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ヒストリー

ヒロシマの記録1960 3月


1960/3/1
広島市が原爆被爆者の健康診断受診率アップのため3月を「原爆被爆者健康診断強調月間」に
1960/3/1
東京、広島などで「3・1ビキニ被災6周年記念国民大会」。広島=原水禁広島協議会、安保改定阻止県民共闘会議、県平和委員会が主催し基町の児童文化会館で県民大会。1,500人が参加。(1)ジュネーブの核実験停止会議での実験禁止協定締結(2)原水爆の完全禁止と軍備全廃(3)新安保条約の批准阻止-など決議。東京=文京公会堂に浅沼稲次郎社会党書記長、神山茂夫共産党中央委員、詩人の深尾須磨子さんら2,000人が参加。劇団文化座の五月女道子さんが「ヒロシマの空」の詩を朗読。元第五福竜丸乗組員の見崎吉男さんが「1954年3月1日以来運命は大きく変わった。放射能の恐怖に脅かされ、ドン底生活」と訴え
1960/3/1
政府が「原爆医療法改正案」を衆院へ提出。改正案は(1)医療給付の範囲を大半の病気をカバーするまで拡大(2)年収20万円以下の場合、治療期間中に医療手当(月2,000円内)を支給(3)入、通院の交通費も実費支給(4)指定医療機関を健康保険医まで拡大
1960/3/1
国連アジア・アフリカグループ29カ国全体会議が仏のサハラ砂漠核実験に抗議するため国連特別総会の招集を要求
1960/3/3
米核政策健全化委員会ボストン支部から浜井広島市長に「米国民は原爆の恐ろしさを十分に知らされていない。関係資料を送ってほしい」と依頼の手紙
1960/3/4
民社党最高顧問の片山哲氏が日本原水協理事長の安井郁氏に「所属政党が変わっても一人のクリスチャンとして今の原水協にとどまる」と述べる
1960/3/5
米誌「パレード」が「最近中部太平洋でソ連が実施したミサイル実験は双頭ミサイル」と報道
1960/3/5
民社党が政府提案の「原爆医療法改正案」に修正案。(1)爆心地からほぼ2キロ内を対象にした医療給付を全被爆者健康手帳保持者に(2)栄養補給、出産給付を新設(3)生活保護に原爆障害加算を新たに設ける(4)原爆症総合研究所を設置
1960/3/8
原爆で両親を失い広島市立戦災児育成所で育った24歳の青年が中央大学に合格。同育成所からの大学進学者は9人目
1960/3/8
日本原子力研究所が1960年度事業計画発表。6月に出力1万キロワットの2号炉の運転開始、リニア・アクセラレーター、ホット・ラボの完成など
1960/3/8
フルシチョフ・ソ連首相がアイゼンハワー米大統領に「米がNATOに核兵器を供給すればソ連も同盟国に供給せざるを得ない」と秘密の抗議書簡。3月19日付ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンが報道▽アイゼンハワー大統領はフルシチョフ首相に「米は今のところ同盟国に核兵器を渡すつもりはない」と回答
1960/3/10
国立アカデミー・ウィーン合唱団25人が広島原爆病院で慰問演奏、原爆慰霊碑を参拝
1960/3/10
原対協への1959年度のお年玉付き年賀はがき寄付金の配分額が3,500万円に決まる。58年分と合わせ4,700万円に。広島原爆被爆者福祉センター着工のメドつく
1960/3/12
バナジー駐日インド代理大使が広島市の広島「憩いの家」を訪れ被爆者約60人と懇談
1960/3/13
チェコスロバキア作家同盟のフランチセク・ブリヤネック、ヤン・ロズネル氏が広島市を訪れ中国新聞ホールで「外国文学を語る会」
1960/3/14
国連アジア・アフリカグループが要求したサハラ核実験に関する国連特別総会招集要求の書簡に日本は署名せず
1960/3/15
東西10カ国軍縮委員会がジュネーブで開幕。西側は米、英、仏、カナダ、イタリア、東側はソ連、ポーランド。西側が国際軍縮機構の下で核その他の大量破壊兵器の全面禁止を目的にした3段階軍縮案を提案
1960/3/16
米政府原子力委員会が1961年、ニューメキシコ州の岩塩層で平和目的の地下核実験を行うと予告発表。実験名「ノーム」(地の精)
1960/3/19
東西10カ国軍縮委員会で西側が示した3段階軍縮案を、ソ連が条件付きで受け入れ。米提案の前段をそのままのみ、探知が困難な小型地下爆発については、探知方法を共同研究しその間は紳士協定で停止を続行
1960/3/21
第2次原爆文学論争。詩人の栗原貞子氏が中国新聞に2回にわたって「広島の文学をめぐってアウシュビッツとヒロシマ」を寄稿。広島文学に原爆と正面から向き合った「参加の文学」の必要性を主張 1960/3/25
広島「折鶴の会」が2月22日に広島原爆病院で亡くなった広島市段原東町の前田静江さんの追悼式。前田さんは顔全面にケロイド。前年12月発病以来、サハラ核実験に反対の署名に加わるなど病床から平和を訴え続けた
1960/3/25
広島県被団協が広島県に対し「誤解に基づき排斥され、県費の助成金要請が見送られたのは納得できない」と抗議。1960年度県予算で平塩五男県議会議長が会長をつとめる新設の「広島・長崎原爆被爆者援護対策協議会」(援対協)には30万円の補助が認められたが、被団協の事業助成請願は認められなかったため。抗議に対し、斎藤俊保県衛生部長は「援対協は被爆者の医療に伴う援護が第1目的で私的グループと異なり公平な団体。市町村長を支部長に委嘱している全県的な組織で被団協とはまったく別の性格だ」
1960/3/28
原爆被害調査研究連絡協議会(会長、都築正男日赤中央病院長)が1959年8月3日、急性白血病で死亡した海上保安庁観測船拓洋首席機関士、永野博吉氏の死因について「核実験放射能とは直接関係ない」と結論
1960/3/28
広島県議会会議室で第1回「原爆15周年慰霊式・平和記念式典準備委員会」。県市当局者、県市議会全議員、県町村会、県遺族会、県婦連の代表で構成。事務局は広島県庁援護課内
1960/3/29
アイゼンハワー米大統領とマクミラン英首相のキャンプデービッド会談が終わり共同声明。「探知可能な核実験すべての停止条約を結び、小規模の地下核爆発実験の探知についてソ連との共同研究計画を進めることを条件に小型地下核爆発実験を短期間に停止する」
1960/3/31
原水禁広島協議会の森滝市郎理事長、伊藤満事務局長が広島県を訪ね被爆者団体補助金問題で質問。斎藤俊保県衛生部長「被爆者団体には被団協、被害者の会連合会、温泉会などあるが特定団体に補助金を出すのは難しい。広島・長崎原爆被爆者援護対策協議会は、市町村長に支部長を委嘱しており行政効果をあげるのに効果的」
1960/3/--
世界キリスト教協議会(本部ジュネーブ)から広島YMCA内の被爆者センターにチーズ、粉ミルク、小麦粉など届く
1960/3/--
水産庁内海区水産研究所が広島湾のノリから放射性元素ルテニウム106を検出
1960/3/--
韓国へわたった原爆孤児友田典弘君が帰国へ。ソウル市長と広島市長の努力実る
1960/3/--
広島市医師会が原爆被災で犠牲となった会員のための慰霊碑と記録画の制作を決める。慰霊碑は広島市下中町の平和大通り沿いに建立。医師のことを「国手」とも呼び苦痛の人たちに救いの手をさしのべるといったことから平和、慈愛の「手」を抽象化して表現。コンクリート製、高さ13メートル、幅4.5メートル。市内の設計士、河内義就、上野勇氏がデザイン。記録画は市内の画家、福井芳郎氏が描き医師会館内に展示

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