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ヒストリー

ヒロシマの記録1960 1月


1960/1/2
エメリヤノフ・ソ連原子力利用庁長官が「米ソ両国は熱核研究を共同で行うことができよう」と言明。モスクワ放送が伝える
1960/1/3
フルシチョフ・ソ連首相が「ソ連は西欧側がやらない限り核実験再開はしない」と言明。アルゼンチンの新聞との会見。プラウダは「核実験停止期間の延長を中止するとの米決定に驚いている」
1960/1/3
広島市の平和記念公園で広島「折鶴の会」がサハラ砂漠仏核実験中止を訴える「書きぞめ署名運動」
1960/1/4
国連食糧農業機関(FAO)が世界の食糧の放射能汚染を認め、各国政府に農業権威者による放射能委員会をつくるとともに、放射能の全般的問題について研究活動を行うよう勧告
1960/1/4
イランのバハイ運動(世界人類の融和運動)の著名な指導者ショアオラ・アライ氏が広島市を訪問
1960/1/5
日本原子力研究所の国産第1号炉本体工事着工を延期。原子力局の工事認可が下りず
1960/1/6
仏在住の米作家アイラ・モリス、エディタ・モリス夫妻から原爆をテーマにしたエディタさんの小説「ヒロシマの花」が広島市に届く
1960/1/6
原子力委員会が菊池正士委員の日本原子力研究所理事長就任に伴う後任に国立遺伝学研究所所長木原均氏決める。非常勤委員
1960/1/7
ジョセフ・ロットブラット教授、バートランド・ラッセル卿ら英の著名な学者、劇作家、宗教家、音楽家ら58人が米に対し、「核実験停止不延長決定を再考するよう」要請する声明
1960/1/7
アイゼンハワー米大統領が年頭教書。「平和への道は12日からジュネーブで再開される米英ソ3国核実験停止会議によって開かれるかもしれない。再開に当たって政治的日和見主義ではなく真理を交渉のよりどころ」
1960/1/11
放射能の影響調査に関する国連科学委員会第7回委員会が始まる。日本からは塚本憲甫放射線医学総合研究所長、三宅泰雄東京教育大教授、桧山義夫東大教授、田島英三立教大教授が参加。放射性降下物の物理的考察、微量放射線と遺伝への影響問題などテーマ
1960/1/11
原子燃料公社が国産金属ウランの地金を使って天然ウラン燃料棒試作に成功と発表
1960/1/11
米がソ連の中部太平洋におけるミサイル実験には抗議しないと発表▽藤山愛一郎外相は「ソ連に注意を喚起したい」
1960/1/11
原爆医療法関係の1960年度予算が総額2億5万7,000円で決定。改正法に対し5,659万5,000円、現行法に1億4,346万2,000円
1960/1/12
米英ソ3国によるジュネーブ核実験停止会議が再開。151回目。ツァラプキン・ソ連代表「双方が非難を加え合うことは何の役にも立たない」
1960/1/12
広島市役所で世界連邦平和都市協議会(会長、三木行治岡山県知事)常任理事会。加盟自治体は広島、岡山、鳥取、富山、長野、石川、和歌山、福岡、熊本の9県182市町村
1960/1/14
フルシチョフ・ソ連首相が最高会議で演説。「西欧諸国が原水爆実験を開始しない限り核実験は再開しない。ソ連政府はあらゆる種類の核実験は停止されねばならないと考える」
1960/1/16
被爆15周年の第6回原水爆禁止世界大会広島開催について原水禁広島協議会、広島市などが検討に入る。しかし、前年の第5回大会をめぐり政府、自民党の日本原水協批判や広島県議会自民党の補助金削除問題、地域団体の消極化などから慎重論が台頭。新日本協議会広島支部による8月6日を中心に全国から1万人を集めて太平洋戦争殉国者慰霊国民大会、世界平和祈念国民大会開催、「第2原水協」結成の動きなども出る。中国新聞解説記事
1960/1/16
第6回原水爆禁止世界大会の広島開催をめぐり日本原水協の中村いく常任理事、黒田秀俊事務局長、藤田毅日教組共闘部長、佐野文一郎総評政治部長、日本平和委員会の熊倉啓安氏らが地元の意向を聞くため広島入り。浜井広島市長が見解。「8月6日は避けてほしい。寄付その他の物質的援助はできない。左右の対立は起こらないよう考慮してほしい。これまで原水爆禁止運動は被爆地と密接につながって発展してきたものであり、精神的な協力は惜しまない」。原水禁広島協議会は「被爆者救援問題を積極的に取り上げ、募金など地元負担を極力少なくする」を条件に引き受けの意向強まる
1960/1/17
仏国防省がサハラ砂漠上空飛行に警告。「この指令は今後数カ月有効になろう。サハラ中央は飛行禁止、周辺地域は3,000メートル以上の上空を飛行、その間たえず仏政府と連絡をとらなければならない」
1960/1/17
民主社会党(民社党)準備会が日本原水協の運動を「国際共産主義の性格から脱却できない偏向した平和運動」と批判し、新たな国民運動方針打ち出す
1960/1/19
シチズン商事が平和記念公園に花時計を寄贈し起工式。平和大橋西詰め
1960/1/19
原水爆禁止広島市協議会が平和記念館で理事会を開き、第6回原水禁世界大会の広島開催を討議。市関係者のほか森滝市郎、吉川清氏らが出席。反対論は出ず
1960/1/20
原水爆の悲惨さを訴え、被爆者との連帯を深めようと「原水爆禁止広島母の会」(升川貴志栄代表)が発足。原水禁運動が季節的な運動では被爆の実相を訴えることはできないと機関誌「ひろしまの河」を発行へ(1965・3・21、「平和関係団体調査報告書」)
1960/1/20
ソ連が太平洋へ多段式弾頭ロケットの発射に成功。1万2,500キロを飛び、目標地点の2キロ内に到達。21日のモスクワ放送が伝える。米に深刻な衝撃
1960/1/20
日米新安保条約の調印を終えた岸首相がワシントンで記者会見。「日米関係は第2世紀を迎えた。人類最初の核被害者である日本国民の願いは、核実験停止条約がすみやかに成立することであり、それが全般的軍縮交渉の成功への道を切り開く契機となることである」
1960/1/20
原水爆禁止運動福山推進連盟(会長、徳永豊福山市長)が常任理事、幹事会。「世界大会の広島開催は賛成。しかし、8月6日は祈りの日とする。大会基調は日米安保条約だけでなくSEATO、NATO、中ソ条約などすべての軍事協定、防衛条約に反対するべきだ」
1960/1/21
「原水禁世界大会の広島開催は原爆記念日を避けよ」-。中国新聞社説が主張。「(開催地については)原水協と市当局との話し合いがつけば広島市での開催もよかろう。しかしそれには8月6日の原爆記念日を避けてほしい。この日は広島市民が静かな祈りと心温まる法要によって亡き人々を慰めたい。これは広島市民全体の心であり、それがまた原爆許すまじの心にも通じる。ハデな集会や示威運動もこの日はやめて祈りの日にあてたい。われわれはこういう提案を久しくもちつづけてきたのである」
1960/1/22
「第6回原水禁世界大会は東京開催を希望」-。原水禁広島協議会が世界大会広島開催をめぐって結論。労組、学生、共産党の代表が「運動を前進させるためには政府の政策と対決を強く打ち出すべきだ。『広島へ』という感情に安易にのっかった行き方では運動の発展は望めない」と東京開催を主張。被爆者団体は「広島で開き被爆者の声を聞いてほしい。われわれの訴えを原水爆禁止運動の中で生かすことが運動をさらに前進させるものだ」と主張したが、多数決で東京開催を要望へ
1960/1/22
平塩五男、宮本新一広島県議会正副議長と木野藤雄、増村明一広島市議会正副議長が「日本原水協、新日本協議会とも8月に予定している大会、大祭の広島開催は遠慮してもらいたい」と声明。日本原水協などは反発
1960/1/22
放射能の影響に関する国連科学委員会が閉幕。「成層圏内の放射能集積は北極圏に近い高緯度地域の方が低緯度地域より高く、南半球は北半球の三分の一程度」
1960/1/22
新日本協議会の高木尊之広島県支部長が平塩五男広島県議会議長と木野藤雄広島市議会議長を訪ね、殉国者慰霊国民大祭の広島開催中止は、準備も進んでいるので結論を待ってほしいと要請
1960/1/23
日本原水協が運動方針、開催地問題などで基本方針。「開催地が東京になってもなんらかの集会を被爆地広島で持ってほしい。北海道から沖縄を結ぶ平和行進を起こし全国の基地と都道府県庁所在地を通過する。日本の軍事同盟強化に反対し、日中国交回復促進をはかる。日本を中心とする極東、太平洋地域に非核武装地帯を設置し極東での新しい集団安全保障体制実現を呼びかける」
1960/1/24
元広島ABCCの所員アール・レイノルズ氏が広島市入り。広島永住を希望し広島大での研究活動の可能性を確かめるため。「中部太平洋の核実験立ち入り禁止区域に入ったため逮捕され現在控訴中。広島永住の希望も判決の結果いかんによる。訴えが認められなければ懲役2年の1審判決に従う」。米オハイオ州生まれ。シカゴ大で人類学を専攻、ウィスコンシン大で博士号。1951年から54年までABCCで放射能が子供の成長に与える影響を研究、54年10月世界一周航海のため広島を出港
1960/1/24
原水禁広島協議会が平塩五男広島県議会議長ら4者声明に反論。「4者の申し入れは原水禁運動の歴史的な努力と業績を正しく認識しておらず、県市民の素朴な感情をある政治目的のためにゆがめている。祈りと慰霊の美名に隠れて原水爆禁止への強い願いを抹消しようとする特定団体の動きと原水協の動きを同一視している」。25日に県、市議会正副議長に抗議文を手渡す
1960/1/26
チュニジア、モロッコ両国が米政府にサハラ砂漠での仏核実験中止を斡旋するよう要請。米政府は「考慮する」と回答。米国務省が発表
1960/1/27
民主社会党が西尾末広委員長名で米ソ英仏の4カ国に一日も早い国際軍縮協定を望むアピール
1960/1/28
中国新聞社と同社会事業団が広島原爆病院内の原対協に書籍400冊と書棚を贈る。同事業団が全国の出版社に「原爆被爆者に愛の手を」と呼びかけ集めた
1960/1/28
日本原水協が東京・芝で拡大常任理事会。第6回大会の日程、場所は結論持ち越し。運動方針の中の「新安保条約批准阻止と安保体制打破」について主婦連、日青協などから「政治的なスローガンを掲げると弱い層は原水爆禁止運動から離脱する」と異論。しかし、「安保はだれのプラスになりだれのマイナスになるかという生活問題と結び付けて説得すれば運動は進展する」と原案通り決定
1960/1/30
米政府原子力委員会が議会に年次報告。「今後1年間太平洋で水爆実験を行う予定はない」
1960/1/30
東大生2人に4月に英国で開かれる「学生青年核軍縮国際会議」から招待状。会議にはバートランド・ラッセル卿、ラパツキー・ポーランド外相、マンデス仏元首相らが出席。2人は向井洋、橘隆志君
1960/1/31
原水禁広島協議会が平和記念館で臨時総会。運動方針として軍備撤廃と冷戦終結による平和共存実現を中心目標とすることなどを決定。役員改選と事務局長制を導入し事務局体制を強化。理事長に森滝市郎氏、副理事長に県労、県婦協、市原水協、平和文化団体から1人ずつ、事務局長に伊藤満氏、専門委員に佐久間澄氏
1960/1/31
広島・長崎原爆被爆者援護対策協議会(会長、平塩五男広島県議会議長)が広島県庁で初の大会。広島選出の4自民党代議士、県市関係者、住田政之助長崎市議会議長、約600人の被爆者が参加。政府、国会に被爆者予算増額の感謝決議の後、(1)広島市内は学区単位、以外は各市町村単位に支部を結成(2)被爆15周年で死没者慰霊祭を開く-などを決定。「被爆者は政治闘争に巻き込まれず、援護問題と取り組んでほしい」とアピール
1960/1/31
全国労音の招きで来日中のソ連ピアニスト、パーレル・セレブリヤコフ氏が広島市の平和記念館で「広島市民に捧げる曲」を披露
1960/1/31
ソ連の作家で月刊誌「外国文学」編集長のチャコフスキー氏が作家堀田善衛氏とともに広島市を訪問
1960/1/--
広島市のがん死亡率は20%で全国平均15.5%を上回る。市保健局が調査。死亡者の20%は被爆者

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