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ヒストリー

ヒロシマの記録1962 9月


1962/9/1
イタリア原子力委員会が「最近のソ連大気圏内核実験による放射性物質の降下を初確認」と発表
1962/9/1
米国防総省と政府原子力委員会が「太平洋での超高空核実験(7月9日)の結果生じた放射能帯は予想以上に強力で、数年間存続する可能性がある」と明かす
1962/9/1
原水禁広島協議会が「広島における原水禁運動の団結と前進のための声明」を発表。日本原水協の基本原則に沿って運動を続けていくことを明らかにする。(1)被爆の体験は運動の泉である。これを過去の検証にとどめず、核実験、戦争絶滅のため生かさねばならぬ(2)被爆地ということに寄り掛かるのでなく、被爆者救援と原水禁運動を続け、全国の運動の開拓者としての心構えを持つ(3)原水禁運動はあらゆる思想、党派を乗り越えた国民運動であるから、意見の相違を固守し続け他を排斥することを慎む(4)基本原則はいまなお運動の憲法であり、われわれの行動の指針である
1962/9/2
米政府原子力委員会が「ソ連は2日、北極海のノバヤゼムリャ島付近の大気圏内で中程度の核実験を行った」と発表。米が公表した一連のソ連核実験の9回目(9・3夕)
1962/9/3
ソ連核実験再開に抗議し、ロンドンからソ連・レニングラードに向けてエブリマン3号で航海するため、広島女学院大客員教授アール・レイノルズ博士が広島を出発。26日、船長の同博士ら乗組員12人がロンドンを出港
1962/9/3
社会党の江田三郎書記長が原水禁運動に関し、中国の「平和の敵」論を批判する論文を党機関紙「社会新報」紙上で発表。「中共は原水爆禁止運動の中で平和の敵を明らかにして、この運動を民族独立運動と一体化するよう要求し、この立場から社会主義国の核実験は支持すべきだとしている。しかし平和運動は特定の政治、社会体制を変革する運動ではなく、核兵器競争とそのもたらす人類の脅威を断ち切ることを目的としているのであり、中共の見解には絶対に賛成できない」
1962/9/3
第10回パグウォッシュ会議がロンドンで開幕。世界35カ国、約200人の科学者が参加。7日まで。最終日に「秘密の核実験を探知する新たな計画を主要国首脳に送る」と声明
1962/9/4
全日本キリスト者平和会議が東京神学大で開会。5日も。日本基督教平和同盟などキリスト教13団体が活動を組織化
1962/9/6
広島市原爆被害対策課が本年度の特別被爆者健康手帳の検認と被爆者健康診断を開始。被爆者福祉センターと同市内の各小学校で11月末まで
1962/9/6
8月6日にブラジルで原爆犠牲者法要が営まれた-とブラジル広島県人会から広島県に手紙。1959年9月、ブラジルに渡った原爆孤児、大出幸男さん(同県山県郡加計町出身)が提唱
1962/9/8
ソ連国防省の機関紙「クラスナヤ・ズベズダ(赤い星)」がキューバ紛争に関連し、8日付紙上で「米との戦争の際には英、西ドイツ、日本その他の基地へ100メガトンの爆弾を投下するだろう」と述べる 1962/9/8
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連は8日、ノバヤゼムリャ地区で8メガトンの核装置を大気圏内で爆発させた」と発表。一連の実験の7回目
1962/9/9
国連放射能影響調査委員会が報告書を発表。「いかに少量の放射能でも人類にとって脅威」と指摘し、核実験中止を呼び掛け。1958年に次ぐ2度目の報告書。これまで各国で行われた核実験の回数は米183回、ソ連111回、英22回、仏4回の計320回
1962/9/9
日本被団協が第10回代表理事会で、継続審議の核禁会議加盟動議を協議。「各県単位の加盟はやむを得ないが、日本被団協として核禁会議に加盟することは、原水禁運動をますます分裂に導く」と見合わせ決定
1962/9/10
米カリフォルニア大学内にあるアジア研究団体「東亜文庫」から広島市に「文庫の蔵書に『広島原爆医療史』を加えたいので送ってほしい」と手紙。市が寄贈へ
1962/9/10
米政府原子力委員会が「太平洋ジョンストン島周辺に22日から再び立ち入り禁止区域が設定される」と発表。大気圏内核実験の再開を明らかにする
1962/9/10
パグウォッシュ会議に日本学術会議代表として出席した湯川秀樹京大教授が帰国。「世界各国は全面完全軍縮は実現可能として努力している。日本もこの問題に真剣に取り組まねば世界の大勢に遅れる」
1962/9/11
パリの消息筋が、太平洋の仏領マンガレバ島に仏が核ミサイル実験場の建設を計画していることを認める。マ島はタヒチ島の西南約1,600キロ
1962/9/12
新潟大工学部アイソトープ研究室が「10日、大学構内で強放射能粒子を発見。最近、長岡地方で放射能が増加している」と発表。ソ連核実験の影響と推定
1962/9/12
日本原子力研究所東海研究所の国産第1号実験用原子炉が臨界に達し、初めて国産原子の火がともる。11日午後に臨界実験を開始して約25時間目で達成
1962/9/15
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連は15日、ノバヤゼムリャで15メガトンの核装置を爆発させた」と発表
1962/9/15
広島の原爆被爆者の心理を研究するため、5月初めから広島市に滞在していた米エール大准教授で精神医学者ロバート・リフトン博士が調査を終えて帰国
1962/9/15
広島子どもを守る会が役員会で、運営対象を原爆孤児に限らず一般まで広げ、「再び原爆孤児を作るまい」「親心を社会的に結集しよう」のスローガンに沿った「愛の運動」の展開を決める。18歳未満の原爆孤児の減少に伴い方針を拡大
1962/9/16
米政府原子力委員会が「ソ連はノバヤゼムリャ付近で前日に続いて数メガトンの大気圏内核実験をした」と発表。ソ連の実験再開以来、米が発表した12回目の実験
1962/9/16
原水禁広島協議会が第8回原水禁世界大会の総括総会。社会、共産党系の激しい対立で、運動原則をどこに求めるか結論を持ち越す
1962/9/17
中部太平洋のクリスマス島周辺海域での米核実験放射能汚染調査を終えた水産庁の調査船照洋が東京・竹芝桟橋に帰港。高橋利治船長、敦賀花人団長が記者会見。「全体の調査を通じ、観測データそのものからは放射能汚染の異常は発見できなかった」
1962/9/18
日本原水協の全国常任理事会が第8回原水禁世界大会の総括をめぐり、ソ連核実験を擁護する共産党系代表と反対する社会党、総評系代表の意見対立で流会
1962/9/18
浜井広島市長がライシャワー駐日米大使に書簡を送り、ケネディ大統領に対して行った核実験停止要請に関する大使見解に改めて反論。「浜井市長の意見はソ連の主張を肯定するもの」との大使見解に対し、「私たちの望むことはお互いに譲り合い、信じ合うことによって全人類の生きる道を考えることだ」と強調
1962/9/18
ストックホルム工科大学が「ソ連は18日、ノバヤゼムリャ島上空で9メガトン級の核爆発実験をした」と発表
1962/9/18
6月にアフリカ・ガーナのアクラ市で開かれた民間人の国際軍縮会議、「爆弾のない世界」会議で採択された「国際軍縮要求デー」(11月1日)用のポスターが広島で完成。ガーナを通じて全世界に配布へ
1962/9/20
日本被団協に原爆被害者大分県協議会から「日本原水協ならびに日本被団協を脱退する」との声明書が届く。原水協の偏向を理由に挙げる
1962/9/20
国連総会本会議の一般演説でスチブンソン米代表が「全面軍縮協定の締結、査察の裏付けのある核実験の停止」などを強調
1962/9/21
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連は21日、ノバヤゼムリャ実験場で大気圏内核実験を行った」と発表
1962/9/21
大平正芳外相が国連総会本会議で一般演説。核実験停止協定の速やかな締結を訴える
1962/9/21
ソ連が国連総会に、軍拡競争の資源を平和目的に転換するよう要望する宣言案を提出
1962/9/25
原水禁広島協議会が常任理事会で当面の運動の基本的態度を決める。(1)あらゆる国の核実験に反対し即時核実験停止協定を要求する(2)日本の核武装に反対し阻止する(3)被爆の実相を明らかにし援護法の獲得に努める-の3項目
1962/9/25
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連は25日、ノバヤゼムリャ地区の大気圏内で30メガトンの核爆発実験を行った」と発表
1962/9/27
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が27日、ノバヤゼムリャで行われたソ連核実験を探知。同研究所が探知した14回目のソ連核実験
1962/9/27
広島県地域婦人団体連絡協議会が原爆孤老と被爆者救済の平和バザーを広島市内で開催。28日も
1962/9/28
防衛庁技術研究本部が東京・新島のミサイル試験場で発射台、レーダーなどの最終取り付け工事を開始
1962/9/29
米政府原子力委員会が「ネバダで29日、低威力の地下核実験を行った」と発表。前年9月の地下実験再開以来、52回目
1962/9/29
演奏で広島を訪れたソ連国立アカデミー・ロシア合唱団が原爆慰霊碑を参拝、原爆資料館を見学
1962/9/--
広島県が「原爆症」による休職者にも給与を全額支給するため給与条例一部改正案の提出を計画
1962/9/--
「帰らぬ鶴」の著者、瀬戸奈々子さんの母、林田みや子さんが、日赤三重県支部点訳奉仕団員の男沢節子さんから贈られた点訳本「帰らぬ鶴」(2巻)を広島「折鶴の会」に寄贈

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