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ヒストリー

ヒロシマの記録1960 7月


1960/7/1
呉市自治会連合会が原水爆禁止運動呉推進連盟(会長、松本賢一呉市長)の募金協力要請を断る。「日本原水協の運動が政治的に偏向している」が理由
1960/7/2
広島市と厚生省の被爆者健康診断予備調査まとまる。「生活困る」が40%、医療費は年額3,000円以上が22.1%
1960/7/5
厚生大臣の諮問機関の医療審議会を開き、原爆医療法改正に伴う政令を了承。「爆心から2キロ以上の被爆者も特別被爆者(2キロ以内の被爆者と現行法2条による認定患者)と同様の処遇」など
1960/7/12
原爆医療法改正案が衆院社会労働委員会で可決。(1)被爆者の医療適用範囲拡大(2)医療取扱機関の拡大(3)医療手当の給付-が骨子
1960/7/12
世界18カ国の大統領、首相に平和メッセージを依頼していた広島YMCAにスイス・プチピエール大統領、インド・ネール首相から回答
1960/7/12
日本原水協が東京・新橋の本部で全国理事会。第6回原水禁世界大会の名称を「軍備全廃をめざす第6回原水爆禁止世界大会」とする。米軍のスパイ偵察機問題で米政府に抗議するよう日本政府に要望-などを決める
1960/7/13
第3回新協美術展が大阪市立天王寺美術館で開幕。広島の福井芳郎画伯の原爆記録画「その翌日」「学徒」など特別出展。大阪では初の展示
1960/7/14
広島市婦人会連合会(村上安恵会長)が、1959年夏、日本原水協が広島市に寄付した「嵐の中の母子像」のブロンズ鋳造費150万円の募金を始める
1960/7/15
原爆医療法改正案が衆参両院の本会議で可決、成立。骨子(1)被爆者が原爆症以外の一般疾病で医療を受けた場合にも国が医療費を支給(2)原爆症患者で低所得者には医療期間中、月2,000円までの医療手当を支給
1960/7/17
群馬大医学部付属病院草津分院温泉研究室が「原爆症患者の白血球増大に草津温泉治療が効果」。広島大で開かれた日本温泉科学会で発表
1960/7/17
米の科学者ライナス・ポーリング博士がロンドンで英平和委員会に出席。「これまでに行われた核実験の結果、150万ないし300万の先天的障害児が生まれるだろう」と述べる
1960/7/18
広島県議会が8月6日、平和記念公園で開く「原爆15周年大慰霊祭」に池田勇人自民党総裁、浅沼稲次郎社会党委員長、西尾末広民社党委員長の招待を決める。後に野坂参三共産党議長も
1960/7/19
来日中のブラジルの通信社「デアリオス・アソシアドス」が広島取材のため広島市を訪問
1960/7/20
東京・尾崎記念館で広島、長崎両県市が関係国会議員、厚生、大蔵両省の係官などを招き原爆医療法改正案可決の感謝会
1960/7/20
原水禁広島協議会(森滝市郎理事長)が原水爆禁止広島大会を8月6日、原爆慰霊碑前で開催を決め市に会場使用を申請。県、県議会が難色示す
1960/7/20
米海軍が原子力潜水艦ジョージ・ワシントンから中距離弾道ミサイル(IRBM)初発射に成功
1960/7/20
広島の各種資料収集、整備を目的に「ひろしま資料連絡会」が発足。広島県立図書館、県庁統計課、広島大学図書館、浅野図書館、中国新聞調査部などが加盟。事務局はNHK広島中央放送局内
1960/7/21
ケロイド手術のため東ドイツを訪問している広島県安芸郡安芸町の川本博さんから浜井広島市長に「手術の経過は良好」との手紙
1960/7/21
明仁皇太子の被爆15周年慰霊式・平和記念式典出席が内定。準備のため伊集院東宮侍従らが広島入り(7・20)
1960/7/23
広島県、市が被爆15周年慰霊式・平和記念式典に1人でも多くの遺族、被爆者、一般参加があるようにと全国各都道府県、県内各市町村、団体、公共施設にポスター5,000枚、チラシ5万枚を配布。県内各市町村には当日午前8時15分、サイレン、鐘を鳴らすなどして全県民が一斉に黙とうをささげるよう連絡
1960/7/25
広島市が原水禁広島協議会に対し、8月6日の原爆慰霊碑前集会を許可。予定通り午前10時半から
1960/7/25
政府が「被爆15周年慰霊式・平和記念式典」に首相代理として中山マサ厚相の出席決める。池田勇人首相は「党の新政策がまとまるまでは公式の場に出席は避けるべき」の自民党内意見で出席を見送る
1960/7/26
広島市原水爆禁止協議会(会長、浜井広島市長)が平和記念館で常任理事会。(1)第6回原水禁世界大会には20人の派遣割り当てに対し10人前後を送る(2)原水禁県民大会にもできるだけ参加(3)政治的問題には取り組まない-などを決める
1960/7/26
日本原水協が全自連(全学連反主流派)について「全学連の分派であり別組織とは言えない」と判定。全自連としての原水禁大会参加は不可能に
1960/7/27
広島原爆病院が1959年7月から60年6月末までの概況を発表。死亡者は40人、肝障害13人、白血病11人、貧血症9人、肺臓がん2人など
1960/7/27
広島原爆病院運営委員会が前年(1959年)4月からの死亡者発表中止問題で論議。患者の動態は年2回か4回、詳細を発表し、死亡者をその都度発表しない。やむを得ないときは院長が報道機関の取材に応じる-で決着
1960/7/27
原子力委員会が原子力開発利用長期計画作成の基本方針。「火力発電とコスト面で競争可能になるのは1970年ごろ、さらに10年後に商業ベースに乗せ本格利用」
1960/7/27
社会党中央執行委員会が浅沼稲次郎委員長の原爆慰霊祭出席中止を決める。「東京の原水爆禁止世界大会に外国代表が参加するので、委員長は抜けられない」。民社党も西尾末広委員長に代わり曽祢益書記長が出席へ
1960/7/29
第6回原水禁世界大会に出席する中国の劉寧一総工会主席ら中国代表団13人が羽田に到着。中国は1955~58年の第1~3回大会に参加した後、日本政府の「中国敵視政策」に反発し参加を中止。岸内閣退陣、池田内閣誕生で日本政府の中国政策打診も目的の一つとみられる
1960/7/30
日本原水協の安井郁理事長が東京で第6回原水禁世界大会に関し「世界の民族独立運動を平和闘争に結び付け、全人類の力を集めよう」とのアピールを発表
1960/7/30
史上初のヨットによる世界一周に成功した「フェニックス・オブ・ヒロシマ」が1954年10月4日の出港から5年10カ月ぶりに広島に帰る。乗組員はレイノルズ夫妻、テッド君、ジェシカさん、三上仁一さんの5人
1960/7/31
広島原爆被爆者援護対策協議会(会長、平塩五男広島県議会議長)が県庁で被爆者300人参加し、原爆医療法改正感謝大会
1960/7/31
原水禁広島協議会(森滝市郎理事長)が平和記念館で代表者会議。「原水協の運動は人道主義に基づいているが、原水爆禁止につながる政治問題は回避しないで取り上げる」方針を確認。県市主催の被爆15周年記念慰霊式は「知名士を招いて単に祈りの行事に後退したもので原水爆禁止の目標や行動が不明確」と批判
1960/7/--
被爆15周年慰霊式準備委員会が慰霊式の一環として広島県内各地から広島市をめざす供養の「線香リレー」を決め、スケジュールを発表。式典に出席できない県内家庭のため
1960/7/--
福山市職組が市役所内で行われている「平和祈念慰霊国民大祭」への募金拒否を指令。原水禁大会募金と勘違いの寄付金を返すよう市に申し入れ。国民大祭募金は19日の部課長会議で決定
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新日本協議会が母体の平和祈念慰霊国民大祭実行委員会(鈴川貫一委員長)が、国民慰霊祭を8月15日に広島市公会堂で実施を決定。8月6日は避ける
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8月6日の平和記念式典に浅沼稲次郎社会党委員長、西尾末広民社党委員長の出席決まる
1960/7/--
原爆投下機の誘導観察機搭乗員のクロード・イーザリー元少佐から社会党代議士の西村関一氏(滋賀)に手紙。イーザリー氏は原爆投下後、「広島の亡霊に悩まされ精神錯乱状態になり強盗事件まで起こした」といわれる。現在はテキサス州の退役軍人病院で療養、祈りの生活。「近く退院するが退院後は核武装に反対する戦いのために余生をささげたい」
1960/7/--
第6回原水禁世界大会(東京)への全学連反主流派「全自連」の参加をめぐり主流派が「分派組織の参加は認めない」ともめる
1960/7/--
広島県山県郡原水爆禁止協議会(会長、白砂潮大朝町長)が第6回原水爆禁止世界大会に代表派遣の取りやめを決める。募金にも応じず

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