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ヒストリー

ヒロシマの記録1962 8月


1962/8/1
第8回原水爆禁止世界大会の予備会議が東京・高輪で開会。「核戦争阻止」が中心スローガン。安井郁大会総長(日本原水協理事長)が基調演説。「核戦争の危機が増大している現在、核実験禁止協定を結ばせることが世界の平和運動の急務」。4日まで
1962/8/1
米の大陸間弾道ミサイル(ICBM)の最新型アトラスFの実戦化実験がバンデンバーグ基地で行われ、8,000キロ離れたエニウェトク環礁に向け発射に成功
1962/8/2
原爆資料館の被災資料展示の中に、映画「ひろしま」(関川秀雄監督)の一場面が展示されていたことが判明し、撤去。館員が市販パンフレットに掲載の同映画写真を引き伸ばし陳列
1962/8/3
浜井広島市長が世界にヒロシマの惨禍を訴える初の「広島アピール」を発表。6日、国内の平和団体に発送。海外20カ国にも送付へ。「戦争は元来、自国あるいは自国民を防衛する手段に過ぎなかったのであるが、原子力時代の戦争は、すでに自己防衛の手段たり得ないことをわたくしたちは、いまやはっきりと知ることができる。今日行われている核兵器の実験と軍拡の悪循環は、すみやかに終止符を打たなければならない。いまや、人類の運命共同体は民族国家ではなくて全世界である。人間英知の結晶である科学や生産力を、破壊や殺りくのために使用することは明らかに人間のあやまちである。人類史上、最大の危機に直面している現下の国際情勢を憂うるのあまり、ここに重ねて全世界に人々に『あやまちをふたたび繰り返すな』と訴えるものである」
1962/8/3
「ヒロシマ平和巡礼」の報告会が平和記念館で開かれ、松原美代子さんと英宏昌君が運動の成果を語る。「米ではたくさんの学生や青年と会ったが、核実験については支持するものもいた。しかしわれわれの話をよく聞いてくれ、最後には分かってくれた。英では核禁止運動が非常に盛り上がっており、心強かった。またソ連では会う人がみんな平和を口にして歓迎してくれた」
1962/8/3
ABCCの「成人健康調査」と「病理学的調査」について、日米双方が正式に同意書に調印した-と発表。日米共同調査の同意で、調印は7月末。ABCCの広島、長崎被爆影響調査のうち、寿命調査は既に1958年に日米間で同意
1962/8/4
広島血液銀行が広島原爆病院と原医研に保存血液1万ccの目録を贈る
1962/8/4
中国の陳毅外相がスイス国営モンテケネリ放送での対談で語る。「中国には原子力の平和利用を研究する有力な諸機関がある。これらの機関では核兵器も開発中だ。完成には時間がかかるが大きな進歩を遂げている」
1962/8/4
広島市職員労働組合が門田高亨委員長と浜井市長の連名で、フルシチョフ・ソ連首相とケネディ米大統領あてに要請文を発送。「広島市民は全面完全軍縮こそ人類の願いであると信じている。これに一歩近づくために核実験停止協定を即時無条件に締結してほしい」
1962/8/4
第8回原水爆禁止世界大会の本会議が東京・台東体育館で開幕。海外11カ国86人を含め約1万人が参加。5日は都内30会場で分散会。「あらゆる国の核実験に反対する幅広い運動を起こせ」とする社会党系代表と「核戦争の根源である米帝国主義を日本やアジアから追い出せ」とする共産党系代表の発言が対立。6日まで
1962/8/5
日本原水協の平和行進が広島入り。中国ブロック幹線3コースと広島県内8コースが合流し総勢3,500人。平和記念公園で集結大会
1962/8/5
米政府原子力委員会が「ソ連は5日早朝、メガトン級の大気圏内核実験を再開した。実験場所は北極海のノバヤゼムリャ」と発表。スウェーデンのウプサラ大地震研究所も「ソ連は5日、バレンツ海とコラ海の間にあるノバヤゼムリャ実験場で核実験を再開した」と言明
1962/8/5
ソ連核実験再開に抗議し、広島市小網町の亀上秀竜氏が原爆慰霊碑前で座り込み。31日まで
1962/8/5
米の平和運動家ザーン氏がソ連核実験再開に抗議し、「ロンドンからレニングラード経由モスクワまでエブリマン3号を航海させる計画」とホノルルで語る。乗組員は数カ国から募集。ザーン氏はエブリマン2号で太平洋ジョンストン島周辺の米核実験立ち入り禁止区域に乗り込み処罰されている
1962/8/5
核禁会議主催の核兵器禁止・平和建設広島大会が広島市公会堂で開会。約1,700人が参加。門秀一核禁広島県民会議議長が「核禁会議は日本原水協から分裂した第2原水協ではない。原水協とは別の新しい平和運動が生まれたのだ」とあいさつ。「世界最初の被爆地ヒロシマから国内外の良識ある人びとに、核兵器禁止、核実験停止を強くアピールしたい」との広島アピールを承認。原爆慰霊碑から広島県庁までちょうちんデモ
1962/8/5
オーストラリアのシドニー、メルボルンなどで広島の原爆被災17周年記念デモ
1962/8/5
「平和のための国際的婦人ストライキ運動」(WISP)の米サンフランシスコ周辺地域グループが、広島をしのぶ初の平和行進。原爆被害展示のほかアピールを採択し、市民約200人の平和署名とともに広島市長に送付
1962/8/6
浜井広島市長の平和宣言。「17年前の今日、400年の歴史と父祖の偉業とによって築き上げられた広島は一瞬にして壊滅し、老幼男女の区別なく無数の生命が奪い去られた。そのとき、この惨禍を目撃したわたくしたちの心の底深く根ざしたものは、戦争に対する限りない憎しみと、それをふたたび繰り返してはならないという固い決意とであった。爾来、わたくしたちは機会あるごとに、全世界に、わたくしたちの体験を伝え、核兵器の禁止と戦争放棄の必要とを訴えつづけてきた。しかるに、その後核兵器の製造と実験は停止されないばかりか、その性能はいよいよ大型化され、そのため国際間の対立はますます激化して、今や世界を未曾有の危機におとしいれようとしている。今こそ人々は原子力時代の戦争は所詮勝利の見込みのない戦争であって、それは独り戦争当事国のみならず、全人類を絶滅する手段以外の何ものでもないことを深く認識しなければならない。わたくしたちは、すべての民族すべての国家が、人類連帯の精神に立って小異を捨てて大同につき、核兵器の禁止と戦争の完全放棄を目ざして、全努力を傾注することを願ってやまない。本日、ここに思いもあらたに、原爆死没者の霊を弔うにあたり重ねてこれを広く世界に訴えるものである」
1962/8/6
第8回原水禁世界大会の最終日、「ソ連の核実験に抗議せよ」と要求する社会党、総評系代表とこれに反対する共産党系、海外代表が激しく対立。押し切られた社会党、総評系の約1,000人が総退場。分裂状態のまま閉幕。大会宣言は見送り
1962/8/6
社会党、総評など11団体が第8回原水禁世界大会に対する声明を発表。「今度の大会はソ連の核実験に何の意思表示もできない状態で終わった。大会の基調報告は『いかなる国のいかなる理由を問わず核実験に反対である』ことを述べている。大会の実体は極めて遺憾だと考える。原水爆禁止の幅広い国民運動を再建するため新たな決意をもって対処する」。11団体の他の団体は中立労連、新産別、日青協、日本山妙法寺など
1962/8/6
被爆17周年。原爆慰霊碑前で原爆死没者慰霊式・平和記念式。約3万人が参列。新たに125人の原爆死没者名簿を奉納、名簿総数は6万678人に。浜井市長が平和宣言。広島女学院高校3年、松岡潤子さんが「平和の鐘」を鳴らし、池田首相あいさつ(代読)
1962/8/6
ソ連の核実験再開に、広島原爆病院の入院患者(102人)が連名の抗議文をフルシチョフ首相に発送
1962/8/6
広島「折鶴の会」が平和記念公園の原爆の子の像前で「被爆17周年慰霊少年少女のつどい」と「核実験再開抗議集会」。遺族、市民ら約300人が参加。ソ連核実験再開に対するフルシチョフ首相あての抗議文を発表
1962/8/6
米政府原子力委員会が「ソ連は5日の大気圏内大型核実験の数日前に、小型の大気圏内核実験を行った兆候がある」と発表
1962/8/6
米ニューヨークで「平和のための婦人行動隊」「非暴力運動委員会」など主催で市民約2,000人が核実験反対デモ。国連前広場で広島原爆投下17周年記念行事
1962/8/6
英ロンドン市内で核兵器に反対する各平和団体約5,000人が無言の抗議パレード
1962/8/6
旧広島県庁職員被爆者慰霊祭が県庁で行われ、旧職員の被爆者団体を結成。回顧録刊行などを決定
1962/8/6
東京・社会事業会館で「原水爆犠牲者慰霊祭」。遺族ら約1,500人が参列
1962/8/6
原爆で肉親5人を失った広島県山県郡加計町の中国電力可部営業所勤務、磨野経則氏が3年がかりで作った10万羽の折りづるを軽飛行機から平和公園の上空でまく
1962/8/6
ラジオ中国が原爆特集番組として「帰らぬ鶴」の著者、瀬戸奈々子さん一家を取材したセミドキュメントのテレビドラマ「地表」を放送。同社の原爆ドラマ制作は初めて
1962/8/6
原爆記念特別番組としてNHKラジオ「時の動き」が原爆孤老にスポットを当てる
1962/8/6
第8回原水禁世界大会広島大会が広島市公会堂で開会。約2,500人が参加。ソ連、中国、北朝鮮の共産圏3カ国代表5人が退場。共産党系参加者が騒然とする中、広島アピールを採択。さらに米ソ両国の核実験競争に抗議電報を打つことを決める
1962/8/7
大平正芳外相が在日ソ連大使館のスズダレフ代理大使を招き、ソ連核実験再開について口頭で抗議。「日本政府は無用な軍拡競争の悪循環を断ち切るため直ちに実験を中止するよう要求するとともに、完全な補償を要求する権利を留保する」
1962/8/7
社会党が原水禁世界大会に参加した活動家会議を開き、原水禁運動を根本的に改革する方針を決定
1962/8/7
日本被団協が平和記念館で第7回定期総会。基本方針をめぐり「原水協は核禁運動に熱中し、被爆者援護の切実な願いを無視している」として、「原水協からの脱退か原水協、核禁会議の同時加盟」の動議。継続審議に
1962/8/7
世界平和アピール7人委員会が米ソ両首脳にあてたアピールを発表。核実験の即時中止を要望
1962/8/8
原水禁世界大会に参加した米ソ代表ら13人が広島市宇品町の広島「憩いの家」を訪れ、被爆者と懇談
1962/8/8
米政府原子力委員会が「ソ連は7日、大気圏内核実験を行った」と発表。実験地は中央シベリア
1962/8/9
共産党と民主青年同盟の各広島県委員会が原水禁広島協議会に「原水禁広島大会の広島アピールとソ連への核実験抗議文は無効だから取り消してほしい」と要求。同協議会内の社共の対立が深刻に
1962/8/9
第8回原水禁世界大会長崎大会が長崎市国際体育館で開会。海外代表21人など約1,500人が参加。核実験禁止協定を呼び掛ける長崎アピールを発表
1962/8/9
長崎の被爆17周年。爆心地の平和祈念像前広場で原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典。約6,000人が参列。田川務市長が平和宣言。「長崎市民は自ら体験した原爆の威力とその被害と悲惨、きょうに続く業苦にかんがみ、人道の名において原水爆の廃棄を強く訴え、更に一切の戦争をこの地上より排除すべく、諸国家が融和、協調することを切望する。長崎市民は、えい知と正義と愛とが変わりなく人類総てのものであることを信じ、世界恒久平和の実現のため新たなる決意を固め、一意てい身することを誓う」
1962/8/10
「米がNATO理事会で在欧核兵器を大幅に増強する方針を確約」と西ドイツ政府が言明
1962/8/10
原水禁世界大会東京大会の外国代表で、広島を訪れたカナダ非核武装運動副会長のオリーブ・ジョンソン夫人が声明。「原水禁大会でソ連へ抗議文の出せないような偏向した日本原水協とは今後関係を絶つ」
1962/8/11
衆院本会議で矢尾喜三郎氏(社会)が質問。「米ソ両国の核実験競争に積極的に抗議し、非核武装宣言を速やかに決議せよ」。池田首相「核武装しないと言っている私が宣言するより、核武装している国が積極的に努力すべき」
1962/8/11
社会党が原水禁世界大会について見解を発表。「大会混乱の原因は日本共産党と中国代表」
1962/8/12
社会党広島県本部が定期大会で原水禁広島大会を中心に原水禁運動の在り方を協議し、決議。「原水禁運動を全国民運動に発展させるため『いかなる国、いかなる目的の原水爆実験にも反対』という日本原水協の基本原則を守らない団体と会員は排除して運動を進める」
1962/8/14
アルジェリア高官筋が語る。「アルジェリアは今後、仏がサハラのレガヌ実験場で核実験するのを許さない意向」
1962/8/14
社会党が中央執行委員会で「非核武装宣言に関する決議案」を決定。日本が率先して非核武装宣言することは「世界でただ一つの非武装憲法を持ち、世界でただ一つの原水爆の被害国である日本の義務」と指摘。(1)一切の核武装を永久に保持しない(2)いかなる国の兵器も日本に持ち込むことを許さない-と宣言するよう求める
1962/8/15
姉妹都市連盟の会長で英コベントリー市長のA・F・ウェイネフ氏から浜井広島市長に「連盟総会が9月にコ市で開かれる。出席してほしい」と招待状
1962/8/17
米政府原子力委員会が、日本の原爆被災者の医療研究のため2種類の放射能実験をネバダ実験場で行った-と明かす。建物内の人物が受ける放射能の影響について資料を得る実験。資料は広島、長崎の生存被災者の医療研究に充てる
1962/8/17
ネバダ核実験の影響で米西部で放射性ヨウ素量が急増-と米公衆衛生局が発表。ミネソタ、カンザス、ミズーリ各州で牛乳業者が自主的に出荷制限
1962/8/18
原水禁広島協議会が米ソ両国政府に「速やかに実験を中止して核実験禁止協定を結び、全面軍縮協定の成立に努力することを要求する」と打電。原水禁広島大会の決議を受けた措置
1962/8/19
地球を取り巻く放射線帯の発見者、米アイオワ大のバンアレン教授が「米の超高空核実験(7月8日)の結果、バンアレン帯の低い部分に新しい巨大な放射線帯ができた」と述べる。米航空宇宙局(NASA)などは20日「人間衛星打ち上げへの影響を研究」と発表
1962/8/20
大映映画「その夜は忘れない」ロケで広島に滞在中の女優若尾文子さんが広島原爆病院を慰問
1962/8/20
ソ連が20日、ノバヤゼムリャで核装置を爆発させた-とAFP通信がスウェーデン・ウプサラ大地震研究所の発表を伝える
1962/8/21
広島「折鶴の会」が原水禁広島協議会に要望書を提出。「原水禁運動は1つのイデオロギーに利用されている。考え直してほしい。8月5日のソ連の核実験はあまりにも非道な行為だ。断固抗議活動を始めてほしい」
1962/8/21
社会党が中央執行委員会で、原水禁運動の再建に向け日本原水協の在り方を改善する方針を決める
1962/8/21
民社党が自民、社会両党に非核武装宣言に関する決議案を示し協力を求める。「日本は一切の核兵器を永久に保持しない。またいかなる国によるとを問わずこれらの兵器を日本に持ち込むことを許さない」
1962/8/21
英初の人工衛星が米超高空核実験の影響で19日以来、通信途絶している-と英政府が言明
1962/8/21
ボストン、ハーバードなど米13大学の教授ら175人の教育者が、ケネディ大統領にあてた核政策についての公開状をニューヨーク・タイムズに発表。「米があまりに巨大な軍備を建設することは、軍縮交渉を不可能にする」
1962/8/22
総評が幹事会で「総評、中立労連など12団体は連絡会議を設けて日本原水協の再建を期す」との方針を決める
1962/8/22
「平和」を学問的に研究する「広島平和科学研究所」が広島市内で発会式。中野清一広島大政経学部長らが設立を準備。当面、研究会や講座開設、文献、資料の収集、研究成果の発表、出版など行う。国内外の学者、経済人、平和活動家ら74人が顧問に就任
1962/8/23
広島日伊協会がイタリアのビエンナーレ美術展に原爆被災写真20枚を発送。同美術展の前会長ジョルジュ・ホンディ氏から受けた「10月に広島展を開きたい」との要請にこたえる
1962/8/24
米政府原子力委員会が「ネバダ実験場で24日、2回の地下核実験をした」と発表。ネバダ地下実験の48、49回目
1962/8/25
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連は25日、ノバヤゼムリャ地域で10メガトンの大気圏内核実験を行った」と発表。日本各地の気象台、測候所でも25日午後11時ごろ、異常微気圧振動を観測
1962/8/25
原水禁広島協議会が常任理事会を開き、日本原水協の基本原則に沿って活動することを確認
1962/8/25
第9回パグウォッシュ会議が英ケンブリッジで開会、30日まで。テーマは軍縮問題(「ヒロシマの記録」)
1962/8/27
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連・ノバヤゼムリャ地域の大気圏内で27日、新たな核実験が行われたのを探知した」と発表。米政府原子力委員会も「数メガトンの実験」と発表。ソ連核実験再開(8月5日)以来、同委員会が発表した8回目の実験
1962/8/28
広島県被団協が理事会で、原水禁広島大会について「原水禁広島協議会の態度は正しかった」として、従来通り同協議会にとどまり協力していくことを決定
1962/8/31
ポーランドを訪問中のウ・タント国連事務総長がワルシャワ大学で演説。「米、英、仏、ソ連4国に次いでさらに1、2の国が近く核兵器を製造する可能性が十分ある」と警告。「米ソが一致しない限り重要な問題について何一つ行動は起こせない。軍縮、核実験停止、核兵器拡散防止は緊急解決を要する問題」と述べる
1962/8/--
広島市立幟町中教諭豊田清史氏が5年がかりで原爆歌集「原水爆秀歌」を発刊。全国の同人雑誌、職場、新聞から集めた約5万首から200首(60人)を収録
1962/8/--
被爆体験と惨禍を克明に描いた作文421編が13年ぶりに広島大東雲分校で見つかる。同分校国語研究室が1949年夏、「原子爆弾の思い出と将来への希望」の題で広島市内の小、中、高校生や父母から募集。中島小85編、幟町小54編、進徳女子高58編など
1962/8/--
広島市職員労働組合の門田高亨委員長と浜井広島市長が米ソに送った核実験禁止協定の早期実現要請に対し、ライシャワー駐日米大使から反発の回答書が届く。「市長の主張はソ連の主張を肯定しているもので支持できない。米の立場も考慮してほしい」

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