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ヒストリー

ヒロシマの記録1960 12月


1960/12/1
西欧同盟(WEU)総会が北大西洋条約機構(NATO)に核装備部隊の設置を呼びかけた決議を採択。NATO理事会に提出へ
1960/12/1
日本原水協と中国ブロック原水協が主催し、原水爆禁止・被爆者激励広島大会を広島市公会堂で開く。約1,400人が参加。森滝市郎原水禁広島協議会理事長、大原亨代議士、浜井広島市長らのあいさつに続き日本原水協の堀真琴専門委員、広島協議会の桧垣益人氏、新劇人会議の関京子さんらが意見発表。10月から全国で集められた被爆者援護募金85万円が広島協議会に寄託される。原水禁広島協議会と広島市協議会から出された「原爆ドーム取り壊し反対」の緊急動議を満場一致で採択
1960/12/1
ガーナ、モロッコ、ギニア、エチオピア、マリの5カ国が、国連総会第1委員会にアフリカでの核実験禁止を要求する決議案を提出
1960/12/2
広島市大手町の平和会館で日本原水協が常任理事会。1961年8月の第7回原水禁世界大会の開催(開催地は未定)をはじめ、新島基地反対闘争を拠点とし全国的に基地反対闘争を盛り上げ、軍備全廃をめざす国際共同行動のために国際遊説団派遣-などの方針決める
1960/12/2
日本原水協の代表が広島市役所を訪れ、加藤政夫助役に原爆ドームの保存を要望。「原爆ドームは世界の原水禁運動の象徴だ。運動のマイナスにならないよう保存するべきだ。できれば市議会で存置を決議してほしい」
1960/12/2
フランスのメスメル国防相がNATOへの核部隊設置拒否方針を表明
1960/12/6
米政府が広島型、長崎型の両原爆の写真を初めて公開。広島型=リトルボーイ、重量9,000ポンド(約4トン)、直径0.7メートル、高さ3メートル、長崎型=ファットマン、重量1万ポンド(約4.5トン)、直径1.5メートル、高さ3.2メートル。破壊力はいずれも通常火薬の約2万トンに相当、計15万人が死亡、と説明
1960/12/6
仏国民議会が核武装法案をめぐって提出されていた政府不信任動議を3度否決。同法案は成立
1960/12/9
京大を管理者とする関西研究用原子炉の設置場所を検討する「大学研究用原子炉設置協議会」が、設置場所に大阪府泉南郡熊取町を決める
1960/12/9
広島市皆実町の美容師沖従子さんが原爆病院入院患者を美容慰問。沖さん「3年前と昨年入院し患者さんが頭髪の処理に困っていたので慰問にきました」
1960/12/13
全国の被爆者代表約30人が「原爆医療法を援護法に切り替え、被爆者が生活保護を受けられるようにしてほしい」と国会請願。私邸の池田首相にも陳情
1960/12/16
広島原爆被害対策促進委員会が緊急委員会。当面の第1目標として原爆総合医療機関の設置促進を決める。医療法の適用範囲2キロ枠撤廃は困難な情勢のため3キロに拡大をめざす。「2キロ制限のため隣り合った家で特別被爆者になったりならなかったりしている。踏切を渡ったか、渡らないかでも問題が起きる。任意に2キロ制限を引く前に科学的な研究がなされるべきだった」
1960/12/16
NATO理事会がパリの本部で開き、米がNATOの核武装計画を提案。「ポラリス・ミサイル80基を装備した潜水艦を1963年中にNATOに提供。現行米原子力法が改正されるまで核弾頭は米が管理する。将来はNATO加盟国の多数管理にゆだねる」
1960/12/17
科学技術庁が原子力開発利用に関する長期見通しを発表。▽発電=日本の原子力発電単価は10年後は重油専焼火力に匹敵。発電規模は前期10年で100万キロワット、後期10年で600~850万キロワット。発電用原子炉はガス冷却、軽水冷却の両形式を重点開発▽原子力船=1968~70年に第1船▽核燃料=前期10年は主に輸入、後期10年は濃縮ウランの国産化とプルトニウム燃料の実用化
1960/12/19
広島原爆病院に入院中の広島県黒瀬町の19歳の女性が病室で自殺。急性骨髄性白血病を悲観したとみられる
1960/12/21
国連総会がエール、日本、ガーナ、メキシコ、モロッコの5カ国提出の核兵器拡散防止決議案を可決。「現在の核兵器保有4カ国以外の国が核兵器を持たないようすべての国が同意するよう要請」。ソ連賛成、米、英、仏は棄権。米英ソ3国核実験停止交渉の早期妥結を呼びかけるオーストリア、インド、スウェーデンの3カ国決議案、核停条約の早期締結を求める日本も参加した26カ国決議案も可決
1960/12/21
広島県教組が広島県議会に「原爆症による死亡教職員および原爆症患者の教職員に公務災害補償を適用するなどの援護措置を」と請願
1960/12/22
宮本正夫広島市議会議長、任都栗司同市原爆被害対策促進委員会委員長らが長崎市を訪れ、田川務長崎市長に「原爆被害者総合研究所」の広島建設で協力を要請。田川市長は協力約束
1960/12/23
マッカーサー元帥が「朝鮮戦争で原爆使用を望んだことはない。トルーマン元大統領が自分の失敗を覆い隠すために歴史をでっち上げようとしている」と発言
1960/12/24
日本被団協がドゴール仏大統領にあて「核実験再開やめよ」の警告文送る
1960/12/26
広島原爆病院がこの年1~11月の診療概況を発表。死亡49人。原因別では貧血症14人、肝障害14人、白血病7人など
1960/12/27
仏国防省がサハラ砂漠のレガヌで原爆実験を実施と発表。仏の核実験は3回目。原爆実験司令官のジャン・チリー将軍は実験を「ジョルボアズ・ルージュ」(赤いトビネズミ)と命名し「実験目的は核兵器技術の発展と核戦争が起きた場合の防衛方法に関する資料収集」と述べる。28日、日本政府が仏政府に抗議
1960/12/27
自民党政務調査会文教部会と文教調査会の合同部会が、広島、長崎両大学に文部省所管の原爆被害者に関する総合研究機関の新設方針を決定
1960/12/28
米の科学者ラルフ・ラップ博士が全米科学振興協会年次大会で「米は現在広島原爆5万個に相当する核兵器を保有していると思う。6年以内にさらに3万個相当分を生産することができよう」
1960/12/28
原水禁広島協議会(森滝市郎理事長)がABCCの「半径2キロ以遠の被爆者は放射能の影響が少ない」との報告に反論。(1)原爆と関係の深い貧血症などに触れていない(2)残留放射能被爆は直接被爆以上のケースが有り得た-など。論文集にまとめ反論の発表を決める
1960/12/--
広島原爆病院に付属研究所が完成。1階、検査室と病理診断室、2階は標本室と研究室。総工費820万円
1960/12/--
関忠亮氏作詞・作曲「この声きけ」。「青年歌集」第7編に収録(「原爆被災資料総目録・第2集」)
1960/12/--
筑城由二氏作詞、芥川也寸志氏作曲「声高く」。「青年歌集」第7編に収録(「原爆被災資料総目録・第2集」)

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