を送り、核実験禁止の実現に向かって改めて努力するよう訴え
1963/5/31
米原潜スレッシャーの調査隊が同艦の写真撮影。約2,550メートルの海底に船体が裂けた状態
1963/5/--
原子力委員会(近藤鶴代委員長)が米原潜寄港で見解まとめる。(1)寄港はやむを得ない(2)原子力委が米側に要求した原子力潜水艦の安全に関する科学的資料の提供は拒否されたので安全性は確認できない(3)原潜の事故については国内法である「原子炉災害補償法」に準ずることとし、無過失責任方式を米から取り付ける
1963/5/--
東京電力が同社の第1号原子力発電所用地に福島県双葉郡双葉、大熊両町にまたがる海岸230万平方メートルを内定。9電力会社の中で関西電力の福井県三方郡美浜町に次ぐ
1963/5/--
広島大の中野清一教授が平和問題について世界各国・各層からアンケートを取り、あゆみグループの被爆青少年の声とあわせて「広島の声、反響と平和問題」として出版へ
1963/5/--
米ネバダ核実験場の高さ460メートルの鉄塔先端に裸の原子炉。実験名はBREN(ベア・リアクター・エクスペリメント・ネバダ)。広島とほぼ同じ高度で広島原爆の威力を測定
1963/5/--
米の著名な科学者や芸術家103人がケネディ大統領に書簡を送り、核実験停止問題に関する米政府の立場を明らかにするよう要請。ジェームズ・フランク博士らノーベル賞受賞科学者12人、アイザック・スターン氏らの音楽家や作家、俳優などが同調

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