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ヒストリー

ヒロシマの記録1963 12月


1963/12/1
日本原子力発電会社の動力試験炉が最大電気出力1万2,500キロワットのフルパワー運転に成功
1963/12/3
核禁会議全国幹部会が原爆慰霊碑の前に、永遠の平和を象徴して昼夜ともり続ける「平和の灯」の建設決める。工費700万円、設計丹下健三東大助教授
1963/12/4
11月14日、ライナス・ポーリング博士らの招きで渡米していた安井郁日本原水協理事長代行が帰国。米からポーランドに行きワルシャワで開かれていた世界平和評議会に議長として参加
1963/12/4
米がネバダで地下核実験。米政府原子力委員会が発表
1963/12/4
世界連邦建設同盟広島県協議会の招きで広島市を訪れているジュネーブ大学のマックス・ハビット教授が、広島「憩いの家」で被爆者約50人と懇談
1963/12/7
広島、長崎の原爆被害者5人が国を相手取って訴えていた「原爆訴訟」で、東京地裁の古関敏正裁判長が8年ぶりに判決。「原子爆弾の投下は無防備都市に対する無差別爆撃で国際法上違法である。しかし、損害賠償請求権は国際法上も国内法上も個人にない」。判決は被爆者の救済にも触れ「原爆犠牲者には深く同情する。できれば戦争による災害を少なくし十分な救援策を講じたい。しかし、これは当裁判所の職責ではない」▽鑑定は高野雄一東大教授、安井郁法政大教授、田畑茂二郎京大教授が当たる。3教授は「原爆投下は国際法に違反している」で一致したが、米の損害賠償責任、被爆者の賠償請求権、平和条約の請求権放棄などについては安井教授が「原爆投下は違法な戦争行為だから米に賠償責任がある。国は個人の財産権を放棄できないから被爆者に請求権がある」。高野教授「米が責任を負うべきであるが、国際法上の主体は個人でなく国家であるため、賠償請求権は日本国家で国民にはない。したがって被爆者に請求権はない」。田畑教授「戦争行為からの損害賠償について国は免責される。請求権はもともとないのだから放棄のしようがない」▽訴訟は1955年4月25日、27日に広島市の下田隆一さん、宝塚市の岩淵文治さんら5人が東京地裁と大阪地裁に起こした。訴訟弁護人は大阪弁護士会の岡本尚一氏。8年の間に岡本弁護士、岩淵文治さんは死亡、訴訟は三原市出身の松井康浩弁護士が引き継いだ
1963/12/7
原爆資料集成保存会(横田工会長)が広島市に原爆資料館運営審議会の設立を呼びかけへ
1963/12/9
来日中のジョン・バーンズ・ハワイ州知事夫妻が広島市を訪問
1963/12/9
日本原子力研究所動力試験炉の100時間連続運転が終わり、G・E社から原研に引き渡し
1963/12/10
作家の大田洋子さん死去。60歳。広島市西地方町生まれ。作品は「屍の町」「人間襤褸」「半人間」。晩年は被爆体験の記憶から逃れたいと老母をモデルにした私小説に傾いた。福島県猪苗代湖中ノ沢温泉で取材中に急死。1978年、建立委員会による募金で広島市の中央公園西詰めに大田洋子文学碑
1963/12/12
日本被団協などを中心に東京・参院議員会館で原爆被害者援護法制定国会請願大会。全国から150人が集まり、援護法制定と現行原爆医療法の改正を陳情。<援護法>生活困窮被爆者に特別生活援護手当の支給。原爆障害者への障害年金支給。遺族に年金、弔慰金。被爆者老人ホームを建設<医療法改正>特別被爆者の取り扱いを全被爆者に拡大。原爆症療養に温泉治療を認める-など
1963/12/21
故佐々木禎子さんをテーマにした演劇「サダコは生きる」の上演をみたオランダの子供たちが、広島「折鶴の会」にグラジオラスの球根6,000個とバラの苗木800本をプレゼント、と外務省から連絡
1963/12/23
中国新聞紙上で「世界連邦への道」と題しスイス・ジュネーブ大学のマックス・ハビット教授、湯川スミ世界連邦日本協議会会長らが座談会
1963/12/26
「原爆訴訟」の原告広島市の下田隆一さんら4人が控訴を断念。判決は27日確定
1963/12/26
核禁会議が広島市の平和記念館で第4回原爆被爆者救援金贈呈式。松下正寿議長から全日本被爆者協議会の土岡喜代一副会長に救援金467万円。松下議長が欧米、ソ連など17カ国訪問の宗教者平和使節団の成果を報告
1963/12/29
1963年の原爆資料館入館者は前年比20万人増の79万7,000人。うち20%が外国人観光客
1963/12/31
フルシチョフ・ソ連首相が世界各国政府に親書を送り、領土紛争、国際紛争解決のための武力行使を禁止する国際協定締結を提案
1963/12/--
広島「憩いの家」の創設者、アイラ・モリス夫妻が「ヒロシマ・ハウス基金」15万ドル(5,400万円)の募金を始める。夫妻は毎年6,000ドル近い私財を投じてきたが、個人の力では限界があると募金運動に

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