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ヒストリー

ヒロシマの記録1961 8月


1961/8/1
米国務省が、日米会談で取り上げられた原子力潜水艦の日本寄港問題について「核推進機と核兵器の間には明白な違いがある。この区別が一般からよく理解されるまで、この種の訪問は時期が早過ぎるとラスク長官と小坂善太郎外相は結論を下した」と声明
1961/8/1
第7回原水禁世界大会の会場に決まっていた日大講堂(東京)の使用許可を日大側が撤回。「学生自治委員会からうたごえ大会の使用願が出たため」が理由。日本原水協は日比谷野外音楽堂に会場を予約
1961/8/2
原水禁広島市協議会が、日本原水協と原水禁広島協議会に第7回原水禁世界大会を偏向させないよう要望書を送る
1961/8/2
日本原水協の運動姿勢を批判していた広島県地域婦人団体連絡協議会(20万人)が、第7回原水禁世界大会への代表派遣を決定。「いま婦人団体が原水禁運動から手を引くと運動の本質が曲がる恐れがある」
1961/8/5
広島県内10カ所からスタートした2,500人の平和行進が相次いで広島市に到着。平和記念公園で平和行進集結大会。前年の激しいスローガンは無く、「平和をみんなで守りましょう」といった穏やかな表現が増える
1961/8/5
第7回広島平和美術展が開幕。7日まで。広島平和美術協、市教委、中国新聞社の3者共催に
1961/8/5
広島市大手町9丁目の森田百太郎さんが悪性リンパ腫のため死去。71歳。この年、広島原爆病院での原爆症死亡患者は20人目
1961/8/5
第7回原水爆禁止呉大会、呉市本通小学校で開く。「地球上から原水爆および一切の核兵器を抹殺すること」を決議
1961/8/5
広島「憩いの家」の創設者で米作家アイラ・モリス氏夫妻と東ドイツ・ドレスデン市のヘルベルト・グーテ市長から広島市民にメッセージ届く。「原爆犠牲者の霊を慰め、広島の悲劇が繰り返されないよう努力しよう」
1961/8/6
浜井広島市長が平和宣言。「昭和20年のこの日、広島は一瞬にして焦土と化し、無数の人々がその生命を絶たれた。その傷あとは、16年を経た今日なお消え去ることなく、人々の生命をむしばみ続けている。その惨禍を直接体験した広島市民は原子力が将来ふたたび兵器として使用されるならば、世界はついに滅亡するに至るであろうことを予見した。その後科学と技術は飛躍的な進歩をとげ、その予見が決して誇張でないことを裏書きしつつある。いまや人々は、原子戦争は勝利の見込みのない戦争であって、それは全人類の自滅を意味するものであることを深く認識しなければならない。時はまだおそくはない。いまこそ、すべての民族、すべての国家がいたずらに利己的主張を固執することをやめて、人類連帯の精神に立ち、核兵器の禁止と戦争の完全放棄をめざして、全努力を傾注しなければならない」
1961/8/6
被爆16周年。広島市平和記念公園の原爆慰霊碑前で平和記念式典。市民約3万人が参列。原爆死没者名簿に139人を追加奉納、名簿登載者数は6万552人に
1961/8/6
第7回原水爆禁止世界大会広島集会が、広島市の児童文化会館で開催。全国23都府県代表ら計750人が参加。「核実験停止を含めた軍備全廃」を柱とした広島宣言と被爆者の社会保障制度の確立をうたった原爆被爆者救援特別決議を採択。次いで平和記念公園で1万人を集めて「広島宣言発表大会」
1961/8/6
第7回原水爆禁止世界大会広島集会に参加する14カ国34人の外国代表が広島市に到着。平和記念式典に参列。一行を代表して花束をささげたスーダン平和協議会のアーメッド・ケール事務局長は「16年前の生々しい記憶が、私の前にすわっていた遺族の表情を通しよみがえってきたように感じた」
1961/8/6
原対協が「広島原爆医療史」を刊行。被爆直後からの広島の医師たちの活動をまとめる
1961/8/6
広島市の西平和大橋の西詰めに、広島市の高ノブさん(70歳)が「慈母の像」を建立、除幕式。高さんは被爆前、像の建立地に住み、原爆で夫と子どもを失う
1961/8/6
旧制広島二中の新しい原爆犠牲者慰霊碑が被爆地の広島市中島本町の護岸に完成。原爆犠牲となった職員、生徒52人の名前を裏に記す。1953年にできた歌碑「なぐさめの言葉しらねばただ泣かむ汝がおもかげといさをしたひて」(被爆当時の二中校長古田貞衛氏作)は横に移す
1961/8/6
長崎県俳句協会が長崎平和公園前に建てた原爆句碑を除幕(「長崎年表」)
1961/8/6
バートランド・ラッセル氏を中心とする英の反核団体「百人委員会」がロンドンで原爆被災者慰霊式デモ。3,000人が参加
1961/8/7
第7回原水禁世界大会広島集会に参加した外国代表33人が広島市平和記念館で被爆者と懇談
1961/8/9
第7回原水禁世界大会予備会議が東京・高輪プリンスホテルで始まる。(1)世界情勢と軍備全廃(2)実験禁止と核武装阻止(3)軍事同盟と外国軍事基地の廃止(4)被爆者の救援(5)運動の強化と国際連帯-が議題
1961/8/9
原水禁世界大会出席の米代表団が「代表団員のアール・レイノルズ博士(広島女学院大客員教授)を代表団から除名」と発表。7月30日、広島での全労系原水禁全国討論会で日本原水協を批判したため(「ヒロシマの記録」)
1961/8/9
アール・レイノルズ氏が記者会見で語る。「原水協にたいする一番大きな不満は米や西欧陣営の核武装だけを問題にして、ソ連や中国に何も触れないことだ」
1961/8/9
長崎被爆16周年。爆心地の浦上平和公園で原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典。永井隆博士の遺児長崎大2年の茅乃さんが「お父さん、お母さん、私たちはこんなに大きくなりました」と誓いとめい福を祈る言葉
1961/8/9
田川務長崎市長が平和宣言。「昭和20年8月9日午前11時2分。この日この時、私ども長崎市民は、原爆の一閃により煉獄の惨苦にさいなまれた。爾来16年、今もなお眼を覆う当時の惨状は脳裏に刻まれて去らず。哀傷悲痛の念を絶つことができない。ここに無辜10万死没者の霊をまつり、そのめい福を祈るとともに、平和を希うことが人類普遍の姿であることに念をいたし、戦争の惨禍を避け、特に核兵器の製造、使用の絶対禁止は原爆都市長崎市民の悲願である。いまその実現を諸国民の良識に訴え、これを世界に宣言する」(「長崎市平和宣言集」)
1961/8/10
第7回原水禁世界大会予備会議で日本原水協が打ち出した「原水禁運動をイデオロギーから切り離す」という大会基調に中国などアジア・アフリカ諸国が反発。大会運営委員長の佐野文一郎氏(総評)が辞表を提出
1961/8/10
ケネディ米大統領が記者会見。「核実験停止問題で最後の交渉を試みるが、失敗すれば実験再開」
1961/8/11
広島など全国15カ所から出発した日本原水協の平和大行進が59日ぶりに東京に到着
1961/8/11
原爆症に苦しむ37歳の山口県の男性が「自分の死体を原爆犠牲者の資料に」との遺書を残して広島市で自殺
1961/8/12
第7回原水爆禁止世界大会が東京・台東体育館で始まる。27カ国112人の外国代表をはじめ約1万人が参加。13日、法政大で開かれた分散会では「平和の敵が米帝国主義者であることをはっきりさせるべきだ」との強硬意見が続出し、宣言、決議の起草委員会も紛糾
1961/8/14
第7回原水爆禁止世界大会が、「核戦争政策を進めている勢力と決然と対決すべきときがきた」との宣言を採択、波乱のうちに閉幕。社会党、総評、日本青年団協議会、地婦連の4団体が日本原水協執行部に不信任を声明。「運動が『1党1派に属してはならない』という基本的態度に立って、日本原水協の不明朗な運営を是正して、だれでも参加できる運動に育て上げるため現執行部を不信任する」
1961/8/15
「核兵器禁止・平和建設国民大会」開く。東京都体育館に全労系労組、民社党各支部、全日本婦人連盟代表ら1万人が参加。「人類愛と和の精神こそが世界を人類絶滅戦から救う唯一の道と信じ、世界に核兵器禁止を訴える」との平和アピール採択。「第2原水協」の初集会
1961/8/15
日本原水協執行部の不信任声明を出した社会党、総評など4団体が懇談会を開き、内部にとどまって原水協の体質改善を目指す基本方針を確認
1961/8/15
広島市公会堂で新日本協議会(自民党系)主催の第2回平和祈念慰霊国民大祭開く
1961/8/15
広島「折鶴の会」の代表が折りづるで作った国連加盟20カ国の国旗と原爆の子の像の模型を外務省を通じ、ハマーショルド国連事務総長に贈る
1961/8/17
ソ連のボルゴグラード市から広島市議会の宮本正夫議長に姉妹都市縁組を求める電報が届く
1961/8/18
ソ連のタス通信が中央条約機構(CENTO)秘密軍事計画に関する西側文書の写しを公表。「イラン、トルコ、パキスタンなど同条約加盟国のソ連国境に核爆弾を投下し、ソ連の進出を食い止める計画も含まれる」
1961/8/18
社会党が原水禁運動に対する今後の基本方針まとめる。第7回大会が一方的な運営で共産党の政治路線の押し付けになったとし、日本原水協の体質改善に重点
1961/8/19
金沢市菊川少年連盟三広子ども会が平和への祈りを込めて作った「折りづるの歌」のレコードが広島原爆病院に届く
1961/8/20
関西視察中のミコヤン・ソ連第一副首相が京都で記者会見。「核兵器全面禁止協定ができないうちは、中国も核兵器を有する権利を持っている」
1961/8/20
ソ連青年共産同盟機関紙のコムソモリスカヤ・プラウダが「ソ連のある工場で水爆弾頭付きロケットを年間250発生産」と報じる
1961/8/22
第7回原水爆禁止大阪大会開く。大阪プールに1万5,000人参加
1961/8/26
人形峠や京都府宮津など有望なウラン鉱床を5年間にわたり探鉱してきたウラン・トリウム鉱物研究委員会が岡山県庁で解散式
1961/8/28
ジュネーブの核実験停止会議が337回目の会合。ディーン米首席代表が最小型の戦術用原子兵器を含むすべての核実験停止を提案
1961/8/29
コンクリート講習会のため広島訪問中の近藤泰夫京大名誉教授が「原爆ドームは非常に危険な状態。車の振動でも崩壊する恐れ」と、補強工事の必要性を指摘。広島市は「原形のまま補強は技術的にも無理」と消極姿勢
1961/8/30
ソ連が核実験再開を発表。1958年3月に一方的停止宣言し、同10月に一時再開して以来、2年9カ月ぶり。「北大西洋条約機構(NATO)を中核とする西欧側の武力脅迫に対抗するための手段。ソ連はTNT爆弾2,000万トン、3,000万トン、5,000万トン、1億トンに相当する超強力核爆弾の製造計画に着手した。そのような核爆弾を世界のどこにでも撃ち込めるロケットを持っている」。声明に対し、ケネディ米大統領は「全人類に危機をもたらした」と非難
1961/8/30
世界宗教者平和会議開く。広島市の平和記念館に米ソなど8カ国22人の外国代表ら150人が参加。軍備全廃、核実験再開反対など4項目の広島アピールを採択
1961/8/31
原水禁広島協議会がソ連に核実験再開の中止を要請する電報。理事会では「即刻抗議すべき」との意見が出たが、「ソ連が再開せざるをえなかった理由がはっきりするまで態度を決めるべきではない」との慎重論があったための折衷案。核兵器禁止・平和建設国民会議(核禁会議)も「すみやかに決定を取り消すよう」との声明を採択、フルシチョフ・ソ連首相に送付へ
1961/8/31
ジュネーブの核実験停止会議は、ソ連の核実験再開発表のため無期限休会に
1961/8/31
米政府原子力委員会が、原子核の構造と行動を研究するのに重要な役割を果たす新しい素粒子「オメガ中間子」の存在を確認したと発表
1961/8/31
米上院のトーマス・J・ドッド氏ら13人の議員が上院本会議に核実験再開の要請決議案を提出
1961/8/--
原爆孤児となり流浪生活の果て7月に姫路市内で病死した青年の知人が、「このままでは無縁仏になる」と原爆で失った青年の戸籍復活に奔走
1961/8/--
米コロラド州ボルダー市のJ・O・ヒックマン市長から広島市に平和宣言。「16年前の広島市民の苦しみをしのび、8月6日を広島デーとすることを世界に宣言」
1961/8/--
中国新聞社が、国内刊行物を中心に収集した633点の原爆関係文献の目録を作成。未収集分を加えると関係文献はこの10倍と推定
1961/8/--
広島市原爆対策促進特別委員会(広島市、市議会で構成)が被爆者健康手帳の交付適正化で審査機関の設置を決定。原爆医療法の「2キロ制限」撤廃要請に対し、大蔵省から「手帳の交付が安易に行われている」と指摘されたため
1961/8/--
インドの4人の詩人によるアンソロジー「ヒロシマ」が中国新聞社に届く。ボンベイの国際雑誌「ユナイテッド・アジア」誌の付録で、T・K・ラジャ・ラトナム氏の「8月15日の朝」など1946年から50年までに書かれた4編の作品で構成
1961/8/--
原爆医療法の「2キロ制限」撤廃に大蔵省が難色。1962年度からの医療給付枠の拡大は困難に
1961/8/--
大田洋子さんの随筆集「八十歳」発刊

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