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ヒストリー

ヒロシマの記録1962 7月


1962/7/2
核実験禁止と軍備廃止を目指す婦人組織「平和のために手をつなぐ会」が東京・渋谷の山手教会で例会。「平和のための国際的婦人ストライキ運動」(WISP)の呼び掛けを受けた運動で、渋谷駅周辺を核実験反対デモ
1962/7/6
米がネバダ実験場で最大の地下核実験を実施。100キロトンの水爆装置で、ダム、運河建設など平和利用の可能性を調べる目的
1962/7/7
太平洋での米大気圏内核実験に伴う日本の損害補償請求について、米国務省から「全面的に日本の要求を了承した」と回答。外務省が明かす
1962/7/7
米国防総省と政府原子力委員会が「ネバダ実験場で小規模の大気圏内核爆発実験を行った」と発表。ネバダでの大気圏内実験は4年ぶり
1962/7/8
米が中部太平洋のジョンストン島上空で超高空核実験に成功。米政府原子力委員会は「爆発規模はメガトン級」と発表。郵政省電波研究所の観測で実験直後、日本上空の電離層に乱れ。国際電電の対米、対南米の電信電話回線が一時不通に
1962/7/9
「全面軍縮と平和のための世界大会」バーナル議長が、米超高空核実験を非難する演説
1962/7/9
メスメル仏国防相が記者会見。「将来、仏は太平洋の基地で水爆実験を行うかもしれない」
1962/7/9
モスクワ放送が米超高空核実験を報道し「米は全人類が抗議していた罪を犯した」と伝える
1962/7/9
英の平和運動家バートランド・ラッセル卿がモスクワの「全面軍縮と平和のための世界大会」に書簡を送り、中立国が起草し査察する軍縮計画を呼び掛け
1962/7/9
「全面軍縮と平和のための世界大会」がモスクワのクレムリン宮で開幕。世界121カ国の代表約2,400人が参加。安井郁日本原水協理事長が「米超高空核実験は平和勢力に対する挑発」と演説。最終日の14日、全面完全軍縮条約の締結と核実験反対を呼び掛けた「世界諸国民へのメッセージ」を採択
1962/7/10
フルシチョフ・ソ連首相が「全面軍縮と平和のための世界大会」2日目の集会で演説。「ソ連は自国防衛のために50~100メガトンないしそれ以上の爆弾や地球ロケット、迎撃ミサイルを開発せざるを得なかった」
1962/7/10
米がクリスマス島付近で中規模の大気圏内核実験を実施。26回目
1962/7/11
米国防総省と政府原子力委員会がクリスマス島付近上空で27回目の大気圏内核実験を実施。ネバダでは小規模地下核実験
1962/7/11
社会党が在日米大使館を訪れ、米超高空核実験に抗議し、直ちに実験を中止するよう申し入れ
1962/7/11
ウ・タント国連事務総長がオスロで記者会見。「いかなる核実験も好ましくないが、米の超高空核実験は最も好ましくない」
1962/7/12
米政府原子力委員会が太平洋クリスマス島での大気圏内核実験を終了した、と発表。ジョンストン島付近での核実験は継続
1962/7/13
フルシチョフ・ソ連首相が米新聞編集者との会見で「ソ連はどんな国とも、その国を核武装させる交渉をしたことはない」と言明。ソ連が中国の核兵器装備を援助しないことを示唆
1962/7/13
米政府原子力委員会が「ネバダ実験場で小規模地下核実験を行った」と発表。一連の実験の44回目(7・14夕)
1962/7/13
米空軍がバンデンバーグ基地から大陸間弾道ミサイル(ICBM)アトラスEを太平洋へ発射
1962/7/14
米航空宇宙局(NASA)が、人間の宇宙飛行に備えて放射能の影響を調査するため、猿とネズミを乗せた気球をカナダ・ラブラドル州から揚げる
1962/7/14
ケネディ米大統領がジュネーブ18カ国軍縮会議を前に、ソ連が軍備競争を終わらせる方法の創造的探究に加わるよう声明。タス通信は15日、声明を非難(7・15夕、7・16)
1962/7/14
米政府原子力委員会が「ネバダで14日、小規模な地上核実験を行った」と発表。一連の核実験の45回目
1962/7/16
原爆ドーム付近の広島市細工町、猿楽町一帯の不法建築約60戸に対し、同市が「23日から強制執行」と通告。18日、住民代表が改めて執行見合わせを申し入れ(7・19)
1962/7/16
ポンピドー仏首相が国民会議で「米は仏を核保有国として認めた。仏は既にプルトニウム爆弾を完成済みで、初の核装備を進めている」と言明
1962/7/16
ジュネーブ18カ国軍縮会議が1カ月の休会を経て再開
1962/7/17
米政府原子力委員会が「ネバダ実験場で17日、小規模の地上核実験が行われた」と発表。演習には約900人の部隊が参加。ネバダ地上核実験として3度目
1962/7/18
原医研の志水清教授が島根県庁で開かれた中国地区公衆衛生学会で2次放射能の人体影響について調査結果を発表。「直接被爆者でなくても2次放射能を受けていれば正常な人よりがんや心臓疾患の発生率が高い」。2次放射能はがんなどの成人病に影響ない-との定説を覆す
1962/7/19
ソ連がジュネーブ軍縮会議で「西側核保有国が西ドイツその他のNATO諸国に核兵器を提供しないと誓うなら、ソ連は中国に核兵器を与えない」と言明
1962/7/19
被爆者の血液疾患を取材するため、仏国立テレビのラルー氏ら一行6人が広島原爆病院で撮影を開始。原医研なども取材へ
1962/7/19
米国防総省が、陸軍の迎撃ミサイル、ナイキ・ジュースによる初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)迎撃実験に成功したと発表
1962/7/20
原水禁広島協議会が浜井広島市長に、同協議会の機構改革に伴う代表委員就任を申し入れ。既決の他の代表委員は森滝市郎、佐久間澄、浜本万三、四竃一郎、竹内道子の各氏
1962/7/20
仏の作曲家オリビエ・メシアン氏が広島市を訪問。原爆慰霊碑に参拝
1962/7/20
原爆の傷跡をテーマにした大映映画「その夜は忘れない」のロケハンで吉村公三郎監督が広島市を訪問。10日からロケを開始
1962/7/20
ヘルシンキで開かれる第8回世界青年学生平和友好祭(28日~8月6日)に参加する日本代表団195人が横浜を出港
1962/7/20
核禁広島県民会議が永野厳雄広島県知事に、広島市公会堂で8月5日に開く核兵器禁止平和集会に県の協力を要望。(1)集会への知事の出席、祝辞(2)集会への県の補助金(3)知事の同会議顧問就任-の3点
1962/7/21
フルシチョフ・ソ連首相が潜水艦からの核ミサイル発射を見学。その後、北洋艦隊の将校3人に「政府特別任務の完遂」をたたえ「ソ連邦英雄」の最高称号を贈った-とタス通信が伝える。西側筋は「勲章はソ連が核ミサイル水中発射に初めて成功したことを示唆」と述べる
1962/7/21
広島県被団協が総会で本年度の運動方針を決める。(1)原爆医療法を百パーセント活用するため、健康診断を積極的に受ける(2)秋に国会請願運動を起こし被爆者援護法の制定や被爆者老人ホームの建設を呼び掛ける-など
1962/7/21
広島大教養部学友会の有志10人が広島市内の繁華街で「米ソ核実験に反対し国際反戦会議を成功させよう」と呼び掛け
1962/7/21
ソ連政府が「米に対抗するため最新型の核兵器実験を再開」と発表。「クリスマス、ジョンストン両島上空での米の核実験によって、ソ連も核実験でこたえることを余儀なくされた。核実験に当たっては、放射性降灰を減らすためあらゆる措置を講ずる」。米政府は遺憾の意を表明(7・22夕)
1962/7/22
ソ連の核実験再開の声明に対し、浜井広島市長が語る。「ヒロシマはくじけてはいけない。失望したり、運動をストップすることなく、希望と良心とを持ち続けよう」
1962/7/22
広島県動員学徒犠牲者の会が広島市の光道会館で慰霊祭。県内約1,500人の犠牲者のめい福を祈る
1962/7/23
日本原水協がソ連核実験再開声明に対し、ソ連大使館へ抗議文。「いかなる理由による核実験も認めることはできない。核実験再開を中止し、全般的軍縮と核実験停止協定成立への積極的な行動を要請する」
1962/7/23
ソ連核実験再開声明に対し、原水禁広島協議会が談話を発表。「核実験の悪循環に強く反対し、それを強行しようとしている為政者の反省を促す」
1962/7/23
ケネディ米大統領がテレビ中継の記者会見で言明。「米は他国に強制されたり、自国の安全が脅かされない限り、これ以上核実験はしない」
1962/7/23
ソ連国防省が「8月から10月までバレンツ海とカラ海で北洋艦隊が各種最新兵器訓練を行う」と発表。8月5~10月20日の間、危険区域を指定
1962/7/24
原爆医療審議会(厚相の諮問機関)が広島県原爆被爆者実態調査(広島県、広島市が1960年10月1日実施)の中間報告。広島県内在住の被爆者総数は16万4,062人、28%が農漁業に従事、爆心地から2キロ以内にいた被爆者のうち未婚者が男女とも全国平均に比べ多い
1962/7/24
広島県佐伯郡五日市町寺田、歯科医師折免正雄さんが、学徒動員の建物疎開中に爆心地の広島市元柳町で被爆死した二男滋君(当時県立二中1年)の遺品、黒焦げの弁当箱や水筒、かばんなどを原爆資料館に寄贈
1962/7/25
原水禁広島協議会がソ連の核実験再開声明に対し、中止要請の電報を打つ
1962/7/25
原水爆禁止広島市協議会がソ連の核実験再開声明に抗議文を送付。米にも核実験中止を要望
1962/7/25
米がジョンストン島で4回目の超高空核実験を試み失敗。ソア・ロケットを発射台の上で破壊、破壊時の核爆発はなし。超高空核実験の失敗は3度目
1962/7/25
仏下院が核武装追加予算案を承認
1962/7/26
広島市の浜井市長が8月6日に世界各国政府、都市、平和団体、新聞社などに「広島アピール」を送る構想を発表。従来送っている平和宣言に加え、アピールには被爆者の現状、原水爆禁止に対する願いなどを盛り込む。知られていない被爆の実態を世界に示す目的
1962/7/26
山田久就駐ソ大使がソ連外務省に核実験再開声明に対する日本政府の抗議の口上書を手渡す
1962/7/27
「ヒロシマ平和巡礼」の代表、松原美代子さんと英宏昌君が帰国。29日、広島に帰る。31日に広島原爆病院で帰郷報告。3月10日に広島を出発後、ホノルル、北米、西欧、東欧、ソ連の14カ国を回り、核実験反対や被爆者の実情を訴える
1962/7/27
水産庁の調査船照洋が米核実験の放射能汚染調査のため、太平洋クリスマス、ジョンストン島周辺海域へ向け東京・竹芝桟橋を出港
1962/7/27
原子力委員会が1961年度の「原子力研究白書」をまとめ閣議に報告。(1)原子力発電の推進が一段と必要(2)国産動力炉など重点開発
1962/7/27
完全軍縮と核実験禁止を呼び掛けた「科学者京都会議」の声明文の英訳が出来上がり、ジュネーブ軍縮会議の参加国、国連軍縮委員会の各国代表、世界の著名な平和運動家に送付
1962/7/28
米ボーイスカウト・ロサンゼルス379小隊67人が広島市を訪問。原爆慰霊碑前で追悼演奏
1962/7/30
広島市の姉妹都市ハワイ・ホノルル市の少年少女親善使節団の高校生12人が広島市を訪問
1962/7/31
原水禁広島協議会が平和記念館で第8回原水禁世界大会東京集会の代表団結団式。「被爆者救援活動を活発にする」との基本態度を確認
1962/7/31
英の日刊紙デーリー・メールが「英の水爆を欧州の同盟国とともに管理する新計画がソーニクロトフ新国防相に提出された」と報じる
1962/7/--
放射能を吸収した植物を人工的に育てる「放射性植物栽培室」が京大農学部に完成、試運転に成功
1962/7/--
8月6日の平和記念式典で「平和の鐘」を鳴らす被爆者代表に、広島市宇品町の広島女学院高校3年、松岡潤子さんが決まる
1962/7/--
米週刊誌タイム本社が「二都の物語」掲載に抗議した広島「折鶴の会」に返事。「あの物語に関して、たくさんのお手紙をいただきましたが、あなた方のものほど胸にこたえたものはありません」

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