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ヒストリー

ヒロシマの記録1960 5月


1960/5/1
仏政府がコルシカ島に建設中の地下核実験センター計画中止へ。島民25万人から強硬な反対
1960/5/2
原爆医療法の改正に伴い精密検査受診者に交通費支給。広島市周辺部50円、中央部30円
1960/5/2
広島市宇品町の広島「憩いの家」が開設3周年パーティー。1957年の開設以来、約2万2,000人が利用。斎藤俊保広島県衛生部長、志水清広島市保健局長、木野藤雄広島市議会議長、重藤文夫広島原爆病院長らが出席
1960/5/5
広島「折鶴の会」が原爆ドーム保存のための署名と募金運動開始を決める。4月に亡くなった楮山ヒロ子さんが1959年8月6日の日記で「あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも、恐るべき原爆を後世にうったえてくれるだろう」と記していたのが動機(「アンヘルの名とともに-河本一郎小伝」)
1960/5/5
ソ連最高会議が、ソ連領空に進入した米偵察機U2を5月1日に撃墜したと発表
1960/5/6
メキシコのボーカル・トリオ、ロス・トレス・ディアマンテスが広島市で演奏会。原爆病院を慰問
1960/5/7
広島県議会で県市合同の「原爆15周年慰霊式・平和記念式典」の第1回準備委員会。委員長に平塩五男県議会議長、副委員長に木野藤雄市議会議長を決める
1960/5/7
米が地下核実験を再開へ。アイゼンハワー大統領「米は核実験探知方法を改善するため本年末までに一連の地下核実験を実施」。ハガチー大統領新聞係秘書「実験は原子力平和利用に限定された『兵器でない実験』」
1960/5/8
「地下核実験は100キロトンでも確実な探知は不可能」。テラー、ベーテ、ユーレイ博士らが米議会公聴会で証言。上下両院合同原子力委員会が発表
1960/5/9
大原博夫広島県知事が宮内庁に対し、8月6日の原爆犠牲者慰霊式典に明仁皇太子夫妻の出席を要請(5・10)
1960/5/9
歌誌「林間」同人吉光義雄氏が「再び原爆文学について~中川氏に一言」。「原爆というものの素材性は、人間を考えるための道具として特別扱いしたいほど人間発見に役立つものとは考えられないのである」
1960/5/10
ジュネーブで米英ソ3国地下核実験探知専門家会議始まる
1960/5/10
米が原子力潜水艦トライトンの世界一周潜航航海成功を発表。全航程5万7,600キロ、84日間
1960/5/10
日本原水協の安井郁理事長、河崎なつ、野々宮初枝常任理事らが在日ソ連大使館を訪ね、フルシチョフ首相にあてた書簡を託す。5月16日からの世界首脳会談の成功を望みフ首相の軍備全廃、平和共存論を支持
1960/5/11
デンマーク・コペンハーゲンで開かれた第10回国際婦人会議に日本代表団団長として出席した呉市警固屋小教諭、宇根内良子さんが広島帰着。「会議は74カ国から1,000人が参加。核兵器保有4大国と10カ国軍縮会議にメッセージを送ることを決議した」
1960/5/12
広島市原爆被害者の会連合会(会長、浜井広島市長)が広島市婦人会館で新組織結成以来の初の理事会。1960年度事業として被爆者健康手帳交付の促進、被爆者健康診断の完全実施などを決める。新組織に反対している天満・中広、段原学区の旧被爆者の会の扱いは論議せず
1960/5/13
広島市原爆被害者の会連合会(会長、浜井広島市長)が広島県被団協に、22日に開く広島県原爆被害者大会の共催を断る。「被害者大会の運営内容がすでに決定」「被害者の会は特定の政治運動に利用されない」が理由
1960/5/13
全ソビエト労組中央評議会の文化使節団「ソビエト舞踊合唱団」の一行25人が広島市を訪問。原爆慰霊碑前で広島県労会議が主催し歓迎集会
1960/5/14
ハワイ・ホノルル市が広島市と姉妹都市縁組後、初の公式使節。邦字紙「ハワイ報知」の支配人山本常一氏がニール・ブレイズデル市長から浜井広島市長にあてたメッセージを渡す。「戦争はすでに過去のものとなった。しかし、両市は真珠湾の奇襲攻撃、原爆1号といずれも貴重な体験を積んでいる。ホノルル市民は姉妹都市の縁組が日米親善、世界平和の確立に貢献するよう希望」
1960/5/16
パリで4大国首脳会談始まる。米スパイ機問題が暗い影落とす。核実験停止問題は仏抜きで実施
1960/5/16
原水爆禁止広島市協議会(会長、浜井広島市長)が平和記念館で理事会。東京で開かれる第6回原水禁世界大会に20人程度の代表派遣を決定 v
1960/5/17
ロサンゼルスに住む米理想哲学会会長のウォルター・ベニングトン氏が広島原爆病院を訪れ、入院患者3人の声を1時間にわたり録音。「東西の緊張緩和のため原爆被害者の声を米の有識者に聞かせたい」
1960/5/17
米ソ英仏首脳会談流会。U2問題で会談に入れず。フルシチョフ・ソ連首相が帰国
1960/5/18
米のヒロシマ・ピース・センター協力会が浜井広島市長あてに「募金緩慢のため教育資金送付果たせず」と連絡
1960/5/19
ウィルヘルム・ハース駐日西ドイツ大使夫妻が広島日独協会(森戸辰男会長)の招きで広島市を訪れ原爆慰霊碑など参拝
1960/5/19
大空詩人こと東京・世田谷区の永井叔さんが原爆病院をマンドリン慰問
1960/5/22
広島県被団協の原爆被害者大会が広島市の中央公民館で開く。浜井広島市長、森滝市郎理事長、俳優滝沢修氏ら約600人が参加。「被爆者に対する完全な国家補償を一日も早く実現」などを決議
1960/5/24
広島で文化活動をしている若い人たちがつくった「若い広島の会」(代表世話人、松本寛氏)が中国新聞ビルで発会式
1960/5/25
世界平和アピール7人委員会が新安保条約強行採決でマヒ状態となっている国会情勢に対し、「一日も早く正常化に努力し、世界に向かって強く緊張緩和を訴えるべき」とのアピールを発表。当初、「国内問題にタッチすべきでない」との前田多門委員の反対があったが、緊急事態として7人委の最大公約数の意見をまとめる
1960/5/25
広島市原爆被害者の会連合会が世界キリスト教奉仕団からの小麦粉、粉乳などを被爆者家庭に配布
1960/5/25
広島県山県郡戸河内町の上殿小児童が広島赤十字病院と広島原爆病院を山ユリ慰問。1951年から毎年、10年目
1960/5/28
日本原水協が東京・新橋の本部で緊急常任理事会。岸内閣退陣とアイゼンハワー米大統領の訪日中止を決議、6月1~7月31日を「新安保粉砕、核武装阻止国民行動月間」と決める
1960/5/29
豊田清史広島幟町中教諭が故佐々木禎子さん一家の九州転居を「千羽鶴一家の逃亡」と題して中国新聞コラムに掲載
1960/5/29
西ドイツのジャーナリストで作家でもあるロベルト・ユンク氏がテレビロケのため広島市入り。作品は自著「灰墟の光」にもとづき撮影。「フィルムはドイツ6局で45分番組として10月10日から放送する」
1960/5/29
来日中のマラヤ青年クラブ連盟代表団12人が広島市を訪問。団長のアブドーラ氏「原爆でマラヤの友人2人が亡くなっており彼らの墓参りもしたい」
1960/5/29
原水禁広島協議会(森滝市郎理事長)が県教育会館で全県拡大理事会を開き、原水爆禁止を約束しない限りアイゼンハワー米大統領の訪日反対を決める
1960/5/--
兵庫県尼崎市で世界連邦平和都市協議会第3回総会、同第7回全国大会。平和都市宣言をしている全国205県市町村中、200県市町村が参加、運動が超党派であることなどを確認。故賀川豊彦氏のノーベル平和賞受賞促進働きかけを決定
1960/5/--
大分県原爆被害者対策協議会事務局長の広瀬重信氏が広島市役所を訪れ、「被爆者のためにつくられた原子爆弾被爆者別府温泉利用研究所を利用して」と要請
1960/5/--
原水禁広島協議会が6月から広島県内で県民平和大行進。5コース、500キロ、100万人を目標
1960/5/--
広島市中広中学校の校庭に被爆したまま放置の骨組みだけの講堂残る。約300平方メートル
1960/5/--
「激しさ増す保守、右翼系の被爆者切り崩し」。中国新聞が伝える。新日本協議会広島支部(高木尊之支部長)を中心に「偽装平和の原水爆禁止協議会から離れ、静かな祈りの大会を広島で開こう」「被爆者救援運動と原水禁運動を切り離そう」の運動強まる。一部被爆者を含め広島県遺族会、広島市小学校PTA、原爆被害者の会、広島市婦人会連合会、広島県町村長会、同議長会などが同調。中央団体もボーイスカウト連盟久留島秀三郎理事長、生長の家谷口雅春総裁、神社本庁富岡盛彦総長、三菱電機高杉晋一会長、元防衛庁長官木村篤太郎氏、同文部大臣灘尾弘吉氏、偕行会今村均理事長らが支援
1960/5/--
茨城県警が原子力関係事故に対応できるよう「原子力警察」を編成。技術者の訓練と放射能測定器の購入を開始
1960/5/--
広島平和記念公園に設置する本郷新氏作の「嵐の中の母子像」のブロンズ化費用約150万円を広島財界10社で構成する「二葉会」が負担決める。後に広島市婦人会連合会が募金運動

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