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ヒストリー

ヒロシマの記録1963 8月


1963/8/1
「8月2~3日の国際会議は日程的に無理」。原水禁世界大会出席のため広島市を訪れた安井郁日本原水協理事長代行が語る
1963/8/1
社会党、総評、社青同が広島市小町の電産会館に原水禁対策合同本部。計80人
1963/8/1
北京で広島の第9回原水禁世界大会と日本人民の反米愛国闘争を支持する1万人集会。周恩来首相、陳毅、羅瑞卿両副首相ら出席
1963/8/1
浜井広島市長が記者会見で「大会がもめるようであれば、広島で開いてほしくない」と言明
1963/8/1
ソ連共産党機関紙プラウダが「広島は平和のためのたたかいを呼びかけている」と題する論文掲載。「広島、長崎への原爆投下が終戦を促進するため行われたかのようにいう米の反動的な試みはデマであり虚偽である。原爆投下の最大の目的は日本を降伏させるのにあったのではない。降伏は既にソ連の参戦で決まっていた。それは原子爆弾の脅威によって平和勢力をおどし、米独占家たちの世界支配を確立することをねらったのである」
1963/8/1
米ポートランド市の「平和のための国際的婦人ストライキ運動」から核禁広島県民会議に白バラの造花1,000本が届く。同会議が贈った3,000羽の折りづるのお返し。原水禁世界大会に参加する同委員会のキャロル・アーナー夫人が門秀一議長に手渡す
1963/8/2
原水禁世界大会国際会議開けず。広島平和記念館で外国代表約20人に安井郁理事長代行が事情説明
1963/8/2
日本原水協が広島市内の旅館で25人が出席して担当常任理事会。「社共両党、総評の3者が日本原水協の委任で続けたねばり強い統一への努力に敬意を表する」とし、時間が切迫しているため「大会準備のためのあらゆる重要問題を、協議会として自主的に決定する」ことを決める
1963/8/2
部分核停条約に日本も加盟の方針。閣議が了承
1963/8/3
広島「憩いの家」の会員たちが市内の原爆慰霊碑を巡拝。6日まで
1963/8/3
安井郁日本原水協理事長代行が最後の収拾案として「安井提案」を示す。社会党は成田知巳書記長判断で無条件で受け入れ「共産党が受け入れない場合は原水禁広島協議会の主催で大会開催」を提案。共産党は態度保留。<安井提案>いかなる国のいかなる核兵器にも反対し、核兵器の完全禁止をはかる。米英ソ3国部分核停条約は最初の成果として正しく評価する
1963/8/3
原水禁世界大会への外国代表世話人、セイロンのグナワルナー女史ら6人が安井郁理事長代行らに「一刻も早く統一した世界大会を開いてほしい」と要望
1963/8/3
広島原爆資料集成保存会(横田工会長)が市内の慰霊碑の写真や碑文50点を広島市に寄贈
1963/8/3
広島市職員労組(門田高亨委員長)が日本原水協、総評、共産党、社会党に「広島市民の原爆に対する感情を尊重し、各派、各層の主張を超えてすみやかに事態を収拾して大会を開いてほしい」と要望
1963/8/3
原爆詩人、故峠三吉氏の半生を描いた戯曲「河」を広島市公会堂で初演。劇団月曜会主宰の土屋清氏作、大月洋氏演出。国鉄、電通、東洋工業、三菱広船など各演劇サークルの初めての合同公演
1963/8/3
広島市内の大学教授13人でつくる「広島平和と学問を守る大学人の会」(佐久間澄代表理事)が「第9回原水禁世界大会は統一と団結のもとに成功裏に開催されることを強く希望する」との声明を発表
1963/8/3
ラスク米国務長官、英ヒューム外相が部分核停条約調印式に出席するためモスクワに到着。ラスク長官「現在の世界は危険なものだが、核停条約はこの危険を減らすのに役立つだろう。この条約を人類史上の曲がり角とする希望と決意をもってモスクワへやってきた」
1963/8/3
ソ連政府が中国政府の7月31日の声明を非難し「中国は国際共産主義運動を無力化しようとしている。中国は熱核戦争を支持する立場をとっており、部分核停条約の調印を拒否していることを隠す口実を探している」
1963/8/4
中国新聞が「ヒロシマは泣いている」との見出しで「雲の上の平和運動」に怒りの声を特集
1963/8/4
広島県地域婦人団体連絡協議会(津恵君江会長)が原水禁世界大会への不参加を決める。「大会は激しい内部対立のため今日なお開催見通しがたたず全国民の不信を買った。運動は原爆の恐怖を体験した人たちの声を基礎にした国民の叫びであり、政党色があってはならない」
1963/8/4
日本原水協が大会の準備・運営を原水禁広島協議会に白紙委任すると決定。広島協議会も受け入れ。<日本原水協>(1)大会は主催するが、これまで担当常任理事会(大会準備委員会)が行ってきた仕事を原水禁広島協議会に白紙委任する(2)日本協議会は広島協議会に協力する(3)大会の円滑な運営のために社、共、総評の3者に協力を要請する。採決の結果、賛成49、反対7、保留11、棄権3で広島委任を決める。<原水禁広島協議会>引き受け賛成13、反対2、保留2で受け入れを決定▽共産党の松島治重幹部会員は「広島委任は主客転倒であり絶対に認められない」と非難。外国代表もソ連系と中国系に分裂
1963/8/4
原水爆禁止・被爆者救援国民大行進の4コースが平和記念公園に到着。原爆慰霊碑前で日本原水協、原水禁広島協議会主催の歓迎集会。焼津、鹿児島、鳥取、高知を起点とし延べ2万400キロ、参加者1,200万人
1963/8/4
英スコットランド近くのエドゼル米軍基地で核兵器反対のデモ。約200人が参加し、基地の前に日本の桜の苗木を植える
1963/8/5
広島「憩いの家」主催の第2回文芸家・画家色紙展示即売会が福屋デパートで始まる
1963/8/5
全学連・マル学同解放派の約180人が広島市の原爆慰霊碑前を夕方から占拠。「破産した原水協を乗り越え、核実験反対闘争を進めよう」と、原水禁世界大会参加者とこぜりあい。警官隊が要請を受け出動、無届けデモの学生6人が逮捕
1963/8/5
第9回原水禁世界大会が約2時間遅れ、午後8時前から2万人が参加して広島市の平和記念公園原爆慰霊碑前で始まる。社会党、総評側が(1)日程が社会党、総評が腹案とした「1日大会」ではない(2)1万300人の定員を大幅に超える代議員は混乱を招く(3)分散会は社共対立の場となる-として自派系代議員の待機を指示したため、大会は社会、総評系抜きで開催。社会党、総評系は6日も独自集会を決めたため原水禁運動の分裂が確定的に。大会は伊藤満原水禁広島協議会事務局長が開会宣言、議長に平野義太郎日本平和委員会議長らを選出した後、安井郁日本原水協理事長代行があいさつ、森滝市郎広島協議会理事長が基調報告。<基調報告>(1)被爆者の完全な救援法をかち取るための国民的、国際的運動を展開しよう(2)どこの国のどんな核実験、核武装にも反対。同時に核武装を進める国の政治的、軍事的背景や目的について真実を究明し核戦争の根元を見きわめる理性的な目を開こう。部分核停条約は一つの成果として評価し、全面軍縮へ向かって運動を進めよう(3)人類は生き残らねばならない。その至上命題のもとでは、全人類があらゆる立場の相違を超えて統一し、団結して戦うことができる。日本の原水禁運動で今日ほど統一と団結を必要とするときはない
1963/8/5
原水禁広島協議会が分裂。浜本万三氏ら社会党系の代表委員が伊藤満事務局長、佐久間澄代表委員に「このような事態では役員として責任をもてない」と辞表
1963/8/5
総評が声明。「共産党は割り当てた代表数を無視し、全国的な動員態勢で自らの主張を押し切ろうとした。このような状態では大会の混乱は必至であり、予期される事態を承知しながら大会に参加することは国民に対し責任を持つ態度ではないと判断し、大会不参加を決定した」「日本原水協の総評と社会党系の担当常任理事は全員辞任する。分担金をすみやかに返還してほしい」
1963/8/5
広島市小町の見真講堂で約2,000人が参加し第3回核禁国民大会。日本青年団協議会の代表が「政争に明け暮れる日本原水協とはたもとをわかった。これからは核禁会議と運動をしたい」
1963/8/5
平和記念公園の戦災供養塔前で浄土真宗本願寺派が原爆犠牲者のめい福を祈る逮夜法要
1963/8/5
米英ソ3国外相がモスクワで大気圏内外および水中の部分核停条約に調印。ウ・タント国連事務総長が立ち会い、ラスク米国務長官、ヒューム英外相、グロムイコ・ソ連外相
1963/8/6
中国新聞が「きょう一日、ぜったいに混乱を避けよ」と社説。「どの政党も団体も、良識を持って行動せよ。いかなる平和運動も原水爆禁止運動も、20数万の原爆犠牲者の悲願を無視して広島の地で行うことは許されない。広島の涙で今朝の顔を洗え。敬けんに霊前にぬかずけ」
1963/8/6
広島戦災供養会(佐々木亮会長)が戦災供養塔前で合同慰霊祭
1963/8/6
被爆18周年。平和記念公園で広島市主催の原爆死没者慰霊式・平和記念式。約3万人が参加。浜井市長が1962年8月6日からこの日までに原爆症などのため亡くなった29人と新たにわかった原爆死没者127人の名を書き加え計6万805人となった原爆死没者名簿を奉納。代表が花輪をささげ浜井市長が平和宣言、遺族代表の岩田守雄さんと大可千穂子さんが平和の鐘を打ちならす中、全員で黙とう。参列者全員で「ひろしま平和の歌」を合唱
1963/8/6
浜井広島市長が平和宣言。「原爆の惨禍の中からかろうじて生き残った私たちは、この18年間、その恐ろしい傷跡を見つめながら、広島の悲劇を再び繰り返さないよう全世界の人たちに訴え続けてきた。その間、わたくしたちは常に人間の善意と英知を信じ続けてきたが、今日ようやく米英ソ3国による部分的核実験停止条約の締結を見たことはまことに喜びにたえない。今こそすべての民族、すべての国家が核兵器の全面的廃棄と戦争の完全放棄をめざして、一層の努力を傾注することを願ってやまない」
1963/8/6
故峠三吉氏の「原爆詩集」をテーマに大木正夫氏が作曲したグランド・カンタータ「人間をかえせ」の第2部が東京・上野の文化会館で初演。演奏は東京交響楽団と東京労音合唱団、厚生年金会館児童合唱団など
1963/8/6
広島市の平和記念公園に故峠三吉氏の記念碑が完成。広島県文化会議と峠三吉碑建設委員会が協力し建立。三吉氏夫人の和子さんら約40人が参列し除幕式。高さ70センチ、幅110センチ、厚さ50センチの黒御影石
1963/8/6
各地で慰霊祭。広島県職員原爆被爆者更生会=県庁講堂で第2回県職員原爆犠牲者慰霊祭▽中国地方建設局=原爆ドーム横の同局原爆殉職者慰霊碑前▽広島市水道局=同局構内の水道部員殉職者慰霊碑前
1963/8/6
原水禁広島協議会が社会党、総評系の役員が辞任したため大会運営不可能に。このため、世界大会関係のあらゆる集会の運営を日本原水協に返す
1963/8/6
広島市の平和記念館で原水禁世界大会国際会議開く。部分核停条約の評価をめぐり中ソ代表が応酬
1963/8/6
広島市二葉の里、国鉄中国支社グラウンドで社会党、総評の約7,000人が参加し「原水禁運動を守る国民大会」
1963/8/6
日本放射線影響学会が原潜寄港に伴う放射能監視法について討論集会。三宅泰雄東京教育大教授、桧山義夫東大教授、田島英三立教大教授ら40人が参加
1963/8/7
第9回原水禁世界大会が広島県立体育館で閉会総会。「統一行動強化に関する決議」「被爆者救援強化に関する決議」「国際共同行動のためのアピール」を採択。基調報告の「どこの国のどんな核実験、核武装にも反対…」が姿を消す。森滝市郎氏「原爆慰霊碑前で読み上げた基調報告の精神が、ホゴにされたことは断腸の思い」▽中国代表が日本被団協へ780万円贈る▽社会党、総評は広島市の県労働会館で合同全国代表者会議。「第9回世界大会は無効であり、日本原水協の体質改善は不可能」などを確認
1963/8/7
全学連4派(構造改革派、社学同、社青同、マル学同中核派)が部分核停条約支持、フランスの核実験阻止を骨子とした「ヒロシマ学生統一アピール」を発表
1963/8/7
日本原水協主催の「科学者懇談会」が広島大理学部で開く。今堀誠二、杉原芳夫、田沼肇、小川修三氏ら約40人が参加
1963/8/7
広島-アウシュビッツ平和行進団の佐藤行通団長が、アウシュビッツ国際委員会から託されたユダヤ人の遺骨、遺品を浜井広島市長に手渡す。遺骨引き渡しにはポーランド大使代理のアンジャージ・イエディナック2等書記官が立ち会う。市は当面、保管場所がないため広島宗教者平和協議会(桑原英昭会長)に委託し、同協議会が保管
1963/8/8
米英ソの3首都で部分核停条約に参加を申し入れてきたオーストラリア、メキシコ、カナダ、インド、ニュージーランド、ルーマニア、ポーランドなど34カ国が調印式
1963/8/9
長崎国際文化会館で長崎市主催の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。田川務市長平和宣言「人類の英知と勇気と決断が平和社会建設のためにだけ使われることを強く世界に訴える」
1963/8/12
日本学術会議が「原子力潜水艦の日本寄港の安全性に関する参考資料」を池田首相あてに提出。(1)原潜が人口の多い港に寄港する際の危険性については米側も否定しているとは言えない(2)米側が決めた安全性の基準はおもに軍事上の必要に基づいており、そのまま日本にあてはめるには慎重を要する(3)港湾内で海〓、貝類の養殖を行うなど日本独特の事情がある
1963/8/12
核禁会議が東京で原爆被爆者救援の街頭募金スタート。新橋駅前で松下正寿議長、民社党の伊藤卯四郎代議士らに日本婦人教室の会が協力。15日まで
1963/8/12
米政府原子力委員会がネバダで部分核停条約締結後、初の地下核実験
1963/8/12
西ドイツが部分核停条約調印を決定
1963/8/13
社会党が中央執行委員会。「世界大会をボイコットした方針に誤りはなく、日本原水協は全身不随の状態になっている」とし、原水禁運動について共産党との折衝をいっさいやめることを決める
1963/8/13
仏政府が「サハラ核実験場でこれ以上、大気圏内核実験はしない」と言明
1963/8/14
ワシントン、モスクワ、ロンドンで日本が部分的核実験停止条約に調印
1963/8/15
中国政府が「ソ連の指導者が米帝国主義と結託して中国の手足を縛ろうとしたのは今度が初めてではない」とソ連非難の声明。「ソ連は1959年6月20日、核実験停止条約が影も形もないころ、両国が57年10月15日に結んだ国防用新技術に関する協定を破り、中国に原子爆弾の見本、原子爆弾製造用の技術資料提供を拒否した」
1963/8/15
米がネバダで地下核実験。部分核停条約締結から2回目
1963/8/16
ソ連共産党機関紙プラウダが「ソ連が中国の原爆開発援助を停止したのはソ連の水爆が社会主義諸国を守り、中国に原爆は必要ないからだ」と論評
1963/8/17
「日本原子力船開発事業団」(石川一郎理事長)が発足。7カ年計画で世界4番目の原子力船の完成をめざし秋から基本設計へ。6,350トンの海洋観測船
1963/8/17
広島県原爆被爆者援護対策協議会、広島市原爆被爆者協議会など被爆、宗教、婦人関係の11団体が広島県庁で、混乱した原水禁世界大会を批判。「日本原水協が広島という場所を利用して政治的に偏向した会合を開き、広島市民の静かな祈りを妨げたことは絶対に許せない。来年からは広島で開かないでほしい」と日本原水協、原水禁広島協議会へ申し入れへ。永野厳雄広島県知事、浜井広島市長には「8月6日を中心とした5日間、平和団体への公共施設貸与は慎重に」の要望書を提出へ
1963/8/20
ユーゴスラビアの彫刻家コワチ・アレクサンデルさんから浜井広島市長に「平和を願う広島の像」と題したブロンズ製彫刻届く。高さ35センチ、幅15センチ
1963/8/20
米の水爆の父、テラー博士が上院外交委員会の聴聞会で部分核停条約の批准に反対の証言
1963/8/22
核禁広島県民会議が組織強化のため6専門委員会の設置決定。組織(委員長、門秀一議長)、財政(同、山家治郎護国神社神主)、国際(同、谷本清流川教会牧師)、事業(同、土岡喜代一広島市議)、被爆者救護対策(同、香川直祐広島県同盟会議議長)、報道(大内義直広島市被爆協副会長)
1963/8/22
日本原子力研究所が日本初の発電用試験炉の臨界実験に成功
1963/8/24
アジアで初めての世界連邦会議世界大会が東京・上野の東京文化会館で始まる。27日まで。世界連邦世界協会(湯川秀樹会長)の主催。アトリー元英首相、パール元極東国際軍事裁判判事らがあいさつ。ウ・タント国連事務総長、パウロ六世、マクミラン英首相らから祝辞
1963/8/25
日本被団協が衆院第1議員会館で総会。理事長に森滝市郎氏を再任。「いかなる国の原水爆にも反対、その完全禁止と被爆者援護法の成立をはかる」で一致
1963/8/27
東京の世界連邦会議世界大会が終わる。「人類は世界法か世界戦争かの二者択一を迫られている。手を携えて戦争なき一つの世界を打ち立てなければならない」「国連を改組し世界連邦に。志願兵による恒久国連平和軍の創設」などの東京宣言を採択
1963/8/28
日本婦人有権者同盟広島支部(美藤志津子会長)が、浜井広島市長と堀江守市議会議長に「原潜寄港反対を決議し、内外に宣言してほしい」と要望
1963/8/29
世界連邦世界協会が会場を京都に移し総会。東京会議に参加のメンバーの大半が参加。30日も。中国新聞社説が「拡大する世界連邦運動」
1963/8/29
社会党が大阪市で全国国民運動委員長会議。独自の原水禁運動を進めるため中央に「原水禁運動を守る連絡会議」(原水連)の結成を決める
1963/8/30
世界連邦会議世界大会に参加した同連邦世界協会理事長のスタンレー氏ら米代表24人が広島市を訪問。浜井広島市長に世界連邦旗を贈る
1963/8/31
日本原水協の安井郁理事長代行が社会党の「原水禁運動を守る連絡会議」について「社会党の決定は、原水禁運動の政党系列化を促進させる」と声明
1963/8/31
広島県労会議(浜本万三議長)が労働会館で定期大会。原水禁世界大会について(1)共産党を中心とする独善集会だから開会と認めない(2)8月7日の森滝声明を支持し原水禁広島協議会のもとで運動を再出発する(3)原水禁運動での共産党との共闘は再検討する-を承認
1963/8/31
ジュネーブで開かれた赤十字社連盟理事会が「赤十字は100年祭を機会に、人道上の立場から全面的な核実験停止を訴え、協定成立を各国政府に求める」との日本赤十字の全面核停要望決議を無修正で採択
1963/8/31
東京で日本青年団協議会と全国地域婦人団体連絡協議会が原水禁運動の立て直しをめざす青年、婦人の懇談会開く

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