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ヒストリー

ヒロシマの記録1962 1月


1962/1/1
東西両陣営の軍備拡大時代を受け、中国新聞が「米ソ競争的共存の背景」と題して、米ソの軍備状況や核実験の爆発量などを特集
1962/1/2
ソ連政府が国連軍縮委員会に核実験停止に関する声明を送付。「ソ連は大気圏内、水中、大気圏外における核兵器実験禁止協定を遅滞なく締結するよう提案する」。3日タス通信が発表
1962/1/2
米ソ両国が18カ国軍縮会議を3月14日からジュネーブで開催に合意。1960年6月にソ連のボイコットで流れた10カ国軍縮会議を、参加国を増やして再開する
1962/1/5
広島「憩いの家」(広島市宇品町)で原爆孤老ら20人を招き「雑煮を食べる会」。5回目
1962/1/6
世界平和評議会総会(ストックホルム)の後、ソ連、中国を訪問した日本原水協の安井郁理事長が香港で語る。「フルシチョフ首相と毛沢東主席には、写真家の土門拳氏が昨年写した広島、長崎の被爆者の写真集を贈呈した。毛主席は原水爆禁止の目的を達成するには、戦争の根源を断つ必要があると強調した」
1962/1/8
米政府原子力委員会が「大気圏内核実験再開に備えて太平洋上のジョンストン島空軍基地を再建」と発表
1962/1/8
全労広島地方会議が執行委員会で、「核兵器禁止・平和建設広島県民会議(核禁広島県民会議)」の結成大会を21日に広島市内で開くことを決定
1962/1/11
ロンドン外交筋が「米英両国は核実験停止交渉に新局面を開くため、ソ連に対する妥協案を考慮している。この案は核実験停止会議と軍縮交渉とを部分的に合流させるものだ」と伝える
1962/1/13
ソ連の紙・木材労組委員長のI・A・ノビコフ氏ら3人が広島市を訪問。原爆慰霊碑に参拝、広島原爆病院を慰問
1962/1/13
西ドイツのミュンヘン市郊外に住むハンス氏から浜井広島市長に手紙と500マルク(約4万5,000円)の小切手。「核兵器で戦争を始めようとしている者みんなに見せたいから、被爆当時の写真を送ってほしい」。広島市が1961年送った平和宣言の返書
1962/1/15
婦人の力で核実験永久禁止、全面軍縮運動を進めるため、東京・日本青年館で婦人25人が第1回懇談会。米で始まった「平和のための国際的婦人ストライキ運動」(WISP)からの要請で安井田鶴子さん(日本原水協の安井郁理事長夫人)が呼び掛け
1962/1/16
休会中だったジュネーブの米英ソ3国核実験停止会議が再開。米英両国が「停止会議を休会にして問題を18カ国軍縮委員会(3月開会予定)にゆだねる」とのソ連の考えに正式同意
1962/1/18
ラスク米国務長官が核実験再開問題で言明。「実験場に英のクリスマス島が使用できるかどうか未定」
1962/1/19
広島県高田郡吉田町の厚生連吉田病院に入院中の同郡向原町、農業山崎休次郎氏が貧血で死去。55歳。1945年8月8日、妹を捜して広島市に入る。同病院の被爆患者では初の死亡者
1962/1/20
核禁広島県民会議の結成を前に、広島県被団協が日本原水協の原水禁運動基本原則を支持し、同県民会議の結成を遺憾とする声明を発表。「国民運動が分裂して力を弱めることを深く憂う。特に最初の被爆地、広島で分裂が起こることは原爆の惨禍を身をもって体験したわれわれにとって容認しがたい。被爆者は国民運動の統一に向かって積極的に努力」
1962/1/21
核禁会議の松下正寿議長が同広島県民会議結成大会のため広島市入りし、平和記念館で語る。「私たちの平和運動は素朴に核実験、核兵器製造の禁止をしようというもので、イデオロギーは第2の問題だ。原水協は昨年の米ソの核実験再開に際し、米ないし自由主義陣営を敵視する態度を取った。われわれ核禁会議は共同行動を取れない。被爆者救援に関しては原水協と協調していく用意はある」
1962/1/21
日本被団協が広島市の平和会館での全国理事会で、2月下旬に「原爆被害者援護法獲得国会請願」をすることを決定
1962/1/21
ハンフリー米民主党上院議員がテレビ会見で「中国は今年中に核装置を爆発させるだろう」と述べる
1962/1/21
核兵器禁止・平和建設広島県民会議(核禁広島県民会議)の結成大会が広島市の平和記念館で開かれ、議長に門秀一広島大教養部教授を選出。同国民会議(1961年11月15日発足)に呼応し、日本原水協に批判的な約300人が参加。結成準備会を代表し広島流川教会の谷本清牧師が「偏向した原水爆禁止運動を是正し、真の平和を築くための運動を展開しよう」とあいさつ。(1)核禁署名運動の積極的展開(2)被爆者救援運動の促進(3)核禁地方会議の市町村別結成の推進-の活動方針を決定。結成宣言「すべての立場をこえて純粋な人類愛、人道主義に立ち核兵器を禁止し、自由と平和社会の建設を念願して、この達成にまい進する。また、この運動によって広島を平和のメッカとし、人類の繁栄実現に貢献することを誓う」
1962/1/22
ヨットで米ソの核実験に抗議航海してきた米人類学者アール・レイノルズ博士(広島女学院大客員教授)が、広島の被爆者2人を米とヨーロッパに派遣し、国連やジュネーブ軍縮会議で原水爆禁止を訴える「ヒロシマ平和巡礼計画」を発表。被爆者代表2人を募集へ
1962/1/23
広島県衛生部や広島大医学部、広島地方気象台など関係6機関が「広島県放射性降下物対策連絡協議会」を結成。核実験による死の灰対策として、連絡、情報交換、大気汚染や人畜への影響調査実施へ
1962/1/25
原水禁広島協議会が参加団体の代表者会議を開き、日本原水協から検討要請のあった「原水禁運動の基本原則」について協議。一部修正し賛成を決定
1962/1/25
イタリア・ミラノ市のフェルトリネリ出版社から、ヨーロッパで原爆資料展示会を開くため協力依頼を受けた広島市が「具体的な実施方法を検討」と同社に連絡。ウィーン在住の作家ロベルト・ユンク氏が助言
1962/1/26
ジュネーブ核実験停止会議でツァラプキン・ソ連代表が、「核実験停止問題を3月14日から18カ国軍縮委員会で討議し、同会議は休会」との西側提案を拒否
1962/1/28
日本友愛会広島支部が、同会の了解なく核禁広島県民会議の参加団体になっているとして取り消し要求を決定。「平和運動の分裂という好ましくない事態を容認することになる」。他に本人の了解なく理事に選ばれた人も7人
1962/1/29
広島市が平和記念館の使用料を4月から20%引き上げ。管理費増大による赤字が理由
1962/1/29
ジュネーブの米英ソ3国核実験停止会議が無期休会に入る。核兵器の国際管理をめぐる米英とソ連の意見対立で事実上の決裂
1962/1/29
広島市の平和記念公園の鳩舎からハト約100羽が盗まれる。広島西署(現広島中央署)が捜査。1959年11月末に次いで2度目
1962/1/30
原爆資料館の長岡省吾館長が退職。2月1日から広島市の原爆資料顧問として資料館の指導に。資料館に展示してある長岡氏所有の被爆資料1,500点も市に寄贈。後任館長は1日付で森弘助治同市企画調査次長
1962/1/30
米シアトル市のフロイド・シュモー氏から浜井広島市長に手紙。「今夏、シアトルで開かれる『21世紀世界平和博』に、原爆被害を示す資料を貸してほしい」。5月8日ジョン・クロー事務局長から同趣旨の手紙
1962/1/--
原医研の志水清教授と渡辺嶺男助教授が共同で調査、研究したリポート「広島非被爆入市者の統計的観察」をまとめる。原爆投下後、広島市内に入った306人を対象に、健康、発病状況などを総合的に分析した初の調査。(1)直接被爆者とほぼ同じ程度の発病率(2)血液疾患の発病率は一般の人に比べ数倍高い(3)残留放射能の影響をかなり受けたと思われる(4)直接被爆者に比べ急性症状は少ない

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