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ヒストリー

ヒロシマの記録1960 10月


1960/10/1
茨城県東海村、日本原子力研究所の第2号炉CP-5型原子炉が臨界に。最高出力1万キロワット。日本2番目の原子の火。臨界計算が狂い5時間遅れ、15本目の燃料棒挿入で臨界
1960/10/1
広島、長崎県がABCCの協力のもとに国勢調査に併せて両県内の生存原爆被害者実態調査を実施。健康状態、入院・往診・通院の有無、栄養剤・保健剤服用の有無など16項目
1960/10/2
広島県動員学徒犠牲者の会が広島県庁で第4回総会。約350人が出席し(1)動員学徒死没者の遺族に軍人並みの遺族年金を支給(2)死没者全員を速やかに靖国神社に合祭(3)障害年金の認定にはケロイド、内臓疾患を重視-などを決議
1960/10/3
日ソ協会の招きで来日公演中のソ連のバイオリニスト、ハリダ・アフチャモア女史が広島原爆病院を慰問し演奏
1960/10/3
列国議会同盟東京会議2日目。核実験完全禁止などの決議案を提案
1960/10/4
原爆障害の研究、治療のため広島大、長崎大に米から2億1,600万円。文部省で贈呈式。広島大1億1,000万円、長崎大1億600万円。広島大は付属病院内にベッド数200の病棟を建設へ。資金は戦後、余剰農産物協定によって米が日本で売りさばいた代金を積み立てた一部
1960/10/5
英労働党大会が、あらゆる核兵器の一方的廃棄要求と原爆反対の決議案を採択し、党執行部の国防政策を拒否。決議案は英機械工労組が提出し、すべての核兵器の実験、生産、貯蔵、保持を一方的に放棄するよう要求
1960/10/6
日本キリスト教奉仕団広島地方委員会の被爆者福祉センターが施設を拡充、再発足。広島相互銀行八丁堀支店が部屋を提供。センター中心メンバーは米人宣教師マービン・タックさんや渡辺正治さん
1960/10/7
「西ドイツがロケット核軍備すれば、ソ連は対抗措置をとる」。プーシキン・ソ連外務次官が米に覚書を手渡す。モスクワ放送が報道
1960/10/8
原水爆禁止・戦争反対を訴えて小型車で日本一周をしていた広島市楽友会の大木たけし氏ら2人が原爆慰霊碑前に帰着。6月11日出発、走行距離約2万9,000キロ
1960/10/10
超高空核実験も探知-。京大理学部地球物理学教室の前田坦(ひろし)教授が地磁気の変化で突き止める。京大で開かれた地球電気磁気学会で発表
1960/10/10
米最高裁がカリフォルニア工大教授ライナス・ポーリング博士、故賀川豊彦氏、英のバートランド・ラッセル卿らが起こしていた米核実験停止要求の訴えを両当事者の合意で取り下げ。原告と米政府の間で「現在、核実験は停止されているので判決の時期が熟していない」と合意
1960/10/11
広島県安芸郡矢野町で同郡原爆被害者団体連合会主催の原爆被害者大会。医療手当増額などを決議
1960/10/12
原爆で引き裂かれた親子が15年ぶりに対面。広島市の瀬川博、菊江夫妻と広島市童心園の中村克己君。「この子を捜そう」という新聞記事がきっかけ
1960/10/14
米政府原子力委員会が高空核爆発を探知する新装置を発表
1960/10/14
スカンジナビア航空が招いた欧米の記者30人が広島市を訪問
1960/10/15
「広島の反省と検討」と題し栗原貞子さんが中国新聞に今堀誠二氏著「原水爆時代を読んで」を寄稿
1960/10/16
広島市内の被爆者13人が鳥取県三朝温泉へ温泉治療に出発。広島市原爆被害者の会連合会の主催で三朝町と岡山大三朝温泉研究所が協力。5月の30人、8月の6人に続き3回目
1960/10/18
広島「折鶴の会」の招きでインドから児童の平和使節。広島市幟町中学、段原小で交流会
1960/10/24
仏国民議会が政府提出の核武装法案をめぐり討議拒否動議を否決(18日)し、不信任動議も否決
1960/10/27
初のポラリス・ミサイル装備原子力潜水艦ジョージ・ワシントンが11月15日就役。米海軍が発表
1960/10/31
ジュネーブの米英ソ3国核実験停止会議2周年。スチール米代表が「ソ連が核実験に対する最小限の管理に同意しないなら米は会議から脱退」と警告
1960/10/--
米政府の機密事項を明らかにしながら原爆はなぜ投下されたかに迫る「もはや高地なしヒロシマ原爆投下の秘密」が出版。F・ニーベル、C・ベイリー氏共著。笹川正博、杉淵玲子氏訳。光文社カッパ・ブックス刊
1960/10/--
日本沿岸などの海水、海洋生物、海底沈澱物に堆積する放射能量が増加の一途-。東海区水産研究所など水産庁研究所がまとめる

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